VJEの歩み 萩原健バックス社長に聞く(1)

はじめに 日本語入力プログラム資料収集・集積の狙いとお願い

2005年7月、マイコン草創期からMS-DOS全盛期のころに日本語入力に興味を持ったような人々に、衝撃のニュースが流れた。「VJEシリーズ、個人向けサポート終了」。既にWXや松茸のサポートが終了し、そのほかさまざまな日本語入力プログラムがひっそりと姿を消していた。

日本でパーソナルコンピューターが普及する上で欠かせなかった条件の一つに、日本語漢字仮名交じり文の入力があったことは異論を待たない。しかし、それを支えてきた黎明期の日本語入力プログラムを紹介する記事は、競争が下火になった近年特に減少し、開発史を紹介するウェブ上のリソースとしてもATOKやWnnの資料などが一部に残る程度だ。

VJE個人向けサポート終了のニュースを聞き、日本のPC普及を支えたさまざまな日本語入力プログラムについて、少しでも資料が残せないかと感じていた。そんな折、日下部さんからのメールがそっと背中を押してくれ、今回バックスの萩原社長へのインタビューが実現した。

VJEは、FEPという考え方をいち早く取り入れるとともに、操作性などからユーザーの支持を受け、PCの黎明期から普及期を支えてきた。にもかかわらず、その開発史、技術的特長について記述した資料はすでに入手困難であり、一般の目からは消え去ろうとしている。そうしたプログラムは、WXや松茸などほかにもたくさんある。今回のインタビューをきっかけに、それらの資料が集積出来ないかと考えている。これをご覧いただいた皆様には、こうした目的をご賢察の上、ご協力あるいは叱咤激励くださるよう切にお願いする。


目次

要約

バックス社長でVJE開発者の萩原健氏は、大学で応用物理学を学んだ後、富士電機に就職、コンピュータ関連の仕事をしていた。その後スピンアウトしバックス設立に参加、MS-DOSなどの移植の過程から、やがて日本語入力プログラム開発に関わることになる。

VJE-86の開発からとりあえずの最終バージョンDeltaに至るまで、萩原社長はほとんど全てに関わってきた。変換エンジン(アルゴリズム)の研究・開発は、ほぼ独学で行っていた。バックス社内の開発体制も、世間で思われていたよりはるかに小規模で、辞書の作成なども家内手工業的だった。

ベンチャー企業のはしりとも言えるバックスにとっては、VJEのパッケージビジネスはビジネスとしてはそれほど利益が上げられるものではなかったが、ポーティングビジネスのアドバルーンとして役立つだけでも十分にペイした。

しかしWindows時代に入り、一般ユーザーにとってそこそこ使える性能を有したMS-IMEが提供され、VJEにとっては大きな打撃を受けた。バックスは2004年からヤフー傘下に入った。萩原社長はヤフーで今でも言語処理技術の新たな動向を追いかけ、技術活用を図っている。(2005年8月21日インタビュー=聞き手・太田純、構成・太田純、阿部圭介、協力・日下部陽一氏)

1 バックス設立からVJE開発前史

1-1 萩原社長とコンピュータ

バックス本社写真
バックス本社

バックスの萩原健社長は、北海道大学で応用物理学を学んだ後、富士電機製造株式会社(現富士電機グループ)に入社した。大学ではコンピュータとの関わりはあまりなく、授業でフォートランがあったくらいだったという。

富士電機に入社した当時、インテルの8008が登場した。その前年に4004が出ており、社内でマイクロプロセッサを使って何か出来ないか、アイデア出しをしていた。そうしたところから、萩原氏もコンピュータに関わっていった。

富士電機は周知の通り重電の企業で、萩原社長はそこでFA、制御用のコンピュータに関わっていた。マイクロプロセッサを使った応用システムのいくつかに携わり、ハードウェアの設計もしていた。

1-2 バックス設立

萩原氏がちょうど30歳のときに、仲間と集まりスピンアウトした。そのころスピンアウトがはやっていた。大企業からスピンアウトしたベンチャー企業ソフトウェア系の会社が、いくつか新聞にも取り上げられていた。そうしたものへのあこがれがあり、会社を飛び出した。

設立当初のバックスにはハードウェアの技術者もおり、今のようなソフトハウスではなくシステムハウスとして立ち上げた。「V2100」というコンピュータシステムを作った。

太田: V2100は何か制御用の機械として作ったのですか。

萩原: ではなくて、データ処理用ですね。レセプトマシンに使うなど、主に医療関係に使われました。

太田: 医療関係は、取引先のつながりがあって入りやすかったというような経緯があるのですか。

萩原: バックスを設立したときに応援してくれた会社の人たちが、医療関係が多かったという事情がありますね。V2100にはCP/M-86を載せたんですよ。インテルの8088を使いました。データバスは8ビットなんですけど、中のインストラクションセットは完全に16ビットになっているんです。1982(昭和57)年というかなり早い時期にこうしたコンピュータを作りました。その前には、Z80を使ったV4010を作ったのがありまして、これはCP/Mが載っていましたね。

太田: CP/Mを選んだのは、汎用性を考えた結果ですか。何か外部の機器との接続を意識しましたか。

萩原: そのころはまだMS-DOSは出ていなかったですから、CP/MかRMX86くらいしか選択肢がなかったですね。CP/Mが一番安かったんですね。

太田: CP/Mは日本の代理店があって買われたのですか。

萩原: ありましたね。新宿に、確かインターフェイスという会社じゃなかったかな。今はないと思うのですが、そこでハードウェアと一緒に買ったのだと思います。

CP/Mの移植は、バックス社内で行った。I/Oはフロッピーディスクドライブのほか、キーボード、ディスプレイ、プリンタなどがあった。扱えたフロッピーディスクは、当時は8インチのシングルデンシティで、256KBくらいだった。また、4MBのハードディスクも搭載していた。ちなみに、当時のCP/Mには日本語入力プログラムはなかった。

1-3 受託ビジネス

しかし、開発したハードウェアは思うように売れなかった。草創期からバックスを一貫して支えたのは、ソフトウェアの受託開発だった。

太田: アプリケーションは載っているけれども、当時で言うマイクロコンピュータのワンセットという形で、医療関係に納入されていたということでしょうか。

萩原: たくさん売るつもりだったのですけれど、数台しか売れなくてね。

太田: ここまで型を起こして作って、数台しか売れなかったのでは厳しいものがありますね。

萩原: そうですね。ほかに受託やりながらね。スピンアウトするというのは、今はベンチャーキャピタルから資本を出してもらってやるけれども、その当時はそうじゃなかった。受託のランニングをさせながら、自分たちのお金で遊んでもいい人を何人か作って、その人たちに開発させる。誰もスピンアウトした人にお金を出してくれる人はいなかったんで、そうするしかなかったですね。

太田: 元いた会社の取引先の一部を頂くということも、当時ありましたよね。

萩原: そういうのもありましたね。でも、僕らは全然違う分野に来たので、全く元の会社との取引もなくなっちゃったんですよ。

太田: 厳しいものがあったのではないかと。

萩原: はい。ただ、お陰様でソフトの受託開発で、いろいろなところから仕事をもらったりしまして。ゲームソフトもやったりしたのですけれども。有名なものはないのですが、インベーダーゲームのころ、テーブルゲームのROMの開発を2つほどやったことがあります。残念ながら基板は捨ててしまったと思います。

そうした中、バックス設立時に社長をお願いしていた大沢保夫氏のルートで松下通工からソフトの移植を受託された。それがやがてVJE開発へとつながっていく。

萩原: 僕らがスピンアウトしたときに、会社設立のバックアップをしてくれた人が、大沢さんという国会議員の秘書をされていた方に面識があり、社長をお願いしていて。その大沢さんから松下通工を紹介してもらって、受託としてMS-DOSの移植を始めたんですよ。

太田: 移植には何人ぐらいが関わっていたでしょうか。

萩原: 基本的にはBIOSを書く仕事なので、一から書きますので、2人か3人いればどうにかなりましたね。

太田: 期間は1年とか。

萩原: 初めは半年くらい掛かりましたかね。キーボードコントローラーと、ビデオと、プリンタと、フロッピーディスクなど5つくらい書けば昔は動きましたんでね。

太田: マイブレインは、どのような顧客に納入されたのでしょうか。

萩原: 汎用パソコンだったと思いますよ。PC-9800シリーズが最初の16ビット機と言っていますが、実はマイブレイン3000は8088ベースだったものの、最初のMS-DOSマシンだったんですね。型番は確かJB-3000でした。

太田: マイブレイン3000はいつごろ出たのでしたか。

萩原: 1981(昭和56)年11月ですね。

太田: すると確かにPC-9800シリーズより早いですね。

萩原: アメリカで、IBM-PCが出た年か、その翌年ぐらいに始めたと思います。

太田: IBM-PCも最初は8088でした。

萩原: そうでしたね。

太田: 松下通工という名の通った企業の仕事を受けたわけですが、そこからバックスの仕事はどのように広がっていったでしょうか。

萩原: 松下さんとは受託ではずっとつながっていて、後継機種のJB-5000やワープロ専用機などをずっとお手伝いをしてきたんですよ。

太田: 当時は汎用パソコンといえども、お客がアプリケーションを買って使うということはなく、販売する側でものを揃えたり、開発したりする形でした。

萩原: 開発の現場しか知らないのですが、そういう形だったんでしょうね。

太田: バックスとしては、MS-DOS移植などシステムよりの仕事がメインだった。

萩原: 日本で初めてMS-DOSを移植したので、これをビジネスの柱にしようと思いました。

1-4 単語変換機能を開発

マイブレイン3000はJIS第一水準の漢字ROMを持っていたという。ROMから読んでビデオメモリに転送して漢字を表示するというBIOSだったので、BIOSが結構重かった。

太田: キーボードのデバイスドライバに、16進コードか何かで漢字を出す機能を最初から実現していましたか。

萩原: 区点コード入力を載せました。

太田: そのころは、まだ日本語入力の話は出てこなかった。

萩原: コード入力が不便すぎるということで、「どうにかならない?」と松下通工から相談を受けて。最初、読みを入力して変換出来る単漢字変換のシステムを作ったり、国語辞典を見様見まねして単語辞書を作り単語変換出来るものを作ったりと、そういうベースはありました。

太田: それはデバイスドライバではなく、アプリケーションとして作ったのですか。

萩原: まだデバイスドライバという概念がなかったんですよね、MS-DOS1.25の時代で。BIOSがROMにある基本の部分と、メモリにロードする部分もあるんですね。メモリにロードする側にかな漢字変換の機能を入れたんですよ。

太田: 単語変換機能の開発には、萩原さんが直接担当されていたのですか。

萩原: そうですね。そのころは僕がやっていましたね。

太田: どのくらい時間が掛かりましたか。

萩原: プログラムは大したことはなかったんですよ。辞書のデータを他の人たちが集めるのは、大変だったと思うのですけれども。

太田: 単語変換は、読みにマッチする単語を出してくるだけで、文法的な処理は出てきていなかった。

萩原: やっていなかったですね。

太田: 辞書単語は何語くらいだったでしょうか。

萩原: 最初集めたのが、1万とか2万くらいだったのじゃないですかね。VJE-86でもそんなに多くなく、3万3000語、300KBでした。

太田: VJE-86のときの300KBは文法辞書を含めてだと思いますが、単語変換の1万語の辞書はそれほど大きくなかった。

萩原: たぶん、100KB以下だったと思います。

しかし、この単語変換機能自体は「こういうのを作ったのですが」というところで終わってしまい、採用されなかったそうだ。会社の利益にはつながらない仕事だったが、10人も掛けるような規模でなかったから出来たということになる。

1-5 マイコンと日本語

ワープロ専用機は、1978年に東芝が出して以来、数年のうちに様々なメーカーが参入した。汎用機=パソコンはマイブレイン3000のほか、NECのPC-9801が出て、三菱のMULTI16が出た。沖電気のif800シリーズも16ビットだった。そのころはまだCP/Mが優位だった。その中でバックスがマイブレイン3000にMS-DOSを移植したことをアスキー・マイクロソフトも後押ししたらしく、富士通のFM-11のBIOSもバックスが書いた。汎用機での日本語入力は、どのような状況だったのだろうか。

萩原: 富士通さんには何を載せたかよくは覚えていないが、確か単語変換だったか、漢字入力を作ったような気がします。

太田: まだROM-BASICがあった時代だったが、ROM-BASICでは日本語を入れられたのですかね。

萩原: どうでしたかね。ROM-BASICはほとんど動かさなかったので、覚えていないですね。

バックスでは、資金の問題もあり専用機を入手・評価することはなかった。何もない状況から日本語入力プログラムを作り上げていった。(2 VJE-86を開発に続く)


作成日: 2006年 1月 15日 日曜日