これまで萩原社長の話にあった通り、設立当初のバックスはOSの移植など受託開発を行いながら、自社開発を進めていくシステムハウスだった。VJEも、その延長線上から生まれた。
VJEシリーズ |
太田: VJE開発のきっかけとなったのは、どういった仕事だったのでしょうか。
萩原: MS-DOSが2.0になるという話があって、そうするとDOSがバージョンアップするにつれ、松下さんからの受託が増えるという世界で。DOSを移植したら、「GW-BASICやMultiplanも移植したいよね」と、そういうポーティングがビジネスの主体になっていました。
太田: 開発ツールはどのようなものを使っていましたか。移植は、アセンブラベースでしたか。
萩原: アセンブラです。MS-DOSのポーティングの場合は、インテルのMDSというイン・サーキット・エミュレータ(ICE)があるんですが、それを使ったデバッグになります。
太田: Multiplanなどの移植には何を使っていましたか。
萩原: それもアセンブラですね。デバッグはMS-DOS付属のDEBUGだったと思います。
開発は全部アセンブラの時代から、徐々に高級言語を使うようになった。バックスも、先に出てきた単語変換ソフトを開発するころから、Cを使い始めたという。
Whitesmith CやLattice Cなどいくつかのコンパイラを評価し、Lattice Cに決めた。Lattice Cはライフボートが販売していた。ライフボートとはそれが縁で話をするようになり、「こんなものを作ったのだが、売ってくれないか」と持ちかけ始まったのが、VJE-86のプロジェクトだった。
太田: VJEは、初めからMS-DOSのデバイスドライバとして動くというのが基本設計だったと考えてよいですか。
萩原: そうですね。MS-DOS1.25はサードパーティがオーバーライドして、キーボードフックする仕組みがなかったので、パッケージを出せなかったんです。2.01は後から入ってきたデバイスがCONデバイスになっていたらそちらが優先されるので、そういう仕組みが実現出来る。開発したことがないPC-9800シリーズでも、そういう仕組みで使えるように出来たと。
太田: そのころ既に単語変換を開発されていたが、VJEを開発するに当たっては設計目標はどの辺りにあったでしょうか。
萩原: いやー、目標と言われても……。手探りですからね。どこまで出来るのだろうという感じで。
太田: 開発を決めたときに、どのくらいの人数でどのくらいの時間を掛けて、という目標というのは。
萩原: それはないですね。
太田: 作ってみて、もし売れるようだったら、もっと力を入れようと。
萩原: そんな感じですね。
太田: すると、リソースはあまり割けなかったと思うのですが。
萩原: 結局プログラムを書いたのは僕ともう1人。もう1人は、Aさんという優秀な女性で、付属語の処理などを全部書いてくれたんですよ。
アセンブラからCに変わったとは言え、C自体が新しい言語で、参考書も少なく、教えてくれる人もいなかった。
太田: まだ大学でCは教えていなかったと思うのですが、AさんはすべてOJTという形でやっていった。
萩原: ありましたよね、バイブルのような本が。
太田: カーニハンとリッチーの。
萩原: それを日本語訳したものを必死で読んで。それくらいしかなかったですよね。
太田: Lattice Cはあまりマニュアルも充実していなかった。
萩原: ですね。
太田: Lattice Cは当時大分癖があるコード生成で、危なっかしいような。
萩原: それは時々ありましたね。プログラムが動かないときは、コンパイラの生成文を疑って、間違ってコンパイルしているぞというのをよく見付けましたね。
太田: Lattice Cはずっと変わらず使っていましたか。
萩原: 3.0のころまで使っていましたかね。なんで変えたかという理由は、記憶がはっきりしないですけれども(註)。
VJE-86は、萩原社長がデバイスドライバとしての本体としてDOSに近い部分、カーソル制御などを作成し、Aさんは付属語やその他日本語処理などを作るという分担で、約半年で開発された。
そのころは、PC-9800シリーズのほかに市場には他の16ビットマシンがあったが、98向けが一番売れそうだということだったということで、まず手掛けたという。
註 日下部さんの情報によると、Σの途中からLattice CからMicrosoft Cに変えた。Lattice CのOEMから独自開発になったMicrosoft C 3.0が出たばかりで、Microsoft CはOptimizing CやDeSmet CやAztec-Cあたりを研究しており、かなりコードの効率がよかった。VJEは当時、64KBにコードが納まるかどうかでぎりぎりの状態で、Microsoft Cにするだけで数百バイト小さくなったのが大きな理由だったそうだ。(本文に戻る)
手探りだったのは、開発体制、言語だけでなかった。日本語入力プログラムに関する参考文献も、書物としてまとまっているものは少なく、現在と異なりウェブで情報収集することも出来なかった。
太田: そのころに、文法理論について参考になる文献がありましたか。
萩原: 僕らが参考にしたのは、先行していたワープロソフトです。あのころ、エイセルのJWORDがありましたよね。それと松が出始めたころでしたかね。
太田: まだ商品名が「日本語ワードプロセッサ」で、松という名前は社内開発名称とかグレード名だったころですかね。
萩原: ワープロ専用機は、評価するために買わなければなりませんでしたが、高くて買えなかったんですよ。パソコンソフトだったら買えるということで買って調べた。後は、大学の論文です。当時JICSTとか特許検索とか文献検索は、ウェブがなかったから、キーワードを指定すると調べてくれて、印刷物が届いた。あれで論文を結構集めましたね。
太田: 論文を読んでやり方は分かると思うのですが、どういう付属語セットがあれば解析出来るのかということまでは書いていなかったですよね。
萩原: そうですね。大学の論文を読みだしたのは、VJE-βのころだったかもしれないですね。2文節最長一致はどうしたらいいのだろうということで。それまでは付属語の解析さえ出来ればいい訳ですから、文法書を探して、そこから助詞・助動詞の振る舞いを調べて、テーブルを作っていったということになりますよね。
太田: 当時は1文節最長一致変換だった。
萩原: 連文節変換はするけれども、最長一致でどんどん選ぶという方法でしたね。
太田: 文法解析については、社内で情報集めしたので十分だったのでしょうか。
萩原: 文法書だけですんでしまいましたね。
太田: どこかの大学と共同で研究するなどはなかったのでしょうか。
萩原: やっていなかったですね。
太田: 当時同じような位置付けで日本語入力プログラムを開発していた会社は、バックスからは見えていましたでしょうか。管理工学研究所やエイセルがワープロを開発していて、8ビット機のワープロもあったと思うのですが。
萩原: 8ビット機のワープロは評価したことはないですね。確かそのころ、ジャストシステムがKTISをJS-WORDに付け始めたころかもしれないですね。
太田: まだ買ってくれる人があまりいない時代だったので、競合他社という見方はまだなかった。
萩原: なかったですね。
変換ロジックとしては、まだ1文節最長一致変換が精いっぱいのところだった。コンピュータの性能は、スピードとしては実用上問題はなかったが、メモリや補助記憶装置の容量がネックとなった。
萩原: 問題は辞書でした。マイブレイン3000も、5インチのフロッピーが扱えたけれども、160KBでした。当時の辞書は1万語で100KBだったかな。
太田: 文法処理を含む辞書だと、そのくらいの大きさになる。辞書の大きさが、一番の制約だったと。
萩原: そうですね。
太田: PC本体のメモリは、128KB程度の実装が普通でした。VJE-86はどのくらいメモリを使ったのでしょうか。
萩原: どれくらいだろう。VJE-αが64KBだったので、多分、40〜50KB程度で収まったと思います。
太田: MS-DOS上に実装されるメモリが増えるに従って、どんどんメモリを使うようになったが、当時はその程度で済んだ。
萩原: VJEが大きすぎるとアプリケーションが動かなくなりますからね。
VJEの最初のバージョンVJE-86は、ライフボートが販売元となった。販売戦略はライフボート主導で立案された。
萩原: ライフボートのTさんのアイデアで進んでいったのですけれども、VJE-86はWordMasterに付いていたんですよ。日本語が使えるエディタという売り込みでやってみようということで始まりましたね。
太田: WordMasterの日本語対応版は既に出ていたのでしょうか。
萩原: そういうことですね、はい。
太田: ライフボートはWordMasterに関しても販売代理を行っていた。
萩原: 売ってましたね、確か。
太田: WordMasterとVJE-86のペアは何本ぐらい売れたのでしょうか。
萩原: どのくらい出たんですかね。大して出ていないと思いますよ。
太田: 組み合わせて、いくらくらいだったでしょうか。
萩原: 4万8000円だったと記憶していますけど。
太田: (パンフレットのコピーを見て)先着2000人が4万8000円だったとありますが。
萩原: 2000本売れたら、すごいですねえ。実際には、(2000本には行かず)ずっとVJE-86にはWordMasterが付いていたんじゃないかと思いますよ。
太田: この値段設定は、何かを参考にしたのでしょうか。
萩原: Tさんのマーケティングですね。「日本語入力フロントプロセッサ」という名前もT さんが考えたんですよ。その後「フロントエンドプロセッサ」と呼ばれることが多くなりましたが。
太田: 一太郎の5万8000円が安いと評価されていたくらいで、ワープロはこの値段よりもはるかに高かった。ただ、ワープロを買うお客さんには、VJEとWordMasterのペアでは恐らく買っていただけないのでは。
萩原: はい、印刷出来ないですからね。ただ、VJE-86の記事がよく出ていましたね。何がいいかというと、文書を書くにはいいと。よくダウンするけれど、それでも作業効率が良いなど、よく分からない褒められかたをしていますけど。
VJEは特定のワープロソフト用の日本語入力プログラムとして開発されたわけではなく、多くのソフトで動作出来た。後にさまざまなエディタと組み合わせて使われるようになる。
太田: エディタと日本語入力プログラムのペアで仕事が出来るというものとしてはこれが初めてくらいになりますよね。
萩原: そうだと思います。
太田: 萩原さん自身は、日本語入力にはVJEとWordMasterを使っていましたか。
萩原: VJEは使っていました。ただ、どちらかというと、ラインエディタを使いこなしていましたから、EDLINか何かで文書を書いていたかもしれないですね。
太田: スクリーンエディタは、まだぜいたくなものだったかもしれないですね。
太田: このころ、VJEは商売になるという見通しはたっていましたか。パンフレットを見る限り、これで売り出そうというように感じられますが。
萩原: 受託とパッケージとバランスよくやって行こうという話があって、受託半分、パッケージ半分だと安定するよねという話はしていましたよね。これ(VJE)だけで自社ビルを建てようとか、ご飯を食べようとか、そういうことは考えていなかったですね。
太田: もう少し時間が経たないと、世の中の流れは見えてこなかったですかね。
萩原: そうですね。パソコン自体の出ている台数も少なかったじゃないですか。
しかし、PC-9800シリーズが出ていたので、フロッピーベースで出来ることは限られていたとはいえ、一般ユーザーも見ている人は見ている、買っている人は買っている、という時代でもあった。
太田: VJE-86の辞書には、どのくらいの人数が関わりましたか。
萩原: どちらかというと辞書は、パートの人を集めて作った感じなので、ずっと張り付いている担当は1人くらいでしたね。
太田: VJE-86は3万語規模だったと思いますが、単語を取捨選択する基準はありましたか。
萩原: 小型国語辞典を何冊か見て、それのANDを取って作ったような感じでしたね。どこにでも出ている語なんだから、きっと重要なのだろうと。
太田: 電子的に使えるデータは、あまり世の中に転がっていなかった。
萩原: なかったですね。国立国語研究所の新聞による語彙調査という資料があったぐらいです。
太田: 新聞や書籍でコーパスを作るようなことは、お金が掛かりそうですが、そこまではされていなかった。
萩原: ですね。辞書も手作業で入力している時代でしたからね。(3 VJEの進化に続く)
作成日: 2006年 1月 15日 日曜日 更新日: 2006年 1月 16日 月曜日