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 音楽は好き?

 大倉恭輔(実践女子短期大学)

 

 「歌は世につれ、世は歌につれ。」ということばがあります。なるほど、最近のポピュラー音楽を聴いていると、混迷化の度合いを深める社会のあり方を反映しているかのような、複雑かつ高度な音づくりがなされていることがわかります。

 とはいえ、それらの音楽に注意深く耳を傾けてみると、そこには、恋に悩み、社会の矛盾に対し、率直な疑問をぷつける若者たちの姿を見いだすことができます。音楽上の表現のしかたは違っていても、若者たちの思いは、いつの世でも変わらないということでしょうか。

 ポピュラー音楽という素材を通して、若者のコミュニケーション行動や情報行動について調査・研究を行っていると、それぞれの時代の間での、変化した部分としていない部分との見きわめがとても難しいため、一元的な「昔にくらべて」とか「今の若者は」という見方・とらえ方には、慎重にならざるを得なくなります。

 ところで、拙文をお読みの「昔の若者」であったご父母の皆様は、いったいどんな音楽を聴いていらっしやったのでしょうか?
 もちろん、フルトヴェングラー指揮するところのベートーベンを、レコードが擦り切れるまで聴き返したものだ、という方もおられるでしょう。けれど、多くの方々は、ロカビリーが好きだったとか、モダン・フォークが好きだったとか、あるいは「ロッテ・歌のアルバム」や「9500万人のポピュラー・リクエスト」を楽しみにしていたという経験をお持ちなのではないでしょうか。

 そして、エルビス・プレスリーの歌声に「シビレ」たり、「平凡」や「明星」から切り抜いた西郷輝彦の写真を、定期入れにひそませたりなさっていたことと思います。もしかすると、フォークソングのサークルに参加していた方もおられるかもしれません。

 なるほど、男性なのに女性のようなメイクをしたり、髪の毛を金髪にし、さらには、ヘアスプレーを2本も3本も使って、その金髪を逆立てて歌う姿は、異様といえば異掛です。けれども、ギターをかかえて叫ぷようにして歌うロカビリー歌手も、今見ればただの坊っちゃん刈りにすぎないビートルズも、その時代の常識からいえば、異様な風体のアンチャンであり、とんでもない不良だったはずです。

 一般に、ポピュラー音楽は、いわゆるクラシック音楽と対比されるものとして理解されています。そして、軽音楽とか流行歌とかの名称を与えられ、なんとなく、「気軽だけれど低俗なもの」という扱いを受けています。

 けれど、それは一面の真実ではありますが、正確ではありません。少し堅苦しくなりますが、事典をひもといてみましょう。
 ポピュラー音楽とは、「大衆文化としてのその本質から、大衆社会の成立とともに生まれ、市場経済とマス・メディアのなかで商品として生産され流通する音楽」であり、「その感性は20世紀の都市の庶民生活に依拠し、作り手は職業音楽家であるが聴衆(消費者)と同一の社会意識の中にいるのが原則」(大衆文化事典・弘文堂・1991)であるような音楽のことだとされています。

 おおざっばな言い方をすれば、ポピュラー音楽とは、身分制度がなくなり、極端な貧富の差がなくなった社会において、誰もが楽しめる、そして何より日々の生活に根づき、私たちの心を励ましたり慰めたりしてくれるものだといえましょう。

 マス・メディアにのった「(安価な)商品」だからこそ、気軽に自分のものにできる。作り手と聴き手が同一の立場にあるからこそ共感ができる。使えるこづかいも少なく、また、自分の感情を自分で把握・表貌する能力が未熟な段階にある若者が、その日常生活において、ポピュラー音楽を身近なものととらえることは、当然のことなのです。

 こうして、あらためてポピュラー音楽というものについて考えてみると、戦後の日本の社会の歩みそのものが、ポピュラー音楽の定着の歴史であり、本質的な面では、ロカビリー世代と今日のロック世代との問には、大きな差のないことがわかります。
 その意味で、もっと上の世代の方にとっての戦後とは、自分の子供ならず孫までもが、同じ(理解し難い)熱狂の道をたどっている過程を見せつけられた半世紀だったということができましょう。

 とはいえ、もちろん、変化がないわけではありません。ここ数年、ポピュラー音楽の聴取行動について、実際に調査を行ったり、インタヴューを行ったりして気づいたことに、たとえば、こんなことがあります。
 知り合った高校生や大学生に、「音楽は好き?」とたずねると、彼らのほとんどが「好き」と答えます。そこで、「どんなのが好き?」と開くと、「別に〜」とか「特には…」とか、さらには「何でも聴きますけどぉ」ということばが返ってくるのです。

 ある時代までは、クラシックでもポピュラー音楽でも、それを好きであるということは、具体的な人名やジャンルと結びついている場合がほとんどでした。そして、そこを足がかりにして、そのジャンルの歴史をたどったり、関連するジャンルの音楽を聴いたりしたものでした。

 今でも、そうしたファンはたくさんいます。むしろ、驚異的な知識量と感受性をもった若者の数は、数年前にくらべても、比較にならないほど増えているといってよいでしょう。けれど、それを上回るはるかに多くの若者たちは、今はやっている曲・今好きなアーティストについては聴いたりCDを買ったりするものの、そこから、体系的な知識を身につけたりコレクションをするという方向へは行かないようなのです。

 これは不思議な現象です。何かを「好きになる」ということは、好きになったものについて、あらゆることを知りたいという欲求につながってゆくのが普通です。誰かのファンになるということは、そのアーティストのCDをすべて手にいれ、そのアーティストの音楽がどのような来歴をたどって、今日の表現になったのかを、本を読んだり他のアーティストのCDを聴いたりして、調べるようになることだったはずです。

 ところが、今の若者の多くは、そういうことはあまりしません。といって、音楽選択の幅が狭いわけでもないのです。ひと昔前だったら、よっぽど特殊なマニアでなければ聴かないような音楽も聴いていたりします。

 おそらくは、「好き」の意味が変化してきているのでしょう。そして、そうした音楽の聴き方・接し方は、間違ってはいないのです。先にあげた定義にもあるように、ポピュラー音楽は商品です。だからこそ、ヒットしたりはやったりするわけです。そうした一時的なはやりものに対して、「いれあげる」というのは、むしろ、少数派の態度であり、一般的には、その時々ではやったものを「楽しむ」というのが普通なのかもしれません。

 はやっているもの・評判になったものには、必ずそれなりの魅力があります。それらを、誰々のファン・何々のマニアという妙なこだわりにとらわれず、並列的に楽しんでゆけるというのは、すばらしいことなのだといえます。

 しかし、そう考えていながら、「音楽は好き?」と問いかけたとき、「なんでも聴きますけどぉ」で会話を、終わらせてしまう若者たちに、なにか釈然としないものを感じるのは、単に筆者がすでに彼らの世代と速く離れてしまったからでしょうか。

 音楽を、ただ「楽しむ」だけではなく、もっともっと「好き」になってくれれば…。あるジャンルの音楽が「好き」な筆者にとって、高度大衆社会における「フツー」の若者の音楽聴取行動を理解するのは、なかなかに疲れるものでもあるのです。 

 

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