音楽に対する興味・態度研究における方法と可能性
大倉恭輔(実践女子短期大学)
わが国における音楽行動に関する調査では、基礎的かつ包括的なデータの収集を目的としていることが多く、そのため、それぞれの設問も基本的な部分に限定されている。こうした基礎調査の重要性は言うまでもなく、また、継続的に実施される必要があるが、同時に、テーマをしぼった個別研究や研究全体のフレームワーク構築にかかわる理論研究とのリンクが意識されなければならない。
そこで、本稿では、今後の諸研究への課題提起の意味をこめて、「音楽ジャンルの意味と興味・態度研究の方向性」および「音楽に対する興味・態度研究に内包される問題点」というふたつの問題について、心理学的接近にもとづきつつ論ずることとしたい。
なお、本研究会の調査結果によるまでもなく、「現代の若者と音楽」を考えることは、そのままポピュラー音楽について考えることにつながる。よって、以下に述べることも、基本的にはポピュラー音楽を中心としたものであることを、あらかじめお断りしておく。
ポピュラー音楽のような文化的な所産を研究するにあたって、出発点のひとつとなるのは、どのような音楽/ジャンルが好まれているのかという部分について、実態調査を行うことである。
心理学の領域では、「ある対象に注意を向け、選択的に反応する」ことを「興味」といい、「いろいろな対象や事象に対して一貫した一定の反応傾向」として人格の一側面をなすものを「態度」という。つまり、音楽/ジャンルに対する選好をたずねるということは、回答者の「興味・態度」を調べることなのである。だが、それは、単に、態度対象に対する個人の興味・態度の「方向性」(好き−嫌いなど)の実態把握に終わるものではない。むしろ、時代・社会がある時点である音楽を必要としたことの意味を理解するという点においても重要な作業なのであり、そこから「人・社会・音楽」の結びつきが見えてくるのだといえよう。
本調査においては、第1項の設問がそれに該当し、12種の音楽ジャンルを選択肢とし、それらに対する選好のあり方をたずねている。(表1−a) これらのジャンルの設定・組み合わせに対して、異議をとなえる向きもあろう。ロックをもっと細分化するべきであるとか、クラシック音楽が一括されているのは問題ではないかなど、さまざまな意見のあることが想定される。事実、「何が好まれているのか」を、自由回答法ではなく、選択肢からの回答で知ろうとするとき、どのジャンルを選択肢に入れるかによって、結果が異なることは当然起こり得る事態である。
多様な音楽がマーケットに流通している今日、どのような音楽を好んでいるかを調査しようという以上、ポピュラー音楽とクラシック音楽のふたつの選択肢だけですます訳にはいかない。とはいえ、選択肢(=ジャンル)が多すぎても、混乱を招くばかりである。たとえば、次にあげるのは、ある論文で使用されたジャンル群であるが(表1−b)、これらすべてのジャンルについて、対応するアーティストと楽曲構造などをイメージできる人間は少ないだろう。さらには、各ジャンルについての知識以前に、選択肢の多さに回答の意欲が失われ、回答結果の精度が低下することも考えられる。
言うまでもなく、ジャンルに対する興味・態度を問う場合、調査者は、先行研究を参照したり予備調査を実施するなどして、自分たちが行う研究の目的にそったジャンルの設定が行われる。本調査の場合でも、現代の若者たちの音楽行動に関する包括的な基礎調査という趣旨に即した妥当性を検討し、慎重なジャンル選択を行ったつもりである。
しかし、稲増が本調査の報告書序文で述べているように、音楽状況の流動性や人気アーティストの変遷という事実があり、それはすなわち、種々の音楽ジャンルへの興味・態度に変化が生じていることを意味する。ことに、商品性の高い文化生産物であるポピュラー音楽の場合、個々の楽曲・アーティスト・ジャンルの流通する期間は限定されやすい。それ故に、このような特性をもつ音楽を研究する際、その時々で妥当性のある選択肢/ジャンル群を設定することは、実態調査の厳密性を期する上で、非常に重要な作業となる。
だが、その時、ひとつの行うべき作業が新たに出現する(あるいは、手元に残される)ことに気づかざるをえない。それは、ある音楽ジャンルを選択肢から落とすことになった場合、どうしてそのジャンルが落ちた(=人気がなくなった)のかを解明することである。単にある楽曲やアーティストがベストテン圏外に去るのではなく、10万・100万といった単位の人間が心をときめかせた「表現様式」が、いつの間にか色あせ、興味の対象外のものとなってゆく。そのことの持つ意味について、われわれはもう少し考えてみるべきではないだろうか。
たとえば、60年代はロックの時代であったが、同時に、モダン・フォークの時代でもあった。ことにアメリカの場合、ベトナム戦争が泥沼化する中で、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、そしてピーター・ポール&マリー(PP&M)らが人々に与えた影響の大きさにははかりしれないものがあろう。しかし、今日、ポピュラー音楽への興味・態度調査を実施しようとするとき、ロックを入れることはあっても、フォークソングを選択肢に入れることは少ない。
エッセイストの永倉万治は、自身の17歳のおりの滞米経験とフォークソング体験を重ね合わせた作品の中で、PP&Mの結成25周年コンサートのビデオに映っている観客たちについて触れている。そこには、「最近のロック系アーティスト達のコンサートビデオに登場してくる観客達とはまるで違う」、「中年のごくありふれた」、「それほど先走りもせずそれぞれの輝きに応じた青春をやりすごしてきた彼や彼女達」が、「歌いながら静かに涙を拭き、泣きながら歌っている。」姿がある。
ある時代がある表現様式と結びつくとき、その表現様式についての体験を共有する人々が生まれる。その共有された体験をどのように評価し、今後に伝えてゆくかが、ジャンル研究/選好調査のもうひとつの側面であり、個別アーティスト研究とは異なった可能性を有するものであるといってよいだろう。
だが、その共有された体験の意味は、どのようにすれば明らかにすることができるのであろうか。たとえば、社会学でいう「コーホート分析」の手法は、かなり有用な手段となろう。「コーホート」とは、「ある地域や社会において、人生における同一の重大な出来事を一定の時期に経験した人々のこと」である。よって、年齢という面に注目すれば、それは「出生コーホート(同時出生集団)」ということになる。この手法の音楽行動への適用については、たとえば、法岡が、視聴覚メディアの普及状況と重ね合わせた研究を行っており、興味深い。
本報告書を例にとるならば、第19項の設問「昔、好きだった歌手・グループ・ミュージシャン」の中の、「小学生の時好きだった歌手」がその手がかりとなろう。ここでは、調査実施時における大学生グループ(54.4%)が、中学生(23.5%)や高校生(22.4%)のグループよりも、「アイドル」への高い選好度を持っていたことが明らかとなっている。これは、このグループが「アイドル・コーホート」だということを意味しないだろうか。
もちろん、コーホート分析は万能ではないし、なにより、さまざまな要因の影響を取り除いて、特定のコーホートの効果を立証するのは非常な困難をともなう。だが、ポピュラー音楽への傾倒や愛着を青年期の一時の熱狂ととらえ、通過儀礼のように位置づけさせてしまうライフサイクル論的な方法論からは得られない知見を、われわれに与える可能性のあることは確かである。
本項冒頭で述べたように、「態度」は人格の一側面をなすものである。そして、態度はその個人の成熟の度合いに応じて安定性を増すことが知られている。よって、人格形成期である青年期において、どのような音楽に興味を抱き、どのような態度を形成したかについての実態を把握することは、その後の人生を理解する上で重要な手がかりとなるはずである。と同時に、その時々の時代と音楽ジャンルの対応関係を把握することは、それに続く社会・文化を理解することにつながるはずである。
音楽のジャンル分けの無意味さを説くものは多い。実際、ポピュラー音楽の多様化傾向などもあり、それを故なしとはしないが、人と音楽との関係を考えようとするとき、ジャンル研究の意義と可能性については、もう少し評価されてもよいように思われる。そして、何より、それは、ある時代を形づくった音楽に対する感謝の行為でもあるように思われるのである。
今回の調査によるまでもなく、ポピュラー音楽に興味がない、あるいは嫌いだという若者が少数派であることは明らかである。また、今や日本人の生活の中に根づいたカラオケにしても、確かにそれを嫌うものはいるが、それとても、人前での歌唱行動に対する拒否であって、音楽そのものに対する嫌悪によるものではないと考えてよいだろう。
しかし、当然のことながら、ポピュラー音楽を好きであるという若者たちすべてが、同じようにそれを好んでいるわけではない。前項でも触れたように、興味・態度には、「好き−嫌い」などの「方向性」がある。だが、その他に、「とても・わりと」といった「量」的な側面もあることを忘れてはならない。よって、これを測定し、誰が何を「どれくらい好きなのか」を知ることは、興味・態度の把握の上で欠かせない作業となる。だが、そもそも、何かを「好き(嫌い)」であるということは、どのようなことを指すのだろうか。そこで、本節では、興味・態度の構造とそれに即した測定方法について考えてみたい。
岡本は、読書への興味・態度が、「熱中性・波及性・探求性・評価性・同一化・表現性」の6つの因子からなることを明らかにし(表2−a)、これにもとづき独自の読書興味・態度スケールを作成した。そして、その因子構造が音楽においてもあてはまることを確認し、さらに、石川らとともに、音楽への興味・態度スケールを作成している。(表2−b) これらの因子を見ればわかるように、音楽を「好き」であるということは、とりあえず興味を抱いたアーティストやジャンルのものを数多く聴き、それらに関する周辺情報を調べ、その過程において、自分なりの評価基準の確立がなされることである。そして、その作品世界に没頭し、さらには自分でも演奏を試みるようになることなのだといえよう。(なお、これらは、あくまで興味・態度を構成する「因子」であり、発達的な段階を意味するものではないことに注意されたい。)
この岡本のスケールについては、大倉の中・高・大学生を対象とした調査、山本らの15〜49歳までを対象とした調査で、使用されている。そこで、このふたつの調査の結果の一部を紹介しながら、音楽が「どのように」「どれくらい」好かれているのかを確認してみたい。(なお、2調査とも、各項目は「はい・いいえ」で回答する形式になっている。)
表2−bにあるように、本スケールは18項目からなっているが、ここでは便宜的に上位5位までを比較することとしたい。(表3−a・b) ふたつの調査結果をみて、まず気づくのは、「はい」と回答したものの割合である。大倉調査の場合、1位から5位(実際には7位まで)の項目で50%以上の回答率が得られている。これに対し、山本調査で50%以上になっているのは、1位から3位までの3項目に留まっている。また、第1位の項目を較べてみると、大倉調査での回答率(79.8%)は、山本調査のそれ(64.7%)を、15.1ポイント上回っている。
次に、上位5位の各項目の内容を見てみると、「好きな歌手のものをいろいろ聴く」「たえず音楽に触れていたい」「好きなジャンルのものをいろいろ聴く」の3項目が共通していることがわかる。しかし、山本調査では、「音楽は軽く聴き流す」(64.7%)ものとされているのに対し、大倉調査では、「音楽を聴くときは集中して聴く」(51.3%)ものと、対照的な結果が得られている。
断片的なデータではあるが、それでも、大倉調査における調査対象者(=若者)たちの、音楽に対する積極的な興味・態度のあり方が理解されよう。これらの結果は、また、岡本のスケールの有用性の証左であり、同時に、この種の包括的な実態調査における心理学的なスケールの作成と利用に、大きな可能性のあることを示唆するものといえる。
ところで、すでに述べたように、岡本の研究は、もともと読書研究の領域から生まれたものであった。そして、音楽と比較した場合、このような教育心理学的な視点からの興味・態度研究に関しては、読書研究の領域に一日の長があるようだ。もちろん、音楽興味に関する心理学的研究がないわけではない。また、関連領域でも、社会学のアドルノや音楽教育学のマーセルを始めとして、心理学的な知見にもとづいた論考は存在している。ただ、概論書レベルでの内容構成などを研究動向の反映とするならば、そのような傾向を指摘できるように思われる。
これに対し、読書の興味・態度研究が盛んであることについては、知的発達との相関の問題や、教科学習全般における基礎技能としての位置づけから、「読む」ことへの動機づけを促進する必要があることを始めとして、いくつかの理由をあげるができる。だが、それに加え、「活字離れ」や「軽読書化」傾向への対応の要請をあげることができよう。
そして、読書教育における「軽読書化」問題にシンクロするかたちで、音楽教育においては「軽音楽化」(?)が問題となる。だが、生活場面における(いわば)「ポピュラー化傾向」について、われわれは、それをどのように評価し、どのような対応をするべきなのであろうか。そもそも、読書と異なり、今日のメディア社会の中で、ポピュラー化された音楽への接触が「必然化・日常化」している若者に対し、さらに、なんらかの教育的観点・目的にそってポピュラー音楽を与えることに、どのような意義があるのだろうか。
音楽にしろ読書にしろ、それを行う目的やそこから得られるものは一元的なものではない。調査研究を行う場合、事前に、既存資料を利用することが多いが、たとえば、国民生活調査や家計調査などを見ていると、音楽や読書にかかわる行動は、「娯楽・教養」あるいは「余暇」という費目に分類されている。これは、便宜的な分類の結果であるにせよ、われわれの日常生活の場面における位置づけをあらわすと同時に、音楽や読書の機能が、多面的であることをしめすものといえよう。
ところが、青年期において、音楽や読書は、人間の情意的領域の発達や人格形成を促進するものとして、学校や家庭などで「教育」すべきものとしての側面が強化されるようになる。すなわち、両者はともに、本来有している娯楽的機能を否定され、教育の対象として若者の前に立ち現れてくるという点で、共通性を持つのである。繁下は、戦前のわが国で人気のあったハーモニカが、戦後、教育カリキュラムに取り入れられたために、その人気が失われたという。教科教育の面だけでなく、幼児期の段階から、俗にいう「情操教育」の一環として、社会/おとなの側の、音楽や読書の教育・教養的機能への期待も多大なものである。これに対し、徳丸は、情操教育という考え方について、「情操を教育するというが、それならば、情操が完成されたら音楽は聴かなくてもよいというのか。」という意味の批判を投げかけている。いずれも重要な指摘である。
このような教育的機能への要請をどのように評価すべきかについて論ずることは、本稿の目的ではなく、また紙幅にも限りがあるため、今回は疑問を提示するにとどめたい。ただ、その教育的機能・意義を認めつつも、ことにポピュラー音楽の場合、本質的に「学校文化」と対立する性格があること、そのため、教育の場への導入には、かなりの困難がともなうことを改めて確認しておきたい。その意味で、ポピュラー音楽教育における問題とは、上述のたとえでいうならば、若者の生活におけるポピュラー音楽への支出のうち、どれだけを「教育費」に組み込み、どれだけを「教養・娯楽費」に組み込むかの、費目のバランスの難しさにあるのだといえよう。
とはいえ、ポピュラー音楽教育の試みが始まってからすでに久しく、多くの知見が蓄積されてきている。だが、坪能が指摘するように、「ポピュラー音楽で何を教えるのかについての基本的なコンセンサスは世界的に見てもまだない。」状況にあることも事実である。それ故に、関連学問領域からの知見や方法論の、積極的な提供・利用が求められるものであり、興味・態度研究もまた、その一端を担う必要があろう。だが、懸念すべき点のあることも指摘しておかなければならない。そのひとつとして、興味・態度スケールとその利用における問題を例にとってみよう。
およそ教育活動(教授−学習過程)には、しかるべき目的・目標が設定され、それらへの理解度・到達度に対する評価活動が付随する。たとえば、ポピュラー音楽の場合を考えてみよう。そこでは、いろいろなジャンルを「数多く」聴いたもの・アーティストについて「調べもの」をしたもの・良い作品と悪い作品とを聴きわける「基準を形成」できたものが、興味・態度において「優れている」という評価を与えられることになる。興味・態度の測定から得られた結果は、基本的には、指導のための資料として使用され、いわゆる成績表の評価に直接的な影響を与えることは少ない。しかし、そうした評価活動とポピュラー音楽の享受との結びつきに、ある種の違和感を覚えてしまうことは否めない。
興味・態度スケールを、社会学・社会心理学的な実態調査に利用する場合にも、同様の問題が生ずる。測定を行い、平均値などの基準値にもとづいて、被験者群を「High群−Low群」などに分割することは、統計分析では欠かせない作業である。だが、本来、数学的な分布区分でわけられたにすぎない統計集団に対して、「良い聴き手−悪い聴き手」という価値判断の影響なしに、データ処理が行われるという保証を得られるだろうか。
これまで述べてきたように、大衆文化論的文脈にせよ教育学的文脈にせよ、ポピュラー音楽研究における興味・態度研究/興味・態度スケールの有用性と可能性には多大なもののがある。だが、問題設定から解析にいたる研究の過程において、「よいポピュラー音楽」・「よい聴き手」そして「よい興味・態度」という価値判断が、さらには、ポピュラー音楽を好きになってもらいたいという希望・目的意識が、無意識のうちに前提とされ変数化される危険性を、われわれは常に意識しなければならない。
質問紙法による調査研究において、質問文の妥当性には充分な考慮が払わられる必要がある。だが、ポピュラー音楽のような「趣味的・娯楽的」要素が優位にたつ対象への興味・態度を測定しようとするとき、その妥当性故に、かえって見失われる部分あるいは付加される部分の生じることを忘れないこと。そして、いうならば、ドリカムのCDの横にB・B・キングのCDが並ぶことの「意味」と「無意味さ」について考え続けることが、ポピュラー音楽の興味・態度研究における課題なのだといえよう。
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