「Weekly Needs」1995.7.9号(Vol.1 No.18)

Vol.1 No.18 表紙

前号へVol.1目次次号へ


〜神戸から支援を〜

ポリタンクをラバウルへ Part.2

長田のじゅんちゃん・すがちゃん、ラバウルを行く

〜「ポリタンクをラバウルへ」のこれまで
 パプアニューギニア・ラバウル市。パプアニューギで2番目に大きな島ニューブリンテン島の北端に位置するこの町で、去年の9月マチュピチュ、カイブ、バルカンと呼ばれる3つの火山が一気に噴火した。この災害でラバウルの町はもろとも壊滅状態。ラバウルの全人口に当たる2万5000人の市民は噴火から9ヶ月たった今でも不自由な避難生活を送っているという・・・。
 この話は、私達すたあとの前身にもあたる市民団体ピースボートを通じて、ウィークリーニーズ4月30日、No.8号に掲載。ピースボートが戦後50周年を通じて企画した、大型客船での南太平洋1周クルーズの旅の中で、訪問地としてあがっているラバウルに、同じ自然災害での被災地、神戸からの援助をよびかけました。現在の彼らの避難生活のなかで必要とされているポリタンクを長田で集め持っていこうというものです。
 そしてその呼びかけに見事応えていただけた633個のポリタンクと共に、ピースボート南太平洋クルーズに、わたくしすたあとの車イスガイド担当すがちゃんと長田復活再祭実行委員長の順ちゃんが参加。
 同じ”被災”を経験した私達の目から見たラバウルの今現在の状況と、大勢の人々の手によって間違いなくラバウルの人たちに神戸からの援助物資を届ける事ができた事を、「ポリタンクをラバウルへ」パート2としてここで赤裸々に報告したいと思います。

〜「ラバウルの人らによろしくな」
 私が初めてラバウルの話をピースボートのスタッフから聞いた時、ただの遠い国のひとごとのお話では終わらなかったのは自分がこの長田の町で自宅が全壊し、あまりに多くのものを失ったことを経験したからだ。ポリタンクを事務局に持って来てくれた人、避難所生活をしながらも募金活動に協力してくれた人からも口々に「ラバウルの人らによろしくな」「がんばってってゆうといて」といった声をたくさん聞いた。みんな同じ気持ちだったのだ。集まった募金で、神戸からのメッセージを込めたステッカーを制作。ポリタンク一つ一つに張り付けられた。ステッカーに書かれたメッセージは、
 「WE SHALL OVERCOME」
 ...私たちはいつか立ち上がることができる

〜6月14日ラバウル入港
 トラック諸島、ガタルカナル島を経て、6月14日ラバウルに入港。入港してすぐ私たちの目の前にはラバウルの現実が立ちはだかる。岸壁での歓迎の式典のあいだ火山灰が目に入って目をあけていられない。港の海を見れば、水面いちめんに浮かぶ噴火で生じた灰色の”軽石”が浮かんでいる。
 式典を終え、私達とポリタンク、そして現地の人々に神戸のことを伝える写真パネルを乗せた車は、隣町ココポにあるケアーセンターへと呼ばれる避難所へと向かう前に、今はほとんど誰もいないラバウルの町を走った。建物という建物はすべて灰で押つぶされている。役所、郵便局、民家、数多くの灰色に枯れ果てた木々。私たちはその光景を前に声もでなかった。

〜ココポ再定住計画
 噴火が起こり、ラバウル市民2万5000人の人々が一気に避難に押し寄せたココポの町の本来の人口は2000人。そこに10倍以上の市民が押し寄せ、困った州政府はココポの町郊外の熱帯雨林での再定住計画を打ち出した。各世帯に3ヘクタールづつの土地を与え、自分たちで木々を切り開き、家(仮設住宅ともいえる)を建て、穀物を植え、それを食べる。完全な自給自足での生活だ。まず私達は各地に点在するケアーセンターの一つでその夜民泊する”ゲラゲラ”と呼ばれる避難所へと向かった。

〜神戸とラバウル
 ラバウルから車で30分離れたところ、道はあれどまさにジャングルともいうべき所に”ゲラゲラ”はあった。神戸と同じようなブルーシートやトタンを集めて建てられたテント、各家庭に広がるとうもろこしや、ココナッツ畑。着いてすぐ集会所で現地の人を集め、青空の下ディスカッションを開く。このガレキの写真が私の町神戸であること、この地震によって5000人以上の命が絶たれたこと、私達以外にもたくさんの人達が家を失い、今でもたくさんの人達が避難生活を強いられていること、そんな神戸の人達が同じ境遇を持ったラバウルの人々に応援のエールを送っていること。
 現地の人達は私達の話にじっと耳を傾けながら、食い入るようにパネルを見つめ、私の家族の安否の質問などをなげかげてきた。彼等にとっても、私達の町がとても身近に感じていることが伝わった。

〜ケアーセンターの夜
 ディスカッションを終え私達はそれぞれ2人づつのグループに別れ、各々の家へホームステイをした。私と順ちゃんはルベンさん宅へ。親戚や子供達8人で生活をしている彼等。こっちが本当に恐縮してしまうほど、ファミリーはとても明るく親切に私達を迎かえ入れてくれ、彼等が自分達の生活のために一生懸命作った、お日様の匂のする野菜や果物をごちそうになった。
 ルベン家のおばあさんは私達に片言の日本語で話しかけてきた。普段は正直いってあまりしっくりこなかった50年前に私達の祖父母の世代で行われた戦争がこの時とてもリアルに私達の心の中に入ってきた。身振り手ぶりでなんとか震災のことなど語り合いながら、夜はふけていった。

〜ボイナトウナ
 朝。一晩振りに再開した、ピースボート参加者の面々はたった一晩でそれぞれ家族を増やし、みんな本当にいい顔をしていた。
 お別れのセレモニーで日本の歌を歌い、全員と握手した。”ボイナトウナ”現地語でありがとう、と言いながら。帰りの車の中、私達のかわりに、ポリタンク収集やパネル制作に深く携わってくれていた、”丸ちゃん”こと石丸君が男泣きしながら何度も何度も言った。「本当に本当に来て良かった…。」
 私はラバウルの事をできるだけ多くの人に伝えること、また再びここを訪れることを心に誓った。


SPECIAL THANKS !!


〜ポリタンク収集に協力してくれた方々
 神戸協同病院・能瀬病院・南運送・南駒栄公園・長田工業高校
 他、区内各避難所の方、個人でわざわざポリタンクを持ってきてくれた方、どうもありがとうございました。
 ...そして、ポリタンクtoラバウルの実行部隊として動いてくれたピースボート石丸くん他神戸チーム、坪内さん他援助チーム、その他「すたあと」「ピースボート」両方無数のボランティアスタッフの面々、そしてその「場」を作り上げてくれたラバウルのマリーさん、山本Jr.、田山さん、田口さん。たくさんの人々の力のこもったポリタンク。
 現地の人に手渡した時の重みは計り知れないものがありました。みんな、ありがとう。

(「すたあと」:菅田 智子・吉岡 順子)


茅の輪(ちのわ)をくぐり、夏を越そう!

7月17・18日 長田神社・夏越祭


 「長田の復興のため、神社もがんばります。震災後精神的な寄りどころが、人々には必要となってきています。長田神社の広い境内で、ゆったりと過ごして下さい」と、長田神社権宮司(ごんぐうじ)の宮下篤郎さんは語る。

気力で暑さをふっとばせ
 昔から長田の人々は、家族連れだって御神前の茅の輪をくぐり、清々しい気持ちで、やがてくる猛暑を無病息災で過せるよう祈った。今年の夏越祭(なごしさい)の儀は、7月17日(月)午後4時より、長田神社でいつも通り行われる。復興の努力を続けている我々、長田の者にとっては、ことのほか、暑い夏がやってくる。茅の輪をくぐり、暑さをぶっとばしたいものだ。

夏の夕べ、縁日もある
 古式茅の輪くぐり神事
  17・18両日
 筑前琵琶
  17日午後6時より
 詩吟詩舞
  18日午後7時より
 氏子地区学童あんどん
 図画展 17・18両日

 長田神社の氏子地区は一部、須磨や兵庫区にもある。約20校の児童(1校40枚)の描いたあんどんが灯に映し出され、社殿周囲に並ぶ。子どもたちは、地球の宝ものだ。ぜひ見に行ってほしい。勿論、両日は夕刻より縁日も出る。

伊勢神宮より鳥居をいただく
 震災で長田神社の四つの鳥居がこわれてしまった。正門の鳥居の用材を伊勢神宮からいただくことになった。宮下権宮司は、10月17・18・19日の長田神社の大祭には、新しい鳥居を間に合わせたいと張り切っておられる。

長田神社前の商店街や市場の復興を祈る
 歴史的には、古代、「長田のクニ」というものがあったかもしれない。長田は長田神社を中心として栄えていた。震災復興も、原点に戻り、長田神社の界わいがにぎやかさをとり戻すのは、大切なことである。おついたちに、「ぽっぺん市」を開いている長田神社前商店街を次は訪れてみたい。

(幹)


キルトに込めた命のメッセージ

〜メモリアルキルト展開催〜

−キルトに込めたメッセージ−
 大きさも、色使いもまた素材も様々なパッチワーク・キルト。そこには、亡くなった友への、魂からのメッセージが一針一針縫い込められている。
 「すたあと長田」の2階にある「フリースペースなごみ」で、7月1日(土)、メモリアル・キルト展が開かれた。これは布に、エイズで亡くなった友達へのメッセージを縫いつけたり、あるいはペンで寄せ書きしたりしたもの。ある人はメッセージや名前をアップリケして、ある人は刺しゅうで想いをつづった。似顔絵を入れたりしたものもある。1つのパッチワークはちょうど畳1帖分。それを各自が持ち寄って縫い合わせたのである。無地、柄入り問わず思い思いの生地、端切れを使った色とりどりのメッセージの入ったキルトが一面に広がっていた。Tシャツと短パンを縫い付けたものもある。亡くなった人の思い出の品だろうか。
 このキルト展を準備してくれたのは、メモリアル・キルト・ジャパンの斉藤洋さん。京都で染め物を生業となさっている方だ。布をコミュニケーションの素材としてとらえ、エイズで亡くなった人達を記憶にとどめておきたい-これが彼の活動の原点なのだ。

−いつまでも一緒に−
 エイズで亡くなった人に対するメッセージ・キルトはアメリカで始まったもの。最愛の伴侶を亡くしたある男性が、初めてその人の名をキルトにした。これが共感を呼んで、アメリカ全土に伝わっていった。
 震災で多くの人が亡くなった長田で、このメモリアル・キルト展を開くことにしたのは、亡くなった人に対する思い入れが強いのは長田の(神戸の)人々も同じだ、と思うから。また、メモリアル・キルト・ジャパンとピースボートとのつながりもあって、「なごみ」で開催されることになった。
 突然失ってしまった友達、親、あるいは最愛の伴侶。でもずっと忘れずにいたい。そんな想いは、きっと共通なのだろう。

 目の前に広げられたキルトは、一枚一枚が一人一人の魂そのものだった。


すたあと活動報告


 もうすぐ震災から半年になります。町の様子もかなり当時とは変わってきて、少しずつ落ち着きを取り戻しているようです。しかし、これからどうなるのか、といったことは当時と変わらず殆ど分からないのが被災地の現状。とにかく今日一日を大切に生きていこうということをモットーに、私たちも活動を続けています。
 さて、先週号で触れましたように、「すたあと」の地元以外の構成メンバーが撤退しました。力仕事や避難所常駐といった活動の必要性が薄れてきたためです。
 現在は「ウィークリーニーズ」の発行活動と、車イスマップ制作、粉じん問題に関する活動のみを行っています。またサハリンやラバウルといった被災地への新たな援助も計画中です。ともあれ「すたあと」は、もう一度心機一転!と相成りました。
 今後とも、編集長と代表を一人で兼ねる松本佐代子のもと、学生など若い人たちを中心に、地元の復興の様子を伝える「ウィークリーニーズ」を発行していきます。
 どうか皆さんのご支援のほど、よろしくお願いします。

「すたあと−長田を考える会」は、
「すたあと長田」と名称を変更しました。

サハリン義援金の受付は終了致しました。
皆さんのご支援、本当にありがとうございました。



numata@sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp