「Weekly Needs」1995.5.28号(Vol.1 No.12)

Vol.1 No.12 表紙

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長田復活祭 5/20前日祭のすべて!


11:50 開祭の辞
12:00 神戸カルテット 12:40 竹内市郎&友梨・手作りおもちゃ
13:20 THE K.T.J バンド
14:00 Domestic Steel Pan Combo
    手作りおもちゃ・野染め
15:50 ゴスペルファミリー
16:50 リクオ
17:50 田中省吾
18:40 セッション

手作りおもちゃ
 水笠公園の東側、ティピのあるチビッコ広場で、インディアンのように頭にカラフルなバンドを巻いたおじさんが、子ども達に手作りおもちゃの作り方を教えてくれました。おじさんの名は、河端 清五郎さん。材料は牛乳パック、割り箸、紙コップなど。「廃品を使って自分でおもちゃを作ってみよう。(震災で)何もないところから工夫して、何か創る方が、きっと子ども達を伸ばすことになる。他の人には味わえなかった体験を大切に。これはきっとマイナスを上回るものだよ。すべてプラスに生かせるものだから」。

竹内市郎&友梨
 2人は親子。友梨ちゃんのかわいい歌声に、みんな拍手喝采!
THE K.T.J バンド
 芦屋・東灘の、様々な職に就く人達の、ブラス中心のバンド。メンバーの笹倉さん「今回の祭を前にして僕らが勇気づけられた。」
Domestic Steel Pan Combo
 スティールドラムは太鼓なのに、音階を持った高い音色を生み出す。「このドラムを広めるのと、長田の人々を励まそうと思って来たが、僕らが頑張らなと、思わされた」とは、メンバーの金沢さん。
ゴスペルファミリー
 歌声と共に、観客は何かに引き込まれるように手拍子をとり、そのうち続々と人が集まってきた。メンバーの門間幸枝さん「新聞で祭の事を知り、もう長田の人は立ち上がっているとびっくりした。一人一人が主役。みんな立ち上がって!。私も立ち上がらせて!。」

リクオ
 エレクトリックピアノでの弾き語り。ハートのこもった歌声が、会場に響きわたる。「震災だとかサリンだとかやな事が多い。でも深刻になってばかりでもしょうがない。前向きに考えたい。アリとキリギリスという話があるが、こんな時こそ、僕はキリギリスでありたい。」

田中省吾
 ギター片手に弾き語り。フリートークの時間と歌ってた時間が同じくらいだったのでは?。しばしば出るギャグとは裏腹に、魂のこもった心に残る歌。彼のシャイさが、会場をとらえて放しませんでした。
セッション
 田中さん、竹内さん親子、ゴスペルの門間さん夫妻とその息子さんの6人での「上を向いて歩こう」の演奏。祭のクライマックスということで、みんな盛り上がりまくり。ステージと観客の大合唱が長田の空に響きわたりました。

長田復活祭 5/21”文化の祭典”


12:25 開祭の辞
12:30 インド舞踊・手作りおもちゃ
13:30 民族衣装ファッションショー
13:50 がじゅまるの会
14:00 タマとあそぼう
14:40 グルーポyui
15:30 中国留学生長城楽団
16:20 ソウルフラワーユニオン
17:10 長田マダン
17:30 ベランダ・セクシー・ロケッツ
18:20 神戸太鼓
19:00 長田どんちゃん
19:30 閉祭の辞

タマとあそぼう
 あいにくの雨で野外でのショーは出来なくなってしまいました。でもYMCAの体育館にはたくさんのちびっこ達が集まってくれ、みんなタマやその仲間たちとクイズをしたりして楽しみました。帰りにはタマのバッチももらっちゃいました。子ども達は元気いっぱい。見ている私達大人も元気になれたひとときでした。

インド舞踊・シャリーン一家
 10歳のシュリスティちゃん、12歳のニヒタちゃん姉妹と、いとこのパヤルちゃんが、それぞれきらびやかな衣装に包まれて、インド音楽に合わせ、激しく熱のこもった踊りや、ゆっくりとした、観客を魅了する踊りを踊ってくれました。雨のため滑って転ぶハプニングもありましたが、みんな彼女達の踊りに引き込まれていました。インドからのお客さん、「ダンシャワード(ありがとう)!」

民族衣装ファッションショー
 12ヶ国の民族衣装(韓国・日本・モロッコ・ベトナム・インド・ネパール・バングラデシュ・チベット・オランダ・マレーシア・中国・ペルー)が一同にステージに並びました。

がじゅまるの会
 大太鼓の男達と、小太鼓の女の子達による、沖縄民謡に合わせての演奏。とても情熱的な太鼓の音とリズムに、観客も踊り出す。途中雨が強まるが、それが祭をいっそう盛り上げてくれた。雨の中みんな我を忘れて踊る姿が、とても印象的でした。


「中国留学生長城楽団」

ソウルフラワーユニオン
 若いファンがたくさん。ステージぎりぎりまで陣取って、彼らの演奏を楽しむ。雨が強さを増してきたが、それがステージを盛り上げる。歌詞を神戸に変えて歌った「復興節(関東大震災の時はやった)」が演奏されると、みんな傘をさすこともなく、踊ったり、飛び跳ねたりしていた。アンコールもあり、若者達みんな大満足のステージでした。ボーカル&三線(サンシン)の中川さん「じゅんちゃん、おつかれー。ええ祭になったやん。続けなあかんな、YEAH!」

ベランダ・セクシー・ロケッツ
 サックス2本のフルバンド。とてもアップテンポな曲に、ついつい体が踊ってしまう。小さな女の子もクルクル回ってる。バラードになるとみんな聞きほれていた。うるさかった祭のスタッフも、スイング程度に押さえられた。じっとして聞け!。メンバーの石丸さん「一人でもライブがやりたかった。今回のライブは良かったの一言。死ぬのも運命、生きるのも運命なら、生きている人で町を作ろう」

神戸太鼓
 大きな動きで太鼓をたたく。おじさんおばさん客多数。

長田どんちゃん
 いよいよクライマックス。神戸太鼓、長田マダン、がじゅまるの会、ソウルフラワーユニオン、そして観客のみんなが一つになり大騒ぎ!。観客もバチを持たせてもらって、リズムを刻む。演奏が進むにつれ、会場もステージも、一つになって踊り狂い出す。ステージで演奏していたメンバー達も会場に下りて、みんな一緒の地面の上で我を忘れる。スタッフだけでは決してない。観客も一体となって祭を心から楽しんでいる姿が、そこにあった。祭に参加した全てのみなさん、どうもありがとう!


長田復活祭 世界の文化をごちそーさま!

〜おいしさいろいろ万国屋台〜

フリーマーケット:西 久美子さんほか
 ソウルフラワーユニオンのライブで長田復活祭を知ったとのこと。「元気が先にあって、やっと復興していくんだと思う。精神的に明るい状態が続いたらいいな」

お好み焼:衣川三郎さん
 長田でのあらゆる祭に店を出しておられるそう。「(今回は屋台を出しているので)応援している側のようだが、実は自分が助けてもうてます」

チャリティーTシャツ/ウィンドブレーカーの販売:百番目のTシャツさん
 「同じように明日が来るんなら、笑っていたい。一人でいたら落ち込むけど、みんなでいたら笑うことはきっと多くなるよ。一瞬、一瞬をいきるしかない」じいんと来ました。

ペルー風ツナポテトサラダとかぼちゃの揚げ菓子:ガベ=エミさんほか
 「長田には28カ国からの外国人が住んでいるというけど、ここは(外国人との)共生を始めている一番始めの区。これ(地震でもあり、長田復活祭でもある)をきっかけに共生ができていければ」

コーヒー・ドーナツなど:喫茶「花束」さん
 「長田のみんなに頑張ってもらいたいけど、やっぱり靴屋さんが頑張ってくれな。これが結局、街の復興になるんや」

ホルモン焼・キムチ焼飯等:江上 佳幸さん
 下関からいらっしゃいました。とにかくじかに人の話が聞きたかったそう。「5年経っても、また来たくなるような感動を、神戸の人は見せてほしい」

 紙面の関係で、お店をあまりご紹介できませんでした。とても残念です。私たちの胃袋を満たして下さった皆さん、ほんとに、ごちそーさま!


長田復活祭 来場者の声


 風の強かった復活祭の初日も、あいにくの雨となった2日目も、沢山の人が詰めかけてくれた。長田がんばれの想いで、水笠公園に来てくれた来場者にインタビューしてみた。

若い人たちようやったネ
◯「こんな、大きな祭を開くんは、色々むつかしいことあったんやろけど、素人の若い人たちだけでようやったネ」(東尻池町・Tさん)
◯「まだまだ大変だと思うのだけれど、長田の人たちが非常に元気なので感激しました。若い人たちも、たくさん参加してくれてるし」(西宮市・Yさん)
◯「雨みたいやけど、お祭りあるん?。もうー雨天決行!あの若い人たち、まじめにようやるもんネー」(真野町・Iさん)

メッセージボードの子供たちの声は正直だ
◯「じしんがこわかった」
◯「高取山のがけくずれが心配」
◯「じしんくるな」
◯「じしんのぼけ、しばくぞ。」

 長田マダンで活躍されているCさんも来られ、「子供たちが元気なのはいいですね。」と喜ばれていた。町の中で子供たちの遊ぶ姿が消えていたが、久し振りに、かけずり回り、はしゃぐ長田の子供たちに会えた復活祭があった。

よみがえれ! 心の町・長田!
◯「菅原にあった父のゴム工場は焼けてしまいました。子供のころ長田で過ごしました。長田は心の町です。ポスターを見て絶対行こうと復活祭に来ました。もうすぐ神戸を去り上州(中国)にお嫁にゆきます。長田、負けないで下さい!という思いでいっぱいです。」 (西区・Nさん)
◯「時には涙が出てくるけれど、少しづつみんなが元気になっていける気がします。」「生まれて初めてここに来ました。風と緑がきれいです。」
(メッセージボードより)

故郷の声を聞くと、心が軽やかになるんです。
◯「中国や韓国の唄を聞くのが好きです。ふるさとの沖縄の祭の音楽をきいていると自然と体が動いてきます。曲や踊りに似たところがありますネ。小学校に避難してますけど、祭は心が晴れてきますね。」(蓮池小・Tさん)

 次はいつですかと言う声も多かった。出店した人たちにも、とても気持ちの良いお祭りだったようである。また、救護のための、神戸朝日病院の看護婦さんも手持ちぶさただったようで、ケガもなく、みんな仲良く、お互いが助け合って良いお祭りとなった。みんなにありがとう。

(幹)


車イスガイド・制作雑記


 今回の雑記は、私竹内がこれまでの調査・制作で感じたことを述べていこうと思う。

 あれは4月の半ばのことである。「車イスの人のためのガイドマップつくろうと思ってんねん。」とすがちゃん(菅田智子)が提案してきたのだ。おもしろそうや!と思った私は即とびついた。それから一ヶ月が過ぎた。ここでは、時が経つのは早い。初めは本当にどうやって作っていったらいいのか全くわからず二人で右往左往していた。どのような「ガレキの街の車イスガイド」を作るのか、明確にはビジョンが見えていなかったのだ。が、吉良さん達に叱咤激励(?)され、とにもかくにも「やってみよう!」と動き始めたこの車イスガイド。毎号毎号いろんな人達からアドバイスを受けて磨きがかかり、少しずついい形になりつつある(・・・と信じている)。

 過去に5度ほど怪我をして、車イスではないが松葉杖の生活を余儀なく一ヶ月程したことがある。日頃ボーっと歩いていた道のりが非常に困難で険しい。少しの段差も障害として立ちはだかる。・・・しかし、怪我が治るとその苦しさは忘れてしまうのだった。初調査に出た時、初めて車イスを押した。力はあるぞ、まかしとけ!とばかりにただ力まかせに押していたが、それでは段差は越えられない。また、越えられてもその時の振動がかなり響いてしまう、乱暴な押し方なのだということを初めて学んだ。そこで、松葉杖の時の不便さ、苦しさを改めて思い出した。忘れたらあかん、次に活かさなあかんことを私は易々と忘れてしまっていたのだ。また、別にたいしたことのない傾いた道も、車輪のついている車イスではそちらの方に傾いてしまって、上手く進めないことにも気づいた。「当たり前だろ」と思われるかもしれないが、これがなかなか、普通に歩いていたらまず気が付かないことなのだ。

 長田の街は今、活気を取り戻しつつある。それは、工事の車だけでなく普通車の往来も激しくなった一般道路を見ても分かることだ。しかし、歩道の補修はなかなか進まず、また車や自転車などの障害物のため、車イスも車道を通らざるを得ないことはしばしばである。そうすると車の往来が激しくなった分危険は増す。といって、街にでないわけにはいかない。だから私達は調査にでる。調査・制作はしんどいことも多々あるが、人々のあったかい心に触れてホッとうれしくなることも同じだけある。初めは興味だけでとびついたが、これで車イスの人達も街にでれるホントウに活気のある街になったら・・・と今は思っている。

(竹内 伸子)

《お知らせ》
 これから車イスガイドは2週に1度の掲載となりました。従って来週はお休みさせていただきます。ご了承ください。

《お問い合わせ》
 TEL:521−7170 担当 船越まで


長田復活祭 お祭りスタッフのひとりごと


ステージ担当「たなしょう」の場合
 「『すたあと』っていうボランティアグループが、祭り企画してるらしいで。あんたバンドで出してもろたらどや?」桜亭という屋台の姉さんの言葉で吉岡順子(19)という小生意気な実行委員長と知り合ったのがきっかけ。何と、当時スタッフは彼女含めて3人。「この状態では、どないなるか…。」という言葉に不安げながらも、熱い気持ちだけが伝わってきて、気が付いたら「いっしょにやろか!」とハキ捨てた自分がそこに居ました。私はマジメ(?)な会社員ですが、素直に「祭りがしたい!」と思ったのです。私は、ステージ担当という重要な位置に置かれることになりました。企画等のアイデアには、少し自信を持っており、「まかせんかいっ。」と思ったものの、大きな問題がありました。委員長・吉岡順子の頑固なこと頑固なこと…。私の企画は彼女にことごとく認めてもらえず「こ・の・ガ・キ…」と歯をくいしばったものでした。また時には「こいつは神様や。神様がオレに試練を与えてはんのや。」と自分に言い聞かせたりもしました。しかし、彼女とも時間をかけじっくり話し合うことにより、何となくですがお互いにゆずり合うことが出来る様になり、何とか企画も前向きなものとなっていきました。そして祭り前の追い込みでは、社会人にして初めて4日間の総睡眠時間が2時間という地獄を体験したことも今となっては、いい想い出です。

5月20日バンドの祭典
 この祭典の最後には私の弾き語り(本来、これが目的でした。)をさせてもらい、他のバンドの方々や客席と一緒に『上を向いて歩こう』を熱唱しました。

5月21日文化の祭典
 いろんな国の舞踊や音楽を楽しませて頂き最後には「神戸太鼓」の皆さんはじめ、「長田マダン」その他もろもろの方々のスーパーセッション「長田どんちゃん」。お客さんもナベやバケツでリズムをとり踊り狂っておられました。当然、スタッフも私ももうワヤです。

 たった2日間で私達のいや、みんなの1つの青春が散りました。楽しかった。最後になりますが、御協力頂きました皆様、本当にありがとうございました。

(田中 省吾)

「さんちゃん」の場合
 「なんで誰もきてくれへんのー」始めは3人やった祭スタッフ。ほんまに大丈夫なんかなー。あと1ヶ月余りって時の心境はこれやった。「やっぱり告知が弱いねんなぁ。祭するって事も知らん人いっぱいおるやろ」そうや。そやからこうへんねん。来る日も来る日もビラを刷りまくった。「お願いやから誰か来てー」商店街や駅周辺等あらゆる所に配りまくった。トゥルルルー。電話が鳴った。「あのー。祭のお手伝いしたいねんけどーc」やったぁ。一人確保。トゥルルルルー。日に日に電話が多くなり、一人ずつ二人ずつ人数が増えていった。中には奈良や滋賀から来てくれる子まで現れた。人数が増えると共にそれぞれの分担も決まり忙しい日々が続いた。
 スポンサー探しに出演者探し、どれもスムーズにいかず、あせりまくりの毎日。「◯日までに◯◯を終わらせな間にあわへんでー」ドタバタ皆夜中まで頑張った(おつかれ)。
 でも、肝心な当日は雨だった。水たまりをなくすため、皆真剣な表情で溝を作ったり、シートをひいた。皆の願いが空に届いたのか次第に雨はやんでいった。私は本部づめだったので、ステージは見ていない。皆が盛り上がっている姿を横目で見、声を聞き、羨ましかった。最後に交代で『長田どんちゃん』を見に行った。すごく感動した。生きてて良かった。うるうる。

(三本木 三恵)

「いなじゅん」の場合
 「祭りを手伝ってくれ」。ここ、「すたあと」にきて一番最初にまかされた仕事がこれ。最初のうちは、ミーティングに参加しても居眠り。これじゃあだめだと思って、祭りのテーマのひとつである、各国の文化をとりいれる仕事を志願してしまった。なんの疑問も持たずに、人の定めた道を歩んできた僕にとって、何もない無からものを作り出すという作業はとても大変だった。何かをやって、失敗することが恐いんじゃなくて、何をやったらいいのかわからないこと、そしてその状態のまま時が流れてゆく。
 僕の仕事は各国の文化を祭りのなかにとりいれること。国際交流団体に問い合わせたり、電話帳をみて直接電話したり。でもたいていの人は無理。「今までやっていた店が震災でつぶれて、新しいところがやっと見つかって、これからお客さんをつかまねばならないんです」飲食店のご主人のすまなさそうな声。違うんです。あなたは悪くない。でも、協力できるならしたい、そんなあなたの気持ちが僕たちの祭りづくりにつながっている、今はそれをあなたに伝えたい。そして、長田を中心に集めるはずだった外国人も、震災のためお国帰り。理想とは全く違う現実。焦って何もできない日々。
 しかし、そんな苦しみも、お手伝いしてくれるスタッフや、ステージ・屋台の参加者が増えるにつれて、徐々にいやされていった。参加してくれる人たちも色々意見をだしてくれてc。祭りはどんどん形を持ち始める。長田を愛する人々が、長田のために。その心が一つに集まってゆく。
 そして祭りの日がやってきた。ぜんぜんお客さんがやってこなかったらどうしよう、そんな不安はどっかにいってしまうぐらいの人いり。二日目は天気予報をあざ笑うかのようにぽつぽつ降りにおしとどめ、お客さんも前日ほどではないにせよ来てくれた。何より嬉しかったのは、祭りで屋台をやってくれた人が、ステージに遊びに行ってるのを見たとき。ああ、みんなが楽しんでくれてるんだな、そう思った。
 僕自身、この祭りを通して、今までにない人間関係をえることができた。そしてこの場で得た、僕への人の真心は、永遠に僕のなかで生き続けるだろう。

(稲垣 淳)


長田復活祭・「祭」の瞬間 〜吉岡順子〜


 私がピースボートに入った2月20日から10日間程は「デイリーニーズ」を避難所の人達に手渡しで配っていた。その頃は祭がどんどん自粛されていた時期で、みんなの表情も暗く、疲れ切っていた。避難所の中では何もする事がなく、食べて寝て、ただそれだけを繰り返す日々を送っていた。
 私自身もボランティアをやろうと思ったのは、そうでもしないと他に何もすることがなかったからだった。そんな中で、「娯楽が欲しい」という声を頻繁に聞くようになり、以前から一緒に遊んだりしていた太鼓のグループを避難所に呼ぶことにした。こんな時にと言われるかも知れないが、私にはこんな時こそ唄や踊りが必要に思えた。
 その時の風景は、私が思い描いていたものと同じだった。太鼓のリズムに合わせて何人かの人が踊り出した。表情が、全く変わっていた。やっぱりそうだった。唄や踊りは自分の内側を表現することが出来るのである。うれしい想いや悲しい想いは、唄になり踊りとなってみんなの体の中からあふれ出していた。
 今まで忘れていた内なるリズムが体中によみがえってくる様を、踊りながら私は目に焼き付けていた。本来の唄とは、踊りとは、文化とはそういうものであったはずではないか。文化とは何か? 文化はその国の気候や風土や生活の中から自然に生まれ出たものであり、その国やその国に生まれた自分というものを一番自然に表現できるものであると思う。
 私は長田の中に28もの国の人々が住んでいると聞いた時、なぜ今まで長田に住んでいながら他の国の人々や、それを表現している文化を知らなかったのか、不思議に思った。そして、それと同時にその人達も私達の事をあまり知らないのではということに気づいた。
 私の家の周りには韓国の人が多く住んでいたが、普段から「外国の人達」というより、「近所の人達」として接してきて、あまりその違いも知らなかったことを、なんだかすごくもったいなく、また傲慢にも思えてきた。「近所の人達」として見るのはいいが、ただそこに居るという事実しか見えず、その人の存在自体が余り見えていなかったような気がする。でもこれは私だけではなく、ほとんどの人達がそうなのかも知れない。そしてお互いに知り合う機会がなかったのも事実である。
 私は、避難所のおじさんやおばさんが踊り出したのを見た時、前から知っていたはずのその人に、その瞬間初めて出会った気がした。その時、私もおばさんも全く同じ、仲間だった。同じ感覚をその瞬間共有することが出来たのである。
 人がすべてのものから解放された時、その人はその人自身として存在することが出来る。内側からすべてとつながることが、溶けるようになされるのである。その解放の瞬間を、すべての人と共に感じたい。そしてその瞬間を、民族の魂を彷彿させるもの、「祭」として表現したい。

 1995年5月21日
    第1回 長田復活祭
    <たましいの復活>
    −そしてすべてがひとつになった−


長田復活祭 祭を終えて.....


 クルクル取材に走り回った。スタッフでもなく観客でもない、記者という一番さめた目を持った立場で。しかし、それにもかかわらず、正直、引き込まれた。言葉にできない感動が、確実に、そこに存在した―そう、確信できた。

 あの震災から、4ヶ月。復興の兆しなんてものがマスコミで言われるが、きれいごとでしかない。いつまで続くか分からない、先の見えない生活を送る人は、まだ被災地にはたくさんあふれている。長田は被害が特に大きかった町。しかも、ずっと前から、様々な深刻な問題を内に抱えている町だ。

 そんな長田での祭はとても活気に満ちたものとなった。スタッフの内輪受けでは決して終わらずに、会場のあちこちで、小さな子供からお年寄りまで、人々の明るい声が聞こえてきた。祭を心から楽しむ気持ち、それは、クライマックスの「長田どんちゃん」で最高潮に達した。観客の、あまりにもすごい盛り上がり様。ステージで演奏していた人達もそこから下りてその輪に加わる。そうしてお互いがさらに盛り上げ、盛り上げられる。まさにひとつとなって、歌い、踊り、我を忘れた。「楽しかったu最高だ」と言う以上言葉で表現するのは不可能なほどの感動で埋め尽くされた祭会場が、そこに、確かに存在していた。
 この祭2日間の中で、たくさんの人々から声を聞くことが出来たが、この時ばかりは、私も含め、みんな感動を言葉にすることが出来ず、その時の取材メモは、空白のままで、書かれることはなかった。祭の最中、喧嘩やけが人が出ることもなく、祭を終えた後でもクレームが出たという話は聞いていない。ゼロから始まったこの祭は、そうとは信じられないほどの感動に包まれ、フィナーレを迎えたのだった。

 あの震災から、4ヶ月。復興の兆しなんてものはきれいごとにしか過ぎない、長田の現状。被災者の先の見えない生活は、いつまで続くか分からない。そんな中でのこの「長田復活祭」。どうして、喧嘩もケガもなくクレームもなく、あれほどの大きなものとなったのか。
 それはほかでもない。みんな、逃避したかったのだ。この、ガレキの町に生きる辛さと悲しみから。この祭によって、それをほんの少しでも忘れ去りたかったのだ。人は、辛いことがあると、それを一時でも忘れ去りたいがために、その逆の感情を得られる「なにか」を求める。辛ければ辛いほど、それを求める気持ちは強くなる。悲しいけれど、この町は、強く強く、あの震災からの全てを忘れ去るための、「なにか」を欲している。
 祭は終わり、やがて現実が再び目の前に姿を現す。でも、決して悲しみの中に落ち込まないで欲しい。「祭」というかたちで、若者達は立ち上がり、そして、やりとげた。どうか、それが長田復興の励みになるように、心から願います。

(編集部・河合敏雅)



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