「Weekly Needs」1995.5.21号(Vol.1 No.11)

Vol.1 No.11 表紙 橋谷あづさちゃん(5歳)

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Foreigners In Nagata 〜長田に生きる外国人 1〜


 「私たちの子供たちが大きくなる頃には、神戸が差別のない、フレンドリーな(親しみやすい)街になっていてほしい。」

 明泉寺町に住む丸山リリアさんは、8年前にフィリピンから日本に来た。長田の街がとても好きだ。海もあるし山もある。「外国人も多く「コスモポリタン」(世界主義的)な町だと思う。地震の時もその後も、沢山助けてもらったよ」と彼女は言った。リリアさんの家は、水道の復旧が遅く、給水車へ水を汲みに行った時に情報交換をしたりした。どうしても地震の直後は情報が不足していて、困ること・不安は多かった。しかし、助けられるばかりではなく、自分の蓄えを近所の人にあげたり、自分からボランティア活動もした。救援物資の集積地へ何度も往復し、食料などを車で長田区〜西区の各地に配って行ったりした。

子供と英語と日本語と
 子供はものすごいスピードで学習する。娘さんは今6歳。英語だけしかできなかったのが、幼稚園に行き始めてから日本語をあっと言う間に覚えてしまった。「今はもう、私より日本語がうまいよ」もちろん、英語も忘れてはいない。子育てで悩むのは母親なら皆同じ。「子育てはホントに大変、大変」とリリアさんは連発しながら、よちよち歩きの一歳の息子をいとおしそうに目で追った。

フィリピンと長田
 フィリピンには、女の子が小さいうちにピアス(イヤリングの一種)をつける習慣がある。しかし、娘が小学校側から、そのピアスをはずしてほしいと言われた。みんなと違うことで、いじめにつながる可能性があると、心配してくれたのだ。しかし、担任の先生は諦めないようにと励ました。そして幼い娘も「気にしない」と胸を張った。心強かった。リリアさんは言う。「良いと悪いの区別を習うのが学校でしょ。みんな色々な考え方があるのよ」

違うのはいけないこと?
 母親として、とても悲しくなることがある。それは自分の子供が外で遊んでいて、「あなた、ちょっと色が黒いからフィリピン人」と差別されるときだ。「みんな同じ人間で優しい心持っているんだから、良いところはもらった方がいい」

想いは両方通行に
 でも、リリアさんはとても前向きだ。「ちょっとくらいは、私たちの文化も伝えないと、いつまでもストレンジャー(よそ者)やろ」と笑う。リリアさんはいつも、6歳の娘に言っている。お互いの文化を分かり合えないと寂しいし、自分が日本から沢山のものをもらった分、自分も出来る限り返したい、と思う。「自分とは違うものからも、良いものは全部吸収したい」と、リリアさんは言った。

日本料理
 日本に来てから、まず覚えた料理が塩鮭。はじめて挑戦したとき、鮭を洗ってそれから塩をまぶした。それを語るリリアさんのお茶目な笑顔は、沢山したであろう苦労をみじんも感じさせない。料理は大好きだ。本を買って勉強した。今、得意な料理はてんぷら。そして、「お父さん」が好きな魚の煮つけや、ハンバーグ、コロッケなど、何でも来い!

長田に期待すること
 長田はとても素敵な町だ。だからこそ、自分の2人の子供が大人になる頃は、もっともっと良い町になっていてほしいと思う。今はまだ、長田の日本人と外国人がうまく溶け合っていなくて、失敗も誤解も多いけれど、一生懸命に協力して歩み寄っていきたい。流暢な日本語で、彼女は言った。「今回の地震の時、長田の心が変わった。みんな、あの時の助け合いの気持ちを忘れないでほしい。何かある時、何かの気持ち生まれるやん。そういう優しい気持ち、大切にしたい」
 国際化が叫ばれる今日この頃。でも、国際人て何だろう、なんて堅いことを考える前に、もっと身近に素敵な人達が沢山いるのを発見しました。長田はとても素敵な町です。世界中の20以上もの国から、この長田にやってきて、住んでいる人がいるのです。そんな人達を知らずにいるなんてもったいない!
 という訳で、今回は8年前にフィリピンからやってきたお母さんにお話を伺いました。ご自宅の外で、とてもよく晴れた日の陽射しの中、のんびりと春風に吹かれながら笑った顔がとても印象的でした。
(青木 佐代子)


私たちから見た神戸 〜長田を去ったボランティアから〜


 震災以降、長田には全国各地からボランティアが駆けつけてくれています。その中で「すたあと」が活動を受け継いだピースボートとつながりのある、佐賀県の団体から活動報告が届きました。その団体の名前は「整骨医療ボランティア実行委員会」と言います。2月11日に初めて神戸に入り、新湊川公園内仮設テントに無料整骨院を設置して以来、4月2日まで延べ20日間にわたり、500人を越える患者さんを治療してきました。
 オウム関連のニュースが日本中を埋め尽くしそうになっている今も、神戸の現状を気にかけて下さり、「すたあと」に後方支援して下さっています。この整骨医療ボランティア実行委員会を組織なさった隈本整骨院の隈本圭吾先生の呼びかけに応じた若いボランティアのうちの2人の感想を紹介します。
 「私たちにも何かできる」という「素直な気持ち」を大切にして、困難は承知で活動してくれました。原稿を書いてくれた時点とはかなり状況が異なりますが、彼らの神戸に対する思いは今も変わらないと思います。私たち地元の住民も、頑張りましょう。


地浦 英二君(中学3年生)

「出発」

ガタン、ガタン、ガタン
高速道路の居眠り予防の凹
凸で目が覚めた。
とても窮屈な感覚に
襲われた時、
車窓のカーテンから
陽の光が差し込んで
目に入った。
眠気がさめて
正気に戻った。
周りをよく探って見ると、
体の上に沢山の
救援物資が
落ちてきていた。
「そうなのだ!」
僕は今、
車で神戸に向かっている。
昨日の夜から
8時間もかけて。

「帰宅」

「パシャッ」
知り合って間もない人との
記念撮影、
でも、みんな
リラックスしている。

たった2日間の
ボランティア。
心を通わせる
ボランティア。
そして、何より、
笑顔が見える
ボランティア。

もっと沢山の笑顔を見に、
また来ます。
今度は僕が運転して・・。

(抜粋)


「私の見た神戸」 安藤 梨絵さん(高校1年生)

 1月17日、あの日からもう2ヶ月が過ぎようとしている。私の心の中では神戸に対する思いが薄れていた。そんなとき、整骨院の先生からの勧めで、迷うことなく神戸に行くことを決めた。
 3月9日、不安と緊張の中、出発した。神戸の街が近づくにつれて、灰と化した瓦礫の山が頻繁に目に映るようになり、改めて今回の地震の規模の大きさを思い知らされ、ピースボートのプレハブで夜を過ごし、翌朝、長田神社へ復旧祈願のため参拝に行った。その後、名倉小学校、兵庫県立文化体育館など幾つかの避難所を回った。その避難所では共同生活を強いられ、朝食と昼食がパンで夜は冷たく固いお弁当。野菜類が少なく、体調がよくないとおっしゃっていた。
 そのような中、蓮池小学校で昼食を頂いたが、あの時のあの暖かさは忘れることができない。また、お昼からは家々を回った。その時、どういうことを話せばよいのだろうかと、かなり迷ったが、同情するのはよくないと思い、「震災の時はどうでしたか」「一人だったんですか」「怖かったでしょう」と積極的に話をした。すると、「ホンマ、怖かったわ」「タンスに埋もれとったんですわ」と少々悲しげな顔で答えられた。が、このことを聞くのはやめておいた方が良かったとは、思わなかった。
 夜はピースボートのミーティングに参加させて頂いた。ミーティングでは、「今日は雨にも風にも負け、活動しませんでした。」と和やかな報告がされていたかと思うと、「これからの長田を考える会」を創ろうと色々と計画されていた。その時の真剣な眼差しがとても印象的だった。
 3月11日、御蔵小学校へと向かい、一人で教室の扉を叩き、「無料整骨医療ボランティアの者ですが、肩や腰、膝の痛い方はいらっしゃいませんか」と言えるようになった。もちろん初めのうちは、ドキドキしながら小声だったが、回を重ねるうちにそのようなドキドキはなくなっていた。治療の後、「おおきに。」「ありがとさん。」と言って下さって嬉しかった。自分は人の役に立っているのだと実感した。
 私が今までテレビなどで見ていた神戸の人は、遠慮も何もないのかと思っていた。しかし、それは映し出される映像が氷山の一角に過ぎないからだと分かった。事実、私が見た神戸の人は、ボランティアに頼りきっているのではなく、復興に向けて日々前向きに頑張っていらした。その頑張りに負けないように、私も頑張ろうと思った。
 私が大人になっていく過程の中で、今回のボランティアは貴重な体験になった。このようなチャンスを作って下さった隈本整骨院の先生には、深く感謝しています。また、一日も早く神戸の頬を撫でる風や周囲の風景も春の装いとなることを願いつつ、今日もゆっくり食事をとり、お風呂に入れることを幸せに思い、亡くなられた方のご冥福と一日も早い神戸の復興をお祈りします。


がてん日記・フリーター吉田の旅心


 「吉田君、引越の手伝い行ってもらえる?」「がってんです」5月某日、よく晴れた日に「すたあと」より預かった仕事は、長田区内の避難所から有馬温泉の近くまでの引越手伝い。長田区内の避難所で2トントラックに荷物を満載し、依頼人のSさんの運転で有馬方面に向けて出発!国道428号を北上するにつれ、緑が増えてくる。箕谷を過ぎると元気よく繁った新緑の山々。ゴミゴミした南関東から逃げるように神戸に来た僕は、すっかりドライブ気分。「少し車を走らせたら、こんなにのどかなところがあるんですね」「そうだろ、山に囲まれていい景色だろ」「今も良いけど、秋の紅葉も良さそうですね」「紅葉の時期に有馬温泉に行くと最高だよ」Sさんと会話を弾ませながら目的地へ。
 ってな感じで、毎日楽しみを見つけながらガテン(仕事)をしてる吉田です。4ヶ月や半年の短期間のアルバイトを繰り返し、時には、観光業界などの住み込みのアルバイトを見つけ、北海道などで生活する。そんなフリーアルバイター(プー太郎)の僕は、2年ほど前から神戸での生活に憧れていた。なぜ神戸に憧れてたかって?コテコテの大阪弁をしゃべる祖母の影響で子供の頃から”関西”という土地と関西弁に憧れていた(以前は神戸弁と大阪弁の違いを知らなかった)。その憧れを実現させようと考えたとき、関西地方の中で一番興味を引いたのは神戸だった。そんな中、阪神・淡路大震災が起きた。
 4月19日に長田に来るまでの3ヶ月間、ある事情から、アルバイトを辞められず神戸のことをラジオで聞くだけの毎日。「震災で仕事を失った人もたくさんいるのだから、今仕事をしていることを喜ばなくては」と自分に言い聞かせ、もどかしい気持ちを制していた。地震発生から3ヶ月が過ぎ、やっと長田に来ることができた。不幸な形で”神戸での生活”が実現された.....。
 海が近くにあり、いつも山を見上げることのできるこの街は、今まで憧れていた以上に魅力的な街だった。・・・しかし、「ここは素敵な建物だったのだろう」「ここには綺麗な町並みがあったのだろう」と、魅力を感じさせながらも痛々しい姿ばかりが目に入って来る。
 また、素敵な街が神戸に戻って来るだろう。そのために「ほんの小さなことでも力になりたい」。それが、ここにお邪魔させて頂いているせめてものお返しにならないだろうか。
(神奈川県鎌倉市 吉田 信昭)


車イス雑記

調査隊が行く! 〜須磨海浜水族園リポート〜

 「車イスガイドなんだから長田区に限らず、面白そうなところには足をのばそう!」そんな声が上がり、しつこいながら即断即決をモットーとする私たち調査団は、長田から比較的近くて車イスを使っても利用しやすい公共施設ということで、須磨海浜水族園のガイド制作を行うことになった。調査日当日。朝から雨。絶不調の調査日和の中、(わたくしすがちゃんはスタッフ内評判の雨女)すたあと事務局を後にする。

 ところで須磨水族園は、例の震災で半数以上の魚達を失い(イルカとラッコの命を守るだけで精いっぱいだったらしい)何とか魚の数は取り戻せたものの、今なお水族園隣の大きな駐車場は巨大な瓦礫置き場と化していると聞いた。ここでも震災の爪痕が未だこんな形で残っているようだ。

 雨とエレベータの設置されていない駅の階段を何とか切り抜け、最初予定していた順路通りに何とか無事水族園に到着。噂の瓦礫の山を横目に早速入園。水族園内での調査を進めながら、車イスの視点からでも充分魚を見ることのできる高さに作りつけてある水槽から、魚たちをみんなで見つめる。

 外へ出ると、すぐ瓦礫の山だけど、そんなことと関係なく、私が小学校の遠足で見たときと全く変わらない印象で、魚はゆっくり泳ぎ、イルカは相変わらずピョンピョン、ジャンプしていた。

 月日が経ってよそで何が起こっていても、一見魚達はなあんにも変わっていないようで、それがかえって私たちの心を和ませた。調査隊の一人、九州から来たあるボランティアの女の子はイルカに握手までしてもらい、興奮冷めやらぬまま調査を終え、一路帰路についた。

 今回のこの調査をきっかけに、これから私たちは長田区内のみに拘らず、ガイドを作る人もガイドを使う人も楽しめそうな場所に飛んでいって、調査をしていくことになった(もちろん長田区内の調査も重点的においた上で)。

 もともとこのガイドには、大きく確立されているスタイルがなかったものが、毎週の様々な経験によって、どんどんいいものになりつつある。実際にこのガイドを見て車イスを使う人達が楽しめる場所が一つでも多く見つけることができればええなぁ、と思いながら、今日も調査に飛び回る毎日である。
(菅田 智子)

◎車イスガイドに関するご意見・ご要望をお待ちしております。
・あそこを新たに調査してほしい!
・このガイドはこうした方がいいのでは
等ありましたら、
(電話)078-521-7170
すたあと事務局 担当:船越まで


.....粉じん調査隊からのお願いです。

みんなマスクしてぇ!!


アスベストって?
・天然に産する繊維状の鉱物
・ギリシャ語で<永遠に不滅>の意

奇跡の鉱物アスベスト
・非常に細かい繊維(髪の毛の五千分の一!→ガーゼも通ってしまう)
・水に溶けない、燃えない、防音に優れ、しかも安い!
     ‖
 建材として広く使われる

アスベストのなが〜い歴史
1970年代初頭に発ガン性物質であること、しかも約20〜40年後に発ガンすることが証明される。
     ‖
<静かな時限爆弾>として恐れられるようになる。
     ↓
1980年よりヨーロッパ8カ国で、その使用を全面禁止。
では日本では・・・?
8年前から小中学校のアスベストの吹き付けが社会問題に
     ↓
労働安全衛生法で、その吹き付け工事は禁止
この時点で日本の人々は「アスベストはもう使われていない」と安心する。.....が、実際には未だ年間21万トンの使用量。1991年現在、その約9割が建材として活躍.....。

アスベストが誘発する病気
悪性中皮種(18〜40年後に発病)、アスベスト肺(8〜25年後に発病)など。現在の段階では治療法なし。

というわけで・・・?
解体工事に伴い、多かれ少なかれ、この長田にもアスベストが飛散している。予防法として、100%安全とは言えないが、今のところ、防塵マスクの着用が有効だ。

すたあとのマスク着用意識
 「アスベストって何やろう?とにかく何か危険な物なんやろな」.....。それくらいの知識しかなかった私が半強制的にマスクプロジェクトを引き継がされたのが、3月の後半だった。
 「こ、こんなにアスベストって怖いものだったの?」久しぶりに活字を見ながら勉強するうちに、マスクが手放せなくなった。だって死にたないもん。毎週出動する粉じん調査隊も、各地で目に見える粉じんを発見。にも関わらず、すたあとのマスク人口は陽気と共に減る一方。ここに来る地元中高生も、マスク着用にかなり抵抗があるようだ。でも、自分の体は自分でしか守れない。だから今日も確かめる。「みんな、マスク持ったぁ?」
(ひろみ)


移動お絵描き教室

「いま、絵でもかいてみよ会」の発表会

子供たちの絵を見に行こう!!

 「子供達はもう元気ですよ。喜んで、一人で6枚も7枚も絵を描いている。会場には50人くらいの子供達が集まりますが、カラフルで楽しい絵が多いです」。各地で移動お絵描き教室をお世話されているアートスペース・森羅の藤田敏則さんは、電話口で丁寧に答えて下さる。

 長田などの子供達が描いた絵を見てきた後、震災前後の子供達の絵の変化を問い合わせてみた。「同じ子の絵を見ていないから、変化は分からないけれど、子どもはもともと元気なんですよ。地震そのものの絵はなく、動物や植物や、キャラクターの絵を描いていますね。」「震災後は、親の方が不安やストレスがあり、子どもにそれが移っていたのではないでしょうか。絵を描いた後は、子どもたちは実に伸び伸びしてきますねぇ。」

 「自動車につっかい棒を描いた子に聞いてみたんですよ。地震があっても倒れないし瓦礫の中でも走れる車なんだ、と話してくれました。」と、スタッフと絵を描く子供たちとの優しいやりとりが目に見えて来るようだった。
 長田商店街にある兵庫銀行・長田支店の二階にある会場で、5月31日まで、絵は展示されている。

(幹)

楽しいおしゃべりと
ともにお絵かきタイム
芳原文子さん
(60歳)
かみでみことちゃん
(5歳)
大野 誠くん
(5歳)

「長田復活祭」



1995年5月20日・21日開催 水笠公園にて
11:00 a.m.〜7:00 p.m.

長田復活祭

〜たましいの融合〜
歌い踊ればすべてはひとつ、
長田はそこからみえてくる。
他、いろいろと企画中。

主催
長田復活祭実行委員会
吉岡順子
TEL 078-521-7187
FAX 078-577-0157



numata@sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp