「Weekly Needs」1995.4.30号(Vol.1 No.8)

Vol.1 No.8 表紙

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長田再発見−日曜日には自転車に乗って−


かもめ飛ぶ長田港
 「何が釣れますか」「アブラメ。餌はゴカイや。」長田港で釣りをするおじさん2人。横で話しかけるおじいさん若干1名。波打ち際には、海藻があるせいで、小さなつぶ貝もたくさんいる。海水もきれいだし、海や舟のある風景は心が和む。「大変やったが、4〜5年したら、ええ街になるやろなー。」釣り糸を垂れながらのおじさんの言葉に、被災者の1人の私も随分と励まされる。

港がある町、長田
 体を動かしたくなった日曜日、自転車に乗って長田港に出かけてみよう。復興の工事も日曜はひと休みのところが多く、自転車も走りやすい。東尻池2丁目の交差点からスタートしてみた。国道2号線の歩道部分を西へ走る。大橋2丁目を越え、次のフクトク銀行と第一勧銀の間の道を南に折れる。港なんかあるんかなあと思いながら走る。

商店街は復興途上
 西新開地と呼ばれたこの辺りは本町筋、大正筋、六間道など商店街が多い。震災ですごいダメージを受けたが、多くの店は「みんなでガンバロー」、「営業中」だ。二葉町にはコーヒー200円の店(ミッキー21)などがあり、嬉しい。二葉町の通りを南に向けて走ると南駒栄にぶつかる。公園にはブルーテントや仮設が多い。被災された方やボランティアの人が忙しく活躍する姿もある。

海が見えるで
 公園をバス停の方向に行かずに、駒ヶ林会館のある大きな通りを西に走る。右手に駒林神社を見て顔を左に振ると小さな入り口より港が見える。これが長田港だ。いかなごのシーズンは終わったが、住吉丸や戎丸など十数艘の漁船が停泊している。長田は海もある町やなあ。それにしても第38戎丸のかもめはのんびりしているぞ。

長田はアジアの窓口だ
 港の前の駒林神社の案内によると、源平の戦いよりももっと前、駒ヶ林は中国(唐)や朝鮮半島(高麗)から来る人のための役所(玄蓄)があったという。これは千年以上前のことだが、震災後、今また長田でアジアの人を含めた世界の人々との新しい交流が始まろうとしている。長田港に吹く風は心地よい。
 (註:バスで行く人は大日ヶ丘住宅前より出ている101系統のバスの終点が駒ヶ林公園。1時間に1本と少ない。須磨水族園行きのバスで大橋5丁目か大橋9丁目で降り、南に下るのもよい。)
(幹)


がてん日記


 ぼくは戻ってきた。長田の菅原商店街に戻ってきた.....。菅原商店街はこの震災で大火事にあった。道の両側に並んでいた店は、空襲を受けたかのように黒く焦げたガレキの山となっていた。三月にボランティアとして長田の街にやってきた。初めてのボランティアの活動が菅原商店街でのガレキ撤去だった。ここが商店街だったと聞いていなかったら、何があったのか全く分からないに違いない。ガレキだらけになったこの商店街をお店が開けるようにしなければならない。そのためにまず、邪魔なガレキを除くのが僕たちの役目だった。
 ここは一体何屋やったんやろかー。土砂を掘っても掘っても、出てくるのは黒こげのパイプやレンガばかり。全然分からない。ひたすら掘って掘って掘り続ける。一番下のコンクリートの床がやっときれいに見えた頃には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。でも、ついにここが何の店だったのかは分からなかった。次はこの上にプレハブを建てる。僕はこのプレハブが完成する前に帰省してしまった。もちろんこのプレハブが何になるのかも知らずに.....。
 ときどきテレビや新聞に現れる神戸の話題は、復興・復興ばかり。菅原商店街もきれいになってプレハブがいっぱい建っているんだろうなあ、と勝手に思っていた。
 僕は戻ってきた。4月11日だ。あのガレキ撤去から1ヶ月以上も経っていた。僕は走った。もちろん、あの商店街にだ。菅原商店街に着いた。待っていたのはプレハブのお店が並んだ姿ではなく、赤茶けたガレキだった。変わってないやんか、何でやー!何だかムカムカして仕方なかった。
 完成したあのプレハブの前で、トラックから段ボールを降ろしているのが見えた。奥からお店のおばちゃんが出てきた。おばちゃんのお店は、酒屋さんだった。おばちゃんは何度も頭を下げて、ちょうど今日お店が開く、と言っていた。忙しく動いていたけど、本当に嬉しそうだった。そんなおばちゃんを見て、こっちも嬉しくなった。やってよかったと思った。
 菅原商店街は、本当にゆっくりゆっくりと変わりつつある。がんばれ!


介護補助ボランティア募集!!


 東灘で一人暮らしをしている沢田隆司さん。彼は6歳の時に熱病にかかり、四股マヒと言語障害が後遺症として残りました。一人の障害者として精いっぱい生きていく沢田さん。自立のため、自分の好きな生き方をするために、神戸で一人暮らしを始めて16年が経ちました。先の震災で身障者にとって不自由なことがさらに多くなりました。そんな中でも、負けずに生きていこうとする沢田さん。それには、彼を支える介護の力が必要です。
 幼い頃からの彼のハンディキャップ。それを少しでも補い、身障者がこの社会で生きることを支える。難しいことではありません。あなたのほんの少しの力で、温かい助け合いの輪が生まれるのです。

◎介護とは何か? ・メシを作って一緒に食う。
・外出のとき車椅子を押す。
・その他、沢田氏とのコミュニケーションによって、全ては決まる。
※右手を支えてあげると、文字盤で意志を表明します。

介護をぜひやりたいという方でも、そうでない方も、
078-822-7326 まで。
まずは彼の生き方に触れてみて下さい。


すたあと〜私の活動雑談〜


 私とすたあとの出会いは朝日新聞だった。失業中の私は、新聞の求人欄を見るのが日課だった。震災1ヶ月後、少し私の中で余裕が出てきた頃だった。「これからの長田を考える会」の第1回会合が開かれるという記事だった。何かしないと、でも何ができるのだろう、と思っていたので、「−−会」に行くことにした。きっと何かが見つかるはずだと期待して.....。
 参加してみると、やはり集まった人々はみな同じ気持ちだった。しかし、何をすれば良いのか、その場では見つからず、とりあえずは会の活動に参加することから始めた。活動を共にしているピースボートのミーティングに出、その一方で毎週一回の会合に参加した。ボランティアの経験の全くない私は、ボランティアの人たちの活動にただ感心するだけで、なかなか自分のものにすることは出来なかった。何だか隔たりも感じてしまった。そのため少し足が遠のいてしまっていた。
 が、今何かができる私が何もしなければどうするのだ、と思い直した。そして今度は、無理せずできることからしよう、出来ることを見つけよう、という気持ちで参加し今に至っている。
 会に参加してから五十日が過ぎようとしている。あっという間だった。五十日かけてようやく自分が一番生かせる場所が見つかったような気がする。これからが本当の意味での私の活動の「すたあと」である。

”フリースペース「なごみ」報告”
 4月23日(日)、在日研究フォーラムがなごみにおいて、映画「アリラン」の上映会を開いた。この映画は日本による植民地支配下時の朝鮮民族の悲哀を描いたものである。当日は約30人が集まり、スクリーンに熱い視線が注がれた。


ガレキの街の車イス・マップ誕生! −第1弾−


 かつて長田区では「車イスマップ」というものがありました。車イスを常に必要とする障害者の人々が、少しでも長田の街を安全で快適に外出しやすいようにと、殆ど自分達だけの力で4〜5年というものすごい日数と手間をかけて作り上げたものでした。しかし、この震災で長田の街はすっかり変わってしまいました。ゆがんだ道、放置されたままの自転車、道路にまではみ出たガレキの山.....。せっかく作った車イスマップも使えなくなってしまっているばかりか、彼らは容易には長田の街に出づらくなってしまいました。
 そこで、私たちすたあとのボランティアメンバーが、障害者の方とガッチリ協力体制を組んで、今のありのままの長田の街の車イスマップを作っていくことになりました。「区画整理や再開発などで、長田の街はいずれ変わってしまう。今の時点でそれを作るのは無駄足ではないか」という意見も聞かれました。しかし、今の長田のガレキや焼け跡だらけの「非日常」の街で生活する力が私たちにはあっても、身体障害者である彼らにはとても難しいことなのです。今こそ、新しい車イスマップを作る必要性が高いのです。
 これから私たちは、障害者の方が利用することの多い駅、商店街、公共施設を中心に、制作隊を出動させていきます。これは私たちだけで制作することは出来ません。毎日自分の手や足を使って歩ける私たちと、車イスを使って街に出る彼らとでは、全く視点が違います。私たちにはいとも簡単に越えられる道の段差なども、彼らにとっては大きな障害です。そこで、実際に障害者の方と一緒にマップ作りをすることによって、一方的でない、本当に必要性の高いマップを作っていくことができるのでは、と思います。
 この車イスマップ計画を、これからすたあとの福祉活動として存続させていくためにも、皆さんの力が是非とも必要なのです。すたあとでは、この車イスマップ作りに少しでも協力してくれる方を大募集しています。どんな形でも結構です。興味のある方、下記までご連絡を!お待ちしております。
(菅田 智子)
長田区御蔵通5-5 すたあと事務局
078-521-7170(担当:船越まで)


おかあさん、だいじょうぶ?


 前回お知らせしたお父さん、お母さんの交流広場の開催日が決まりました。お子さんの手を引いて、お散歩がてら遊びに来て下さい。今回は色々な方のご協力により、オムツ・ミルク・離乳食などのお土産があります。ゲストとしてカウンセラーの川畑真理子さん。そして精神衛生支援団体の子供の心理学の先生が来て下さる予定です。

日時:5月13日(土)午後2時
場所:すたあと本部1F「なごみ」にて


ポリタンクをラバウルへ 〜神戸から支援を〜


 震災直後から長田で活躍し、「ウィークリーニーズ」の前身、「デイリーニーズ」を発行していたボランティア団体、ピースボートから、皆さんへのご協力のお願いが届きました。

ラバウル
 パプアニューギニアのラバウル。「さらばラバウルよ、また来る日まで」と軍歌でも歌われるこの街は、太平洋戦争敗戦時まで南太平洋戦線の司令部として第17軍の基地が置かれていました。

噴火で町は壊滅
 そのラバウル近郊のタブルブル、バルカンの両火山が突然噴火し始めたのが、昨年の9月18日。人口二万五千人の町全体に火山灰が降り積もり、ほとんどの建物が地震と灰の重みで倒壊しました。事前の余震で住民は隣町に避難したため死者は5名でしたが、被害状況は非常にひどく今なお電話すら不通で、銀行・店舗・住宅も壊滅状態です。

進まない復興作業
 今は雨期。毎日の雨で土石流が発生し、復興作業を妨げています。神戸と違い世界的に注目されず、内外からの充分な援助活動もない。ラバウル市民は今も避難生活を強いられています。

再定住計画
 そんな中、ラバウル州政府は、住民の再定住計画を進めています。これは、山を開拓し、そこに住民の自給自足が可能な村を作るというものです。

神戸にできること
 その中で、水を確保するためのポリタンクが不足しています。神戸の震災直後からの断水期に大活躍し、現在は不要のポリタンクを、どうか譲って下さい。集まったポリタンクは、ピースボートが6月に現地に直接持っていきます。
 神戸の皆さん、ぜひ、神戸での支援の輪を世界につなげて下さい。


「長田復活祭」


 「長田復活祭」途中経過

 本誌に掲載されるこの記事をご覧になった方から、様々な声が寄せられ、祭スタッフ一同、大変喜んでいます。しかし、私個人の文章の至らなさから、他の祭スタッフや編集部に迷惑をかけていることも判明致しました。祭の記事は、とても目立つページを使っていることもあって、責任の重大さを改めて痛感しました。それを踏まえて、今回は「長田復活祭」の途中経過をお知らせ致します。
 現在の決定事項から、まず日にちと場所ですが、

5月20・21日(土・日) 水笠公園

です。時間帯は午前11時から午後7時の予定ですが、まだ本決まりではありません。

 それから、今現在どんな人が参加しているのか。まず屋台ですが、北野にお住まいのペルーの方がお国のお菓子を作りましょうとおっしゃって下さいました(どんなお菓子かはお楽しみに)。そしてブラジル・ベトナムと、なるほど面白そう、と関心を持って下さっています。次は音楽関係。ペルーのフォルクローレ(コンドルは飛んで行く等有名)、中国の留学生楽団など。しかし、屋台・ステージ出演とも、地元の方々からの声がやや寂しいのが現状です。以前お願いしました通り、地元のための祭りという重要なテーマを濃密にするためにも、是非ともご参加下さい。



numata@sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp