「これまで、ピースボートに寄り掛かっていた部分が多く、自立せねばならんということで、不安が大きいのですが、頑張っていきます。」「すたあと」の宣言、そして満場の拍手」。4月1日、約50人が見守る中、ピースボートから、「すたあと」(旧・これからの長田を考える会)への引き継ぎ式が行われた。「すたあと」という新名称には、これから新しい長田がスタートする、スタートさせる、というみんなの願いがこもっている。
まず、ピースボートからは、1月24日からの活動を振り返ると同時に、長田の未来への力強いエールと、受け入れてくれたことに対する感謝の言葉が送られた。続いて、「すたあと」代表の三谷真氏が、ピースボートに対し、感謝の意を表すると共に、今後の復興への長田の住民としての決意を語り、こうして長田は新たなるスタートをきった。その後、ピースボートから「すたあと」への、現在の活動拠点であるプレハブを含む目録贈呈、「すたあと」からピースボートへは、花束が贈られた。また今回は、地元への呼びかけの成果を反映して、長田内外から、多くの人が応援に駆けつけて下さり、「すたあと」にとっては、心強い第一歩となった。ピースボートは、長田へ、想いを託した。
「これからは地元の人が復興の活力となって長田を支えていって下さい。」
長田区役所西の新湊川公園に東京からピースボートが入ったのが1月24日。2tトラックに機材を詰め込んで8人で到着。生活かわら版「デイリーニーズ」を被災者に届けるために。「デイリーニーズ」は、避難所・テント生活者を中心に配達する新聞だ。マスコミでは追いきれない長田に密着した情報を、また様々なデマが飛び交い、情報が欠落する中、正確な情報を知ってもらう。そのためには被災地のど真ん中で実情を知ろう。そんな想いで長田で発行を始めたのだ。
1月25日に創刊第0号を二千部発行。最初はB4の紙に表だけのものだった。それが始まりである。それから毎日毎日、手渡しで。これがとても大切なことだった。最初はけげんそうにしていた人も、だんだん理解をしてくれた。「いつもありがとう。楽しみにしとったで」と言ってくれる人も。そして手渡しで配ることによって、様々な問題も被災者の側から直接聞くことができた。あの物資が足りない、ガレキの中からあれを取ってきてとか。
ピースボートに来るボランティアの数も増え、物資もたくさん集まってきた。新聞を発行するのと同時進行で、こういった被災者のニーズに対応すべく、色々なチームが出来上がった。まず、避難所の常駐。避難所の管理から雑用までを担当した。そして、物資の受け入れ・提供。各地から集まってきた物資を、新聞の配達員が被災者から直接聞いてきた要望をもとに提供した。その他にも、ガテン(力仕事。ガレキ撤去・引越・プレハブ建設等)、福祉関係(こどもや老人、障害者のケア・介護)も担当し、炊き出しも行った。
新聞の配達から人と人とのネットワークができ、直接要請を受け、それに答えるシステムも出来た。その新聞自体もだんだん部数を増やし、一日一万部以上発行の、長田で初めての大メディアとなった。
あの震災から、一日一日と過ぎていく。被災地の状況も日毎に変わっていく。ボランティアに対するニーズも変わってきた。「自治を助けるボランティア」が求められてきた。延べ何百万人も入っていた人たちも地元の自治の妨げになってはならない。地元の人が、自ら自活の道を探らねばならない時期がもうすでに来ているのではないかと。そして、その神戸以外から入ってきたボランティアが撤退をしなければならない。4月からは、仕事が、学校が始まる。彼らには彼らの生活があるのだ。
そういった中、「これからの長田を考える会」が発足した。ピースボートから、長田区民の松本さんが「デイリーニーズ」引き継ぎの要請を受ける。この新聞によって出来た人と人とのネットワークをなくすのは余りに惜しい。また、地震によって住民同士の絆が固くなった今、長田を一つにしたい。そういう想いがあって快く承諾した。
さらに、関西大助教授の三谷さんがピースボートにボランティアとして入る。「地元の人間が何かしなければ」。多くのボランティアが3月末で撤退をしていく中、それ以降の活動は地元の手で引き継がなければならない。三谷さんはその必要性を強調し、松本さんもそれに同調した。そして田中さん・南さんも加わり、「〜考える会」が旗揚げされたのだ。
地元の人をどんどん巻き込むべく、3月3日(金)「〜考える会」第一回会合がピースボート本部一階で行われた。テーマは「ボランティアの地元への引き継ぎ」である。この日集まった人は百二十名余り。立ち見が出るほどで、関心の高さが伺われた。
3月9日(木)「デイリーニーズ」最終第39号発行を最後に、「ウィークリーニーズ」へと引き継がれることとなる。編集長は松本さんとなり、地元の人による制作体制が出来上がる。「〜考える会」会合はその後も毎週行われた。4月1日(土)、80名程度の地元住民、ボランティア、またマスコミが集まる中で「引き継ぎ式」が行われた。「〜考える会」の名称もこの日から「すたあと長田」に変更。地元の人がスタートさせる今後の活動への意気込みも込めて、今、「すたあと」し始めた。
4/1に私たちはピースボートからの引き継ぎ式を終えました。その”引き継ぎ”!の内容の中にボランティア活動が大きく含まれます。今、私たちが具体的に行っている活動内容として
さる3月末日に、私たちの生活を支えてくれていた主なボランティアのグループが、長田からそれぞれの地元へ帰っていきました。今からは、自らの手で生活を支えていかねばなりません。3月3日に発足した「これからの長田を考える会」は、この課題に応えるために、地元住民による地元住民のためのボランティア団体を目指して、4月1日に「すたあと・長田を考える会」として再スタートしました。地元住民のみなさんのご理解とご支援を切にお願いいたします。
呼びかけ人 三谷 真
今、アスベストは「静かな時限爆弾」と呼ばれている。変質することなく体内に長期間潜伏し、20年から40年後の忘れた頃に発病するのでこう呼ばれる。つまり、20年後に、20歳代から40歳代の前途ある人々が肺ガンでばったばったと死亡する、ということが起こっても全く不思議はない。そして、その原因を調べてみたら、1995年に神戸で、無防備にアスベストを体内に吸収していたことが分かった、なんて、充分に起こりうることで、決して大げさな話ではない。
実際、石綿労働者の作業服に付いたアスベストを吸い込んで発病した家族は多い。また、姉妹が二人とも悪性中皮種で死亡した例では、子供の頃、二人でアスベスト含有建材でできた小屋に上り、ブラシでコケを落として遊んでいたことが分かった、という報告さえある。
3月末、神戸地球環境研究会(代表・東条健司氏)は、神戸・三宮でアスベスト・粉じん測定及び分析を行い、アスベストを検出した。場所は阪急三宮北側付近の建築物解体現場で、60分で180リットル吸引する簡易測定を行った。小さな箱形のいわば掃除機に細いホースで空気を吸引し、フィルターに付着した物質を分析して成分を調べる。
結果は、1リットル中に9.52本のアスベストが含まれるという極めて高い数値が検出された。大気汚染防止法による規制基準は、防塵マスク及び作業服着用を義務づける石綿(アスベスト)取扱い工場の敷地内ですら1リットルに10本である。一般の人々が通行する街中では考えられない高い値だ。震災による家屋の倒壊や、その後の解体工事によって建材に使用されていたアスベストが飛散したのが原因である。
以前から新聞等では報じられているが、2月下旬には、基準の25倍の濃度が確認されている。アスベストは大変微細な繊維で、髪の毛の五千分の一ほどの太さなので、私たちは吸い込んでいることに全く気付かない。
アスベストは、人体に対して特に有害な物質であることを示す「特定化学物質」に指定されている。図1(Webでは略)は、アスベストが誘発する病気をまとめたものである。悪性中皮種は、ガンの一種で非常に進行が早く、殆どの患者が、診断されてから1年以内に亡くなるという。
アスベストは、水に溶けない、燃えない等の特質を持ち、「奇跡の鉱物」と呼ばれ、断熱材等の家の建材として多用されてきた。しかし、発ガン性物質だということが明らかになり、1975年には原則禁止とされたが、甘い規制をくぐり抜け、今でも年間21万トンのアスベストが輸入され、使用されている。これは、アメリカでの使用量と比較すると、面積あたり194倍にもなる量である。
肺ガンを含む様々な病気で亡くなった方々の肺を調べると、1965年から74年に、肺の中にアスベストが見つかる人は52%だったのが、1984年から88年には、99%の人の肺からアスベストが発見された。それだけ私たちの身の回りにはアスベストがあふれている。
どんなに少量のアスベストを吸い込んでも、ガンになる可能性はある。安全な濃度はない。しかし、やはり、吸い込んだアスベストが多いとそれだけ発病率は高い。
神戸市内には、間違いなくアスベストが飛散している。長田も例外ではない。震災による家屋の取り壊しが神戸で続く以上、少なくとも半年は有害物質が空気中に浮遊している可能性は充分にある。一人一人が安全意識を持って、防塵マスクを着用して自己防衛されたい。
ウィークリーニーズでは、粉じんマップを作成すると共に、隔週を目標に防塵マスクを置いている店を地図に表すなどして情報面のカバーをしていくつもりである。しかし、実際に体を守るのは長田の住民自身であることを改めて認識して頂きたい。
4月1日(土)午後2時から、神戸各地にてチャリティーコンサート「4・1こんなんうそじゃ」が行われた。歌手の桑名正博さんが呼びかけ人で百名近くのアーティストとタレントが神戸市内の避難所等で一斉にコンサートを行った。南駒栄公園もその会場の一つ。日本人とベトナム人がテントで生活をしており、他とは異なった不思議な雰囲気のするところだ。畳8畳ほどのブルーシートの観客席と、5・6m位のテントのステージ。日本語とローマ字の手書きの歌詞カードもあり、いかにも南駒栄公園の人たちの手作りという感じがする。出演するバンドはプロ・アマ含め2組。
さあ、午後2時、雲は多いがまずまずの天気。さあ始めよう!だが、最初のバンドが到着しない。50分程過ぎても来ない。しゃーないな、ということで残りの1バンドが演奏を始めた。観客は多くないが、みんな楽しそうにしている。バンド名は「にわか」。にわかに出来たからだそうだ。まず、2人でハーモニカのセッション。演奏するのは、ボランティアの青年とカナダの人だ。お互いがお互いの音と重なり合って調和したリズム感が心地よい。さらにエレキギターが加わる。さらに強調されたリズム。観客の子供達はみんな手に棒を持ち、バケツや鍋蓋をたたき出す。大人もとても楽しそう。
午後3時、「ヤングマン」がラジオから流れだした。全ての会場が同じ歌で結ばれる瞬間だ。ラジオの向こうは大歓声。南駒栄公園でも大騒ぎ。みんなで「Y・M・C・A」と手を振り出す。ステージ反対側のテントの屋根の上でも子供達が踊っている。そして、ギターとサックスのセッション。さっきとはうって変わって落ち着いた感じに。掛かっていた雲も晴れ、とてもいい天気。ギターは静かに音を刻み、サックスはそれに動きを連ねる。幻想的なメロディーがあたりを包む。それが南駒栄公園の独特な雰囲気にとけ込んで、時が止まったよう。オリジナル曲も含め、一通り聞かせてくれた。最後は「見上げてごらん夜の星よ」「上を向いて歩こう」の合唱で締めくくられた。
バンドが来なかったり、観客も決して多くはなかったが、演奏する人も聞く人も、みんなでコンサートを作っていたんだと、強く感じた。元気を届ける音楽の力は、どうやら南駒栄公園の人々に伝わったようだ。