「Weekly Needs」1995.3.20号(Vol.1 No.2)

Vol.1 No.2 表紙

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ナガタ、40年後も生きてるぞ宣言


 「なんや、なんちゅうマスクしとう」マスクをしていないあなた、一度はこう思ったことがありませんか。でも、ちょっと待って。恐ろしい粉じんを忘れてはいませんか。油断している間に、有害物質をいっぱい含んだ粉じんが、ジワジワと体内に忍び込み、あなたの健康と未来を刈り取ろうと待ちかまえているのです。

マスク着用大作戦
 今、長田では、ボランティアグループによるマスク着用大作戦が展開されています。ビラ等でマスクの必要性・重要性・効果を訴え、皆さんに自分の身を守って頂こうという狙いです。なぜマスクが必要か、どこで、どんなマスクが手に入るのか、といった情報を私たちは、できる限り提供していくつもりです。
なぜマスク?
 現在、神戸中に蔓延している粉じんは、アスベスト、ダイオキシン等、たくさんの有害物質を含みます。しかし、それらは目に見えない大変微細な物質なので、なかなか認識されません。変質しないそれらの物質が、知らず知らずのうちに体内に蓄積され、肺ガンや中皮種を発病するまでに二十年から四十年を要します。これを予防するためには、有害物質を体内に取り込まないようにするしかありません。それには、マスクをするのが、私たちにできる最も有効な手段なのです。
どんなマスクを?
 アスベストやダイオキシン等の有害物質は大変細かい物質であるため、普通の紙・ガーゼマスクでは防ぐことができません。有害物質を吸収する活性炭が入っていて、顔に密着する防じんマスクを着用する必要があります。「農薬散布」の表記は有効なマスクの一応の目安になります。
一人一人が危機感を!
 ボランティアが供給できるマスクには限りがあります。時間的制約もあります。大切なことです。住民自身が取り組んでいかない限り、成果は期待できません。ボランティアは、きっかけを作るだけです。身を守るのはあなた自身です。自分の体です。長田の未来です。そして、少なくとも半年は続くマスク着用期間を乗り切るためにも、どうかご自分でマスクを入手して下さい。
調査にご協力を!
 図1は、「粉じん調査マップ」です(Webでは略)。大勢のボランティアが、家屋解体現場を中心に街を歩き回ってホコリが多いところをチェックし、それを長田区民(後述)が震災前の状況をふまえて確認、図示したものです。しかし、これは工事現場と共に変わりますので、当然住民からの情報提供なしには成り立ちません。マスク着用大作戦はこの地図を参考に展開されるので、皆さんの情報提供をお待ちしています。
 また、後述の表1(Webでは略)は、現時点で防塵マスクをおいている長田区内の店の一覧です。表中の番号は、地図と呼応して場所を示しています。
ある長田区民の活躍
 そのマスクプロジェクトに、長田区民のボランティアが一人います。地元の住人であるという利点を生かし、今では大勢のボランティアを動かす重要な指令塔。十八歳の彼は、3月初め、区役所にマスクを届けに来たところ、そのままプロジェクトの中心人物となったのです。「やりがいがありますよ。」自分はボランティアをやれるだけ幸せだと思っている、と彼は言います。「無理に手伝えとは言わんけど、できたら協力してほしいと思います。僕らが発するメッセージを理解して、受け入れてほしい。みんな頑張ってます。」
おことわり
 尚、今週お届けする予定だった粉じん・アスベスト測定現場同行のご報告は、結果を待ってお知らせしたく、今回は見送らせて頂きました。

おばあちゃんはどこへいくのか


 「おばあちゃん、あんたの住んでた家は半分道路になるそうや。十何米の道路が通るんやて」。避難所にいるおばあちゃんの所へ、近所のおじさんがやってきて言った。家がなくなるやないか。体育館に避難していても、おばあちゃんの頭の中にある家は、地震の時に崩れた家じゃない。路地に花壇があったり、窓の外側に置いていた花を道行く人がほめてくれたりする家なのである。その家が半分なくなる!それに、今までの倍以上も道路が広がったらどうなるのか。広い道路は人のためじゃない。通過する車のためだ。そんなことはおばあちゃんにだって分かる。
 あの地震の時、幹線道路は避難する人の車で埋まった。あの車に火がついたらどうなっただろう。幹線道路はそのまま火の道になったかもしれない。ただでさえ、あの狭い道は、近くの幹線道路から別の幹線道路への抜け道になっているというのに。十何米の道路になったら、あそこは今以上のバイパスになってしまう。そうなれば、町はそこからまっぷたつに分かれてしまう。そんなになったら、毎朝隣近所のみんなの顔を見てあいさつするおばあちゃんの楽しみも、なくなってしまう。みんな顔見知りで、よく知っているから、あの日、たくさんのおばあちゃん、おじいちゃん、そしてみんなが、町の人の手で助けられたのだ。


インフォメーション


池田小学校の卒業式
 みなさん、こんにちは。僕たちの卒業式が3/24(金)10時からあります。僕たちの小学校も今度の震災により、避難された方が講堂におられました。しかし、卒業式・入学式などの行事があるからと言って快くのいて下さり、その上、そうじもしていただきました。そんな中での卒業式、ぜひ見に来て下さい。
餅つき大会in市住
 3月12日(日)10時から市住地域の空き地でこどもによるもちつき大会が行われました。こどもたち約40人ほどが参加して、自分たちがついたもちを自分たちで、食べに来た人たちに振る舞いました。またピエロや紙芝居も参加して、とても賑わった一日でした。


長田を考える会・活動報告 −今、私たちはこんなことをしています−



1995.1.17 その時、わたしは・・・


 三月十二日(日)、四時より二時間、御蔵通りにあるピースボート神戸本部一階の「なごみ」で、「住民が語る被災体験」の会合があった。

仮設が私の第一歩
 「地震が神戸にあったんや、なんて単純にゆうてほしないねん。ほんま、あの時ちょっとの間、何が起こったかわからへんくらい、ごっつい事やったんやから。」と御蔵に住んでいたMさんは語る。「私ら、今、住所なんて聞いてもうても、そんなもんあらへん。焼け跡にきて、自分らで仮設くらい建てたらと言う係官もおるけど、そういう言い方にはゲッソリします。こんなことも皆さんとこれから一緒に話したいです。毎日、焼け跡に立っとんやけど、ここに仮設が建ってゆくんが私の第一歩です。」
娘たちに語り継ぎたい
 「介護ヘルパーが私の仕事で、震災の日は自分の娘や家族と拡がる火災の中を逃げてゆくのが精一杯でした。お世話せなあかんおばあさんたちを助けられなかったので、無力感がありました。後で、元気な姿に会えたのでホッとしています。」と言いながら、皆の希望で菅原通りのIさんは、十七日の日記をとつとつと読まれた。「・・・爆発音が何度もする。・・・おばあちゃんに暖かいものが欲しい。・・・兄とお母さんは大丈夫と話したとき涙がどっと出る。・・・おびえる子供たちと笠松へと向かう。・・・」ぜひ娘たちに残してやりたいと日記持参で参加された。
悲しいけど、前向きに
 揺れがおさまったときは、部屋を見て、「人間が散らかしたとは思えへんひどさやった。」とTさんは表現する。「人間も動物と変わらへん。火を見て助けなあかんと思うけど、体が逃げたがる。消防士がまかしとけと言ってくれて、ありがたかったんやけど、火の廻りが早うて、うどん屋のおばあさん、助けられへんかった。ガレキの中から子供にあげるおもちゃが出てきたときは、どうしようもなく泣けてきた。ボランティアに任せきりにせんと、長田は自分たちでやらな、のちのち、子供にも震災の話がでけへん・・・。」
夫婦やからな!
 「熊本に先に帰った主人はもう定年やけど、おまえは困った人、見過ごしておけん性やから、二年くらいおった方がええんちゃうかというから、ボランティアしてます。でも、夫婦やから、一緒に帰らなあかんかなぁと迷ってます。」と、この日もウィークリーニーズの製本を」手伝ってくれたIさんには、話す前から涙があった。
ボランティアありがとう
 本棚の下敷きになり、ほうほうのていで、何とか奥さんと窓から逃げ出せた五番町のRさんは、ご自身が身障者。火に追われ、逃げてゆく中で、避難所も公民館も満員。見ず知らずの八十歳を越える二人のおばあさんと仮設のような所に同居することとなる。一人の方のおばあさんもボタンもかけられぬ身障者。「情報も届かず、ボランティアの人が訪ねてくれて、ポットやコンロをおねだりするまで、一ヶ月間、外部との接触はなかった」という。
 「老人手帳発行しとんやから、安否調べたら分かりそうなもんやが・・・。その後、区役所にもおばあさんのため何度も行ったんやけど、健康面でも精神面でも、おばあさんは日に日に弱なっていったが、結局、本当に面倒を見てくれたんは、ボランティアの人やった。ありがとう。ボランティアの人も帰ってゆくんやけど、神戸市民は、冷たいテントに泊まって助けてくれてありがとう言うて、握手して送りだそうや。」
弱い人が優先されたか
 准看護士の資格を持つHさんは兵庫区からの飛び入り参加。「私の街、兵庫駅前の商店街は、殆ど壊滅状態でした。食べる物に困りました。見ず知らずのおばさんからうどんをごちそうになりました。優しい人がいるから生きてゆけるんだと、ありがたさは一生忘れません。人間、一人では生きてゆけません。今回の震災は、お年寄りや病気の人がかわいそうだなぁと思いました。家のない人も気の毒です。弱者にソッポを向いた行政ではないことを祈ります。」若者の出席もありました。
我々も何かができる
 雨のため、参加者はそんなに多くはなかったですが、皆の思っていること震災のあの日のことが語られました。また、何か自分でできることがあれば、手伝ってみたいと言われる人も多くありました。一人ずつボランティアの方たちは自分の町へと戻ってゆかれます。長田の復興はお世話になったボランティアの人の後を受けて、長田に住む我々が力を出さねばなりません。長田は隣同士助け合ってきた町です。普通の人たちが集まって、これからも力を合わせてゆきましょう。


numata@sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp