-First Jeanne-
J eanne d'Arc's_ S ymphony
オルレアンまでの道



『オルレアンの囲みを解きて王太子をランスに伴い、戴冠さしむるため 王太子のもとに赴くなりと唱うる”乙女(ピュセル)”なる者 ジアンの町を通過せりとの風聞有之(これあり).............』
デュノワ伯「ジャン・ル・バタール」

 この文章によってジャンヌは世に初めて登場したのであった。

 ここでは、ジャンヌがまだ世に知られていない時のことを紹介しようと思うが、彼女の行動をより鮮明に想像することができるように、まず最初に当時の背景から簡単に記述することにする。



 ジャンヌが活躍した舞台であるオルレアン(Orleans)という場所は、南フランス・ブルージュ要衝の地であり、南フランスを通じてイギリス人の故地であるギュイエンヌ地方との接続も可能ということであるため、この場所の運命は当時の王国全体の運命とまで言われていた。
 そのため、オルレアンは戦争中に幾度も戦いの舞台となってしまい、当時の市民は疲れ果てていた。しかも、度重なる戦のほとんどがフランス軍の惨敗であり、『鰊(にしん)の日』といった皮肉交じりの字(あざな)をつけられた戦いまであったため、市民はこれからの事を心配するよりも「今日食べること」しか考えられなかったという。なかには、イギリスに下ろうという動きもあったそうだ....。

 ちなみに、この『鰊の日』という戦いは、当時ル・バタール・ドルレアン(イギリスの捕虜となっている異母兄オルレアン侯シャルルの町を守っていた)が鰊の樽を運んでいるイギリス軍に奇襲をかけたのだが、逆に返り討ちにあってしまい惨敗をした戦いである。
勢力図
山川出版社:世界総合図録より


 度重なる戦の中にはモンタジルでの戦い(イギリス軍の敗走)のように市民に期待を持たせる時期もあったが、王太子シャルルが「世にとっての初めての幸運」と言った事からもわかるように、その期待は一時のものでしかなかった。フランスは負けつづけて、その結果、オルレアンはイギリスの手に渡るのも時間の問題という状況下になってしまったのだった。(しかも、イギリスは総攻撃をいつでもかけれる状態であった)


 そんな中、ある一つの噂が市民の間に広まっていったのである。


「乙女(ラ・ピュセル)ジャンヌ」が率いている神の援軍
がオルレアンに向かっていると.....。


 この頃の状況をある人は

 「彼女はオルレアンの攻囲をとくために神がつかわせた者だとの噂であった。篭城している市民達は攻城軍の真っ只中にさらされていて、もはや神に頼る以外に他に頼るべきものは何もなくなっていた。」

 と、後に語った。

 この噂は瞬く間に城中に広がり、軍人であるル・バタールは真相を確かめるために、
# アルシャンボー・ド・ヴィラール
# ジャメ・デュ・ティレ
の二人を国王のいるシノンに使いに出したという...。



 ここまでが、大まかな歴史の背景である。そしていよいよジャンヌが登場してくるのだが、ジャンヌの活躍はまた違う機会(『オルレアン』のページ)にでも話そうと思う。
 では次に、ジャンヌが歴史書の表舞台に立つ前のことを記そうと思うのだが、皆さんが知っている「お告げ」の部分もここのホームページのジャンヌ調査団のほうに記載しているため省くことにする。




1428年5月13日

 ジャンヌはお告げの通り、ロベール・ド・ボードリクール守備隊長の所へ赴いていた。そして、そこで彼女は王太子に会いたい意思を伝え、次のように言ったそうだ。

 「王国は王太子の者ではなく主の者であり、王太子が国王となって王国を管理するように主が欲しておられるのだ。
 と....。

これを聞いた守備隊長は、ただの村娘を王太子にあわせるなんてことは普通できないことであるので、当然ジャンヌを追い返すが、彼女は何度も守備隊長のもとへ足を運び、嘆願を繰り返していた。
 この、何度も何度もボードリクール守備隊長のところにだけ頼みに行ったというところにはわけがある......それは、(『”声”そう言われたからということが理由である』と言ってしまうと終りなのだが)この隊長の白紙委任状は王太子に会うためには必要不可欠のものであったからである。
(ボードリクール守備隊長は最近、戦などで国王に対する忠誠心を立証してみせたため、元来疑い深く猜疑心の強い国王の信頼を得ていた。)

 こうして、ボードリクール守備隊長に認められたジャンヌは国王に会うことができたのである。

 これはちょっと余談になるのだが。ボードリクール守備隊長は、最初にジャンヌを追い返す時、彼女と一緒に来ていたデュラン・ラクサールという(ジャンヌがいつも叔父と呼んでいる)男に、「彼女に往復びんたの一つも食らわせて即刻家に連れて帰れ」と命じたそうだ。



 こうして、ジャンヌは王太子のいるシノンに向かうのだが、シノンに向かう道中、最後に宿泊(旋寮院:十字軍の英雄ブシコー元帥が1400年に建設)した町(サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワ)で国王当てに手紙を書いたそうだ。
 このことより、早く国王に会いたいジャンヌの気持ちがよく伝わってくる。
 そして数日後にジャンヌはシノンに着いたのだが、またしても彼女の行く手を阻むものがあった。



1429年3月4日ジャンヌがシノンに入る(広場のかたわらにある井戸の縁石に足を掛けて下馬した:井戸は観光地になっている)が、白紙委任状があってもそう簡単には王太子にあえなかったのであった。
 そのため、ジャンヌは城の前の坂を、シノンに到着した日の正午ごろから、彼女がやっと城中で国王の御前に伺候が許されることとなる翌々日の夕方までの間に、幾度も行き来したのだった。(後にその道は「ジャンヌダルク通り」と言われるようになる)
 そして、その晩に「ジャンヌダルク通り」で300騎以上の騎士に迎えられることになった。


 「私以外にこの国を救える者はありません」
 これはジャンヌが伺候が許されるまでずっと言っていた言葉である。



公式の修史官の立場にあったジャン・シャルティエは次のように記している。

『年代記』


また、次にジャンヌ自身が彼女の告解師であるジャン・パスクレルに
話したことを載せておこうと思うが、これは彼女の口から出た言葉が
忠実に書きとめられている点に信を置くことができる。

『考察資料』

 こうしてジャンヌは歴史の表舞台に立ったのであった。

 最後にこれを読んでほしい。
 ジャンヌがシノンに着いた時、すでにこう言ったそうだ...
 「1年は生き長らえましょうが、それ以上は無理です。
...と。