『ある密かな恋』 Story「3」

 校舎の中はいつもと比べれば静かだったが、それでも多くの話し声が聞こえていた。ただ、その声が下級生の教室のある階だけに聞こえるのが、沙希にとって救いだった。
 彼の机に手紙を入れる……。
 手紙の内容は沙希にしかわからなくても、人のいる前でそれができるほど沙希は強い娘ではない。なにより"彼"に知られるわけにはいかない。この手紙は、明日見てもらわないといけないのだ。だから沙希は、人がいなくなるまでサッカー部の練習を見て時間をつぶしたのだった。
 目指す教室は3年A組。階の一番端だ。昇降口から一番近い階段を昇って左に曲がる。そこからA組の教室までは教室を2つ通り過ぎればいい。
 いつも沙希は"彼"に会うためにA組に行く理由を考えていた。A組の教室は階の一番端。さすがに、「ちょっと通りかかったから」とは言えない。だから、いつも授業が退屈になると、なにか良い言い訳は無いかと思案を巡らせていたのだった。
 教科書を忘れちゃったことにして借りに行けば……あ、これはちょっと前に使ったような……。小テストがあればその事を教えに行けるのになぁ……。そうだ、彼、頭良いから勉強を教えてもらいに行こうかな? ってテスト前でもないのに変だよね……。思い切ってお弁当を作って……やっぱり、彼女でもないのにそんな事できないよね……。
 そんな感じで、結局たいした理由も思いつかずに気がつくとA組の教室の前にいて、ヘタな言い訳すらできない有様だった。でも、そんな恥ずかしい思いをした事も、明日次第ではすてきな思い出になってくれるはずなのである。
 沙希はA組に向かって少しずつ歩みを進めていった。


 ドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキ……。

 今はただ手紙を入れるだけなのに、沙希の鼓動は息苦しいくらい速くなっていた。こんな事で明日、本当に告白できるのだろうか……。沙希はひどく不安になった。
 今ならまだ後戻りできる? できるなら戻るの? 戻らない、戻らないよ。こんなにも彼の事が好きなんだから……。
 カタン……。
 突然、小さな物音が響いた。それはちょうど沙希が自問自答を終えた時だった。
 椅子を動かした時の音だろうか。でも、沙希には何の音かなんてどうでも良かった。
「……誰か、いる……」
 いて欲しくない。でも、誰かいればこの緊張から開放される。さっきの決意とは裏腹に、それが沙希の正直な気持ちだった。
 沙希はそんな複雑な気持ちで、恐る恐る教室を覗き込んだ。いつものクセなのか、沙希は無意識のうちに"彼"の席に目を……、
「……藤崎……さん……」
 そこにいたのは詩織だった。ただいるだけじゃない。詩織は"彼"の席にいたのだ。
「に、虹野さん。……まだいたんだ。どうしたの?」
 詩織は少しうろたえたが、それでも、いつもの凛とした仕草は変わらなかった。
 藤崎さんがいる。彼の席の所に……。どうして? ううん、そんなの分かり切ってる……。藤崎さんも彼のこと、好きなんだ……。なーんだ。二人、両想いなんだ。……そっか、そうだよね。両想い……なんだよね……。
 沙希は、目の前の現実に押しつぶされそうになるのような感覚に襲われていた。
「虹野さん? どうしたの? ぼーっとして」
「あ、え、えっと、その……」
(私、どうすればいいの……。ダメ、頭が混乱して……)
「もしかして、見られちゃったのかな……?」
「え……!? な、何の事?」
(そんな……。藤崎さん、やっぱり今、手紙を……)
「み、見られてなかったんだ……。あ、なんか私、自分で墓穴掘っちゃったみたい……」
「へ、変な藤崎さん。そんな、な、何を、してたの?」
(私、何を聞いて……そんな事、聞きたくない。聞きたくなんかないよ……)
「え、う、うん。自分で話を振っちゃったから思い切って言うんだけどね……」
「…………」
(ダメ……。お願いだからそれ以上言わないで……。藤崎さん、お願いだから……)

続く

Story「2」

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