森有正−感覚のめざすもの
  辻 邦生(著) 筑摩書房(1981)

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辻は森有正から哲学的/形而上学的方法論を学び取った,
 2016/10/18

辻が、彼の最初のパリ滞在以来、森の思索の歩みを近く見ることができ、また思索の深化を比較的率直に打ち明けられたこともある立場から、森の哲学の特徴、そして実際に辻が学び取ったことなどを折々に記してきたエッセイをまとめ「森有正論」としてなったのが本書である。

本書の主軸は、「感覚」→「経験」→「思想」の流れと明治以降の日本と西洋の関係の主として知識人の変化とのふたつからなる。

森は、経験から思想への歩みを支える基礎として「感覚」の領域の全的な展開を辿り、全的に一挙に感じられた「感覚のかたまり」としてあるところを特別に重視した。森は、「感覚のかたまり」が感覚的事実から経験の層を経て、思想へと純化・析出される過程を思索と呼んでいた。その際、あることが本当に身体でわかり確固としたものとして感じられ、それが動かしがたく私たちの中に存在するとき、それを「経験」と呼ぶ。万人に通じる経験の普遍化を経て、「経験」から、その言語表現である「思想」への過程が始まるのである。その実践として、森は、ヨーロッパを学びながら、なお依然としてヨーロッパの「経験」に達し得ない日本の精神的体質にメスを入れることを試みる。

日本は明治以来、知識のみを採り入れてきたが、それらが「経験」の層で深まっていなければ、人間は本来の「自由」を生みださない。西洋と日本は〈教師〉と〈生徒〉の関係を保ちつつ、そこには深い裂け目があった。かくして、プレハブにも似た精神構造物を、明治以後の日本はつくってきた。それが、やがて高度経済成長を経験する中で、当り前の〈人間〉になったのである。それらを踏まえ、辻は、八〇年代は日本人がはじめてコスモポリタンとしての感覚を生きられるようになるかもしれない、と期待を述べている。

また、『バビロンの流れのほとりにて』をはじめとする『森有正全集』の内容から、われわれは、森の自分に向かっての遙かな旅、思索の跡をたどることが出来るのであるが、いわばその「家」に足を運ぶことにより「くつろぎ」を得ることができる。つまり、心が生き生きと目覚めこの地上の生に心が弾むこととなるところを感じとってほしい、と辻は書いている。

森の晩年、永遠の環のなかでバッハに熱中していると辻は感じたという。それは、「全き、甘美なる一切の放棄」の向こうに現れた至福状態にあった、自分に向かって遙かな旅をたどっている、と辻には見えた。

辻邦生は、埴谷雄高、吉田健一などから、文学上の多くを学び取っているのであるが、本書及び辻の諸作品をみるところでは、森有正からは、哲学的、形而上学的方法論とでもいうべき文学の基礎を学び取るところ多く、森の諸説が、直接、作品に描かれることは少なかったのではないかと考えられる。

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