満洲談話室検索

 No.2363 有り難うございます  ノロ  2009年12月5日(土) 14:02  Mail
[修正]
長くなったので上に持って来ました。

通りすがりさん、詳しく調べていただいてありがとうございます。

私は10月に乗船したと言いましたが、それは9月20日に収容所にいたことは間違いないから乗船は10月初頭であろうという推定で、お調べいただいた履歴から言えば第9次号の9月30日が妥当です。はじめて私の乗船の日が確定しました。氷川丸の見学でもわからなかったことです。

氷川丸、高砂丸の日章旗は戦時病院船の規定にしたがっていた、ということですね。納得しました。

>「病院船ハ総テ其ノ國旗ト共ニ「ジェネヴァ」條約ニ定メタル白地ニ赤十字ノ旗ヲ掲ケ又中立國ニ屬スルモノナルトキハ右ノ外指揮ヲ受クル交戰國ノ國旗ヲ大檣ニ掲ケテ之ヲ標識スヘシ」とあります。

中立国の条件は外していいのでしょうね。そうすると残りは国旗(日章旗)と赤十字旗です。赤十字旗も確かに掲げられていたのです。場所は前檣、後檣のうちどちらかです。これが先に見えて、日の丸と間違えてぬか喜びをしたのです。ですから二つの旗の位置は次の組み合わせのいずれかです。

赤十字旗=前檣  日章旗=後檣
赤十字旗=前檣  日章旗=船尾
赤十字旗=後檣  日章旗=船尾

>このことが「引揚船」すべてにあてはまるわけではなく

それはよくわかります。しかしそれで終わらないのがこの問題の難しさです。それは葫蘆島港外で日の丸を掲げている白龍丸の写真や、興安丸がソ連の領海外で日章旗を掲げたという記録、などがあるからです。

いずれにしても、通りすがりさんの調査のおかげで一層、真実に近づきました。改めて、有り難うございました。

 No.2364 興安丸  通りすがり  2009年12月5日(土) 17:54 [修正]
興安丸に関して申し上げれば、
http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/hikiage-kouanmaru.htm
http://www10.ocn.ne.jp/~seikaibo/kaiho107.pdf
を見る限り、ソ連からの引揚に携わったのが昭和28年になってからですから、講和条約締結後となります。従って日章旗を掲げることに問題はありません。上のサイトにある模型では緑十字に白ふちつきの模型の写真がありますが本当に緑だったのでしょうか?

また、白龍丸の写真では船体の塗色やSCAJAPの有無はどのようになっているのでしょうか?

 No.2365   ノーラ  2009年12月5日(土) 17:59  HP [修正]
通りすがりさん

詳しいお調べ、恐縮です。
「21年9月病院船砂丸乗船」の私も、深く納得しました。
有り難うございました。

あの時の感激が甦りました。

 No.2368 白龍丸  通りすがり  2009年12月5日(土) 22:29 [修正]
なるほど。こういう写真があるのですね。あとは、この写真が確かに21年7月16日に撮られたということが証明され、白十字との関係などが公文書等で判明すれば、引揚船が日章旗を掲げることができた理由も判明しますね。
昔ネットで拾った海軍輸送艦に白十字が描かれている珍しい写真を添付します。
また、高砂丸がSCAJAPに日の丸掲げている写真も手元にありましたのでご参考まで貼っときます。では。

 No.2369 幻ではなかった  ノロ  2009年12月6日(日) 8:47  Mail [修正]
おお、これこそノーラさんが葫蘆島で見た、病院船・高砂丸の姿ではありませんか。ノーラさん、日の丸は幻ではなかったのですね。

 No.2370 引揚船  fullahead  2009年12月6日(日) 8:55 [修正]
通りすがり さんのおかげで一口に引揚船と言ってたものがいろんな運航形態が判りました。 ノロ さんの2366の写真、右の人の背中の白いマークは船室の角窓の反射のようですね、日章旗が浮かび上がってます、2368の高砂丸も日章旗も美しい、入港前の仮泊状態でしょうか、ギャングウエイがおろされてます、船名符字の4枚の旗も揚ってます、拡大するとSCAJAPNO.のあたりにボートらしきものが見え、さらに良くわかりませんが水先案内旗H旗が見えるようです。 

また暁南丸はもう既にご存知かもしれませんが Hirondelle II らしいです、元のHirondelleは建造年がずっと前で完全な帆船仕様でしたからこの船が暁南丸らしいです、太平洋戦争の頃の事は書いてありませんが、最後はパナマの何処かで解体されたか詳しい事は書いてありませんでした。

 No.2371 もう迷いません  ノーラ  2009年12月6日(日) 9:47  HP [修正]
お陰様で、胸のつかえが下りました。
昭和24年、高校で作文の時間に、輸入が開始されたバナナを八百屋で1本買って、それを眺めながら敗戦からこれまでを振り返ったものを書き、その時以来、葫蘆島に来たとき病院船に日の丸が見えたときの喜びを言い続けてきたのが証明され、記憶が間違ってなかった自信を取り戻しました。

有り難うございました。

 No.2372 燕  ノロ  2009年12月6日(日) 17:08  Mail [修正]
fullaheadさん、
Hirondelle(イロンデル)はフランス語で「燕」の意味ですね。
船体にふさわしい、いい名前です。

白龍丸で、真ん中の女性は泣いているか、拝んでいるように見えます。

 No.2373 国鉄スワローズ  fullahead  2009年12月7日(月) 9:14 [修正]
さすが元海軍軍人は名前を見て国鉄青函連絡船にしようと思ったのか、たどっていくと香港で捕獲されたようです、すぐ暁南丸とリネームされたとありました。  海洋調査もやっていたのでアメリカ東岸にも足跡がありました。  然し英国に売られてから改造されてるようです、中央の構造物嵩上げされたようで、マストも先端部分切られ、バウスプリットもはずされ多分この時に完全に帆装をやめたのだと思います、船首部の居住区は改造後もそのまま残っているようです、壊れてるようですが。

高砂丸は拡大すると揚錨機の上あたりに黒球らしきものが薄っすらと見え投錨してパイロットを待ってたのでしょうか、人影らしきものが揚錨機の前に見えます、するとローラさんがあこがれた人、ボースンかも知れません。 それよりバナナ一本で思い出を書き起こしたのをもう一度再現して欲しいです。 バナナなら何本でも送ります。

 No.2374 パチパチパチ  ローラ  2009年12月7日(月) 9:49  Mail [修正]
ノロさん、ノーラさん良かったですね。

fullaheadさん、ノーラさんがボースンに憧れていたの?

 No.2375 そんなこと  fullahead  2009年12月7日(月) 13:33 [修正]
何処かに書いてたのを見ました…いろんな意味でいい船ですね。

 No.2376   ノーラ  2009年12月7日(月) 13:50  HP [修正]
#2373の「ローラさん」とあるのは「ノーラ」の間違いです。

ボースンって船乗りさんのことですか?
砂丸ではいい思い出が残っています(^-^)

 No.2377 間違えました…  fullahead  2009年12月7日(月) 14:13 [修正]
ノーラさん、ローラさん、先頭の一字を取るとノロさん、いやはや私は「高貴降霊者」ですのでご勘弁を…。 ついでにボースンは甲板長、出入港の時には一等航海士と共に船首で作業します。 錨の揚げ降ろし、着岸のロープなどの、操作指揮を執ります。

 No.2378 引き揚げ船でのロマンス  ケン  2009年12月7日(月) 20:14  Mail [修正]
>何処かに書いてたのを見ました(No.2375)
「思い出のふねぶね」(日本パイロット協会編)によく似た話がでています。当時のチョッサー(チーフオフィサー・首席航海士)が引き揚げ船で女学生とその弟を自室に招きおやつをあげたり親切にもてなした話し。女学生でなくともあのオフィサークラスのユニフォームを見れば憧れますよ。
fullaheadさんも10才ほど歳いってたらチャンスあったと思います。

 No.2379 教えて下さい  ケン  2009年12月7日(月) 20:45  Mail [修正]
fullaheadさん No.2378を書いたあと気が付いたことですが、乗組員、特に士官クラスの制服は通常航海中も着ていますか。私は一般商船には何度も造船側の仕事で乗りましたが、航海中は制服は着ていません、入出港時には着ていました。正式の場?用、正装するということでしょうか。

 No.2380 制服  fullahead  2009年12月8日(火) 8:05 [修正]
私はどうしてか制服が嫌いで、日本船の時制服代普通のスーツに化けました、私が居た外国船では見たこと有りません、会社が昔のMSTSのシステムをとる会社でしたが、昔の大西洋客船の機関長だった人は、鉄道の機関士のかぶる帽子につなぎだったし、ずっと後造船所の保障技師で乗った時、香港のC.Yトングループの船はバルクキャリアーなのにホテル並みのサロン、士官は夏冬の制服、夏は白い半ズボンの制服もあり、冬は金ボタンのダブルのオーバーまで支給されてました。 サロンにはバーも付いていて酔っ払い船長がバーテンやってました、私はこのサロンの隣のオーナーの部屋に居ましたが、遅くまで船長が飲んで起しに来るので困りました。

一般に大きな会社、客船、などの会社は着てるようです。  また最後に居た船会社で工務やってた時採用した東ドイツの船長は着てました。

カーキ色の肩章だけ付ける制服はどちらかと言うと便利だから着てるのでしょう、荷役関係者、工事関係者と区別が付きやすいですから。

私は殆どの場合Tシャツ、寒い時はパーカーの路上生活者スタイルが好きでした、金ボタンの制服は昔猿回しのお猿さんが着てたのでどうしても好きではありませんでした。どうも差しさわりがあるようですが…

機関部は特に汚れやすいので航海中制服なんて着る事もありません、ドイツ人の船長と昼食(ドイツ人は正餐)の時つなぎで座ったら嫌な顔されました、こういう形式ばった事をするのも航海中の変化が有って良いかと思ってそれからは面倒でもシャワーを浴び着替えて座りました。

 No.2381 制服/2  ケン  2009年12月8日(火) 22:11  Mail [修正]
制服着用については国、船社によっていろいろあるのですね。外国船での船内風景もご披露いただき、日本船は質素なことがわかりました。
引き揚げ船での船員の服装はまちまちだったでしょうね。艦艇、貨物船、病院船その他あるわけですが、統一された制服があるわけでもなく、その必要性もないわけですがどうだったのでしどでしょう。

 No.2382 居住設備の差  fullahead  2009年12月10日(木) 8:38 [修正]
船と言う不動産の価値はその船の使い方にも拠るのですが、運ぶ貨物に関しては始めに選択されますが、その次の選択肢として居住設備があります。  初めて乗った外国船の居住設備、驚く事ばかりでした。

温水が出るのは今では殆ど当たり前ですが外国船では水栓を捻るとすぐ暑いお湯が出るようにラインの終わりの所の冷えてしまったお湯を戻して再加熱して常にすぐお湯が出るようになってました。

個室は当然、そしてシャワー便所は標準、空調設備は単に冷やすだけでなく温度湿度を管理、昭和30年代の貨物船の話です。

後に判った事ですが、居住区が西洋式の標準になってなければ欧州の船主は買ってから居住区を改造しなければならず、必然的に居住区の良くない日本船はアジアなどの国にしか売れなかったのだと思います。

最近は日本の船主もこの事をわかって来てるようですが最近は如何なんでしょう。 客船でないのですから極端な設備は要らないのですが、少なくともシャワー、トイレ付き個室、エアコンなどは必須の条件だと思います。

引揚て来られた方は貨物倉に押し込められ暑かったり、寒かったり大変な苦労をされたと思いますが、当時の船員は最低は大部屋で二段ベッド、士官でも下級は2人部屋、船機長クラスも一部屋、部屋に洗面できる設備があってもボーイさんが水を運んできて置いてくれ使った水を貯めて捨ててくれる、エアコンなんて有る筈がありません、通風装置があれば良い方、船側の部屋はブリキで出来たスクープを丸窓に差込風を取り入れてました、少し時化てくると海水が入ってきて「寝耳に水」を実感できたのです。白龍丸の船側に見えるのがそれです、興安丸はさすがに見えません。

 No.2383 この場をお借りして  ケン  2009年12月12日(土) 15:40  Mail [修正]
引き揚げ船からひろく船の話しになりましたが・・
fullaheadさんの言われるように船はたしかに不動産ですね。船の働き盛りは20年でしょうか、大抵その数年前には売りにでます。中国、ギリシヤ向けが多かったが今はどうなのか。
昭和40年頃は一般商船の船長、機関長はデイルームとベッドルームを持っていましたよ。それぞれ立派な造りでした。
船は暖房に困ることはない。冷房が当時あったか記憶あやしい。
乗船中のある日ベッドに「花毛布」。凄く洒落た贈り物に驚きました。バラの花を象っていました。同乗友人の誕生日でした。こんな風習もボーイが居る時代の話し、いまはないでしょう。

 No.2333 引揚船のロゴ  fullahead  2009年11月27日(金) 10:47
[修正]
ノロさん、いろいろ調べてみましたが病院船の「赤十字」は確実にジュネーブ条約によるマークで明らかです。だが何処に登録するのか、単にマークを付けて国際機関に宣言すれば良いのかこの辺判りません。

また「白十字」は判りません、検索してみましたが当たりません。 ただ緑地に白十時は安全旗だそうで私も緑十字だとばかり思ってましたのでつまり反対の白地に緑十字驚きました。

このあたり人間の目の錯覚ですね。   また白十字が引揚船に付いて居たとすると此れは国際的に如何なのでしょう、学童の引揚に使われた「阿波丸」の撃沈、この船は白十字のロゴだったそうです。 そうすると若しかすると赤十字ロゴでなければ撃沈されても仕方が無かったのかも知れません。

それなら多くの引揚船に白十字が使われていた事情は調べる必要があるかもしれません。  兎に角スイスの国旗の反対になるので、目の錯覚もあるし思い込みも出来ます。

国旗の事に関してはノーラさんが引揚の時17歳でしたか、自分の17歳当時の記憶を参考にすると、他の多くの方が見たと言う事も有りますし、私は掲げてあったと思ってます。

尚、(中央に船橋、煙突がある船でマストが前、中央、後にある船を基準に)国籍を示す旗は船尾で、船首には小さな社旗、前マストには行先旗、中央のマストに掲げられるのは船名符字、水先旗、そのほかの信号旗が掲げられ掲揚策は3,4本ありそれぞれ別に掲げられます。
後マストには大きな社旗、そして船尾には国籍を示す国旗が掲げられます。   此れは帆船の頃からの決まりで、最近の船は航海灯の関係からどこか前方には前マストらしきものがあり、レーダーマストを兼ねた中央のマストがあり此れが前マストに掲げるべき行先旗も掲げるようです。

後のマストが無い船もあり航海灯の関係で、この場合船橋構造物の一番船尾に付けるようです。 つまり航海灯は船橋両舷に舷灯左赤右緑と前マスト灯、後マスト灯、船尾灯船尾の旗竿に付くなどは今の船でも何処かには必ず付いてます。

 No.2334   ノーラ  2009年11月27日(金) 14:20  HP [修正]
済みません、14歳です(^-^)

 No.2335 3歳も!!!  fullahead  2009年11月27日(金) 14:57 [修正]
逆サバ読んで仕舞い申し訳もございません。 ヤベー…

 No.2336 赤十字旗  ノロ  2009年11月28日(土) 16:17  Mail [修正]
fullaheadさん、
いろいろ調べていただいて有り難うございます。勉強になりました。
ところで、氷川丸の赤十字旗はどれにあたるでしょうか。私が見た位置はとにかく高い位置にあってよく見えたことは確かです。そして船首方向から近づいたとき日の丸より先に見えたのです。

ですから、必ずしも前マストでなく後マストであっても、上記の「高い位置」「日の丸より前」の条件は満足されます。つまり赤十字旗は後マストであったかも知れません。後マストだとすると「社旗」に替わる位置に揚げられていた、ということになるでしょうか?

 No.2337 白十字  ノロ  2009年11月28日(土) 21:08  Mail [修正]
fullaheadさん、
白十字がわかりました。「交換船」です。戦時に敵国に残留している自国民を互いに交換した「交換船」が、黒地に白十字マークを標識としたのだそうです。「交換船」で検索するとウィキペディアがあります。
白龍丸など引き揚げ船の一部が、この交換船の形式をとったのかも知れませんね。

そう言えば、No.2326の葫蘆島での興安丸も、見直すと黒地に白十字です。

 No.2338 病院船の情け  ノーラ  2009年11月29日(日) 7:47  HP [修正]
昨日、桜木小同期会に行ってきました。「喜寿」の仲間です。

宴たけなわの時に、この「日の丸」を話題にしてみました。
殆どが、長春→錦州→葫蘆島→佐世保の体験者で、当時14歳。

ところが、日本の戦後の社会を左右してきたような働き手の人にしては、葫蘆島の思い出が今ひとつはっきりせず「そういえば日の丸見た」とか「有ったかなあ」などとあやふやな返事で、「たぶんアメリカや中国の現場の人間の温情で、停泊中だけ掲げていたのではないか」というにとどまりました。


 No.2339 年月の彼方  ノロ  2009年11月29日(日) 7:58  Mail [修正]
ノーラさん、有り難うございました。
葫蘆島港の日の丸も、年月とともにかすんで行きますね。
でも、私のなかでは昨日のように鮮やかです。

 No.2340 此処の雰囲気  fullahead  2009年11月29日(日) 8:29 [修正]
昨日、旗、マークなどについて「懐かしい日本の汽船」の長澤さんにお聞きしてます、何れお返事を頂けるものと思ってます。
 
引き揚げて来られた方も此処の様に内容の濃い物を毎日のように見てる方と、ただ人生の一時期の出来事と捉えている方とでは、記憶の更新が違います、薄れて行くままにしてると何時か思い出そうとしても思い出されなくなるそうです。  その点我等「満州談話室」のご常連、室長のローラさんに感謝しなければ…

ノロさん、確かにそうでした交換船と言うのがありました、だが戦後になっても交換船と言う戦争相手国との民間人交換の方法を取っていたのですか、もっとも講和条約までは戦時中かもしれません、国連ではまだ日本は敵国扱いだったと思います。

 No.2341 交換船  ノロ  2009年11月29日(日) 19:20  Mail [修正]
fullaheadさん、
おっしゃるように講話条約までは戦時中だし、葫蘆島はまだ内戦下の港です。
ただ、交換船というのはウィキで見ると第三国の人が立ち会ったりなかなか厳密なもののようです。引き揚げの時そのような正式な交換船があったとは思えないので、なんとなく交換船の塗装にした、という程度ではないか、と想像しています。

 No.2342 長澤 さんのコメント  fullahead  2009年11月30日(月) 8:05 [修正]
「懐かしい日本の汽船」の長澤さんからコメントをいただきました、下に張ります、驚きです、政府の通達では船尾に日の丸を掲げる事になっていたそうです、然し写真で見ると船尾にE旗を掲げたものもあり、当時現場では混乱してたのかも知れません。
*********************************************
こんにちは。
帰還輸送に従事した船腹の船体に描かれた白十字マークについての標記に関する規定の文章はまだ確認できていません。
時期にもよるかと思いますが千歳丸(日本郵船)、興昌丸(東亞海運→光運輸)、會寧丸(朝鮮郵船)、朝博丸(川崎汽船)等に描かれています(「在外邦人引揚の記録」 - 昭45,奥村芳太郎,毎日新聞社 等)。

また引揚当時国旗が掲げられていたということですが、「引揚げと援護三十年の歩み」(昭53 厚生省援護局)に収録されている「艦船ヲ以テスル在外地軍官民内地還送計画(昭二〇、一〇、一二 軍務一第一九二号)の「其他ノ出動準備」に「標識ハ各艦艇艦尾ニ『日ノ丸』大檣ニ『E』旗ノ端ヲ切取リタル燕尾旗ヲ掲揚シ・・・」という記述があります。


 No.2343 日の丸を見た説  ノーラ  2009年11月30日(月) 8:19  HP [修正]
少し望みが出てきましたね(^-^)

 No.2344 やはり正式に  ノロ  2009年11月30日(月) 8:28  Mail [修正]
fullaheadさん、有り難うございました。
やはり正式に日の丸を掲げていたのですね。恐らく進駐軍の承認もあったのでしょう。
シンガポールで黒旗を掲げたというのは、英軍がその日の丸をわざわざ黒旗に換えさせたので屈辱を感じた、ということでしょう。

 No.2345 日の丸  ケン  2009年11月30日(月) 23:23  Mail [修正]
この調子でいくと日の丸が出たり、隠れたりが何時までも続きますね。長澤文雄氏の「艦船ヲ以テスル在外地軍官民内地還送計画(昭二〇、一〇、一二 軍務一第一九二号)の「其他ノ出動準備」に「標識ハ各艦艇艦尾ニ『日ノ丸』大檣ニ『E』旗ノ端ヲ切取リタル燕尾旗ヲ掲揚シ・・・」という記述があります。が厳密には10月10日はJASCAPの設立した日です。JASCAP番号、標識、運航許可証携帯の規定をしたのは12月9日です。

 No.2346 此れで決着  fullahead  2009年12月1日(火) 7:51 [修正]
ケンさん有難うございます、此れで公式には決着ですね、引き上げてきて来られた方々ももう一度記憶の中の日章旗を鮮明にして、記憶の更新をしてくださる事でしょう。  ローラさんのサイトはこのような場を提供してくださる事で凄い、改めてお礼を申し上げます、尚、長澤様有難うございました。

 No.2349 てことは  ノーラ  2009年12月1日(火) 17:49  HP [修正]
 見えたのも有り、なんですね?

 難しい言葉に弱いもんでm(v_v)m

 No.2350 戦後すぐの混乱期  fullahead  2009年12月2日(水) 7:07 [修正]
指揮系統の混乱、通信が無線だけと言うことを考えれば有り得る事だと思います。 例へ連合軍が命令違反だと言ったとしても連合軍に撃沈されたと言う話は聞きません。 SCAJAPがどうのこうのと言っても国外ではその国の主権が先でしょう、あったと思います。

 No.2351 例外規定?  ノロ  2009年12月2日(水) 14:57  Mail [修正]
fullaheadさん、
混乱のなかであり得たのではなく、日の丸を揚げることが引き揚げ船に適用された例外規定だったのではないでしょうか?
なぜなら引用してくださった通達のなかにすでにSCAJAP旗のことも言及されているからです。
当時は中国の内戦が進行中であり、北朝鮮やソ連の出方も不透明であり、なにが起こるかわからない海上です。かえって国籍が明瞭なほうが安全と考えたかも知れません。駆逐艦などにSCAJAP番号と並べて描かれた日の丸マークがその傍証になります。

 No.2352 連合国と言うものの  fullahead  2009年12月3日(木) 10:27 [修正]
占領地の一司令官の通達が国際的にはどうっだたか今になっては知りえませんが当時占領した日本を巡って各国でいろんな駆け引きがあった事は色んな所から知ることが出来ます、その真否については判りませんが。

私は有り得た事と思ってます、日本では神様見たいに思われていても、世界的には一地方の司令官、後に大統領になった欧州の司令官とは違ってたのではないでしょうか。   元軍艦に日の丸が付いていたのはどう言う経緯だったか、日の丸が付いてると反って攻撃されやすいと思います、戦時中にそんなばかげた事するわけ無いし、本当に此れが傍証かもしれません。  ノロさんこの辺でお開きにしますか。

 No.2353 元軍艦の日の丸  ノロ  2009年12月3日(木) 16:05  Mail [修正]
いろいろわかって、また皆さんのおかげで真実に近づくこともできた、いいスレッドだったと思います。

ひとことだけ付け加えます。元軍艦は、軍艦の形をしているだけにやっかいです。こんなのがうろうろしていたら、国府の軍艦と誤認した中共軍、韓国の軍艦と誤認した北朝鮮から、攻撃を受けかねません。元軍艦の日の丸マークは、それに対する配慮だったのではないでしょうか。

 No.2356 余計なお世話ですが  通りすがり  2009年12月3日(木) 21:19 [修正]
せっかく、気持ちよくこのスレを終わらせようとしているところ恐縮ですが、真実という観点からこれだけは認識しておいて欲しいと思います。

日の丸、白十字の掲示については時期と船の所属をきちんと理解した上で調査された方が良いと思います。
時期とは、
1.SCAJAP付与前
2.SCAJAP付与後〜講和条約締前まで
3.講和条約締結後
の3つの時代。

また、船の所属については商船と艦船(広義の軍艦、海軍船)でわけて考える必要があります。

興安丸は戦時中に病院船として使われたことはありませんし、高砂丸は戦時中、国際条約に従って白色船体に緑の帯、赤十字を描いていました。従って、SCAJAPのない十字を描いている2321, 2326のような塗色の写真は昭和27年以降のもの、すなわち上の3の時代のものですから日の丸を掲揚しているのは当たり前です。この時代については誰も日の丸掲揚について異論はないでしょう。

長沢氏が提供された軍務・・・の計画はあくまで計画でその通り実施されたかどうかはわかりません。ただその通り実施されたのなら、ここのローラさんが書かれている「引き揚げ船」の「駆逐艦、春月(ハルヅキ)」にたとえ日の丸が掲揚されていても矛盾はありません。しかしこの軍務・・・はあくまで「艦船ヲ以テスル在外地軍官民内地還送計画」すなわち空母とか駆逐艦のような海軍艦船に関するものであり、「標識ハ各艦艇艦尾ニ『日ノ丸』。。」とあることに注意するべきです。ご存じのように通常海軍艦艇は旭日旗を掲げます。ここではそれに代わり日の丸を掲揚すべしといっているだけです。この時代の朝博丸のような商船は米軍により日章旗の掲揚を禁止されており、いまのところそれをはっきり覆す資料も写真もないというのが現況でしょう。http://station.catorea.ne.jp/modelers/topgallery.html
に昭和20年9月の暁南丸の写真が掲載されていますが、やはり日の丸はありません。

 No.2357 日章旗  fullahead  2009年12月4日(金) 8:29 [修正]
旗へのこだわりは私にもあります、外国の港でいろんな国の船が停泊してる時その港の国の小さな船にまでその国の旗がひらめいています。
日本の港では官公庁の船を除き日本籍の船は日章旗を掲げません、タグボートや漁船も掲げません、何時もどうして掲げないのか不思議に思ってました。 国旗に対する思いが違ってるのかも知れません。

また出航するとすぐ旗は仕舞われ航海中は国旗は掲げません、航海中国旗が掲げられるのは軍艦と遭った時だけでは無いでしょうか、機関の方なので詳しくは知りません、たまたま目にした時の事です、航海中は忘れてる時を除き見たことがありません。

曉南丸の写真は多分出航後沿岸海域を航行中の写真だと思いますそうすると国旗や船名符字、行先旗は既に仕舞われたと思います、軍艦から撮った写真だそうですが軍艦に対する敬礼がしてないのは終わった後か、公海まで駆逐艦が護衛してたか、または灯火信号でいろんな情報連絡済だったと思います。

それにしても綺麗な船ですね、石炭焚きの船でもともと乗り組みも多かったのでしょう、この船で引き上げて来た方は忘れられないでしょうね。 

 No.2358 有り難うございます  ノロ  2009年12月4日(金) 11:52  Mail [修正]
通りすがりさん、こんにちは。
いろいろな資料を有り難うございました。興安丸は確かに病院船になったことはないようですね。ということは、戦時中はずっと関釜航路についていたということでしょうね。

病院船だったと書いてあるページも二、三あるので安易に信用しましたが、たぶん高砂丸と取り違えたものでしょう。高砂丸、興安丸が同じような塗装(黒色船体、輪郭つき十字マーク)で載っているページがありました。http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/hikiage/hikiage.html

そこで通りすがりさんにお聞きしたいのですが、両船のこのような塗装、マークは何時頃の、どんな任務のときのものでしょうか。またマークは何の標識でしょうか。

もうひとつ、真実ということで言えば、私にとっては、21年の10月に葫蘆島港で氷川丸の船尾に揚がっていた日の丸が絶対の真実です。これは私一人が見たのでなく、無蓋貨車ひと列車の全員が見て、いっせいに声をあげた、その声もくっついた記憶です。通りすがりさんは、この氷川丸の日の丸についてどのように考えられますか?

 No.2359 確認  fullahead  2009年12月4日(金) 13:16 [修正]
今朝書き込んだ後元船長に確認しました、旗については書き込んだこと間違いありません、また日章旗についても聞きましたが、殆どの彼の引き上げた時の友人は見たといってるそうです。 元船長は昭和5年生まれです。

前に書いた、綺麗な船と言うのは皮肉でも何でも有りません、ペンキこそはげてますがクリッパー型の船首、バランスの取れたマストと煙突、最後はどうなったのでしょう、消息を知りたいものです。

 No.2360 ハッピーエンド  ケン  2009年12月5日(土) 1:18  Mail [修正]
ノロさんのお陰で引き揚げ船の日章旗の有無、なんのことやらと出くわしたJASCAPと燕尾旗など思わぬことに関心がいきました。ノーラさんの櫻木小のお友達が「あったかな、みたかいなー、そういえば」と朧気にいわれたこと、引き替えノロさんのように乗船まえにみた日の丸旗に歓喜の声をあげたことまで記憶されていること、その時の心象で関心事もちがったのでしょう。
fullaheadさん 暁南丸 は 本当に綺麗です。当時の造船技術でこんなに優美な曲面船形ができたものと驚いています。もっとも本船は元モナコクルーザーヨットで拿捕されたものと知ってなかば納得。

 No.2361 日本郵船歴史博物館  ノロ  2009年12月5日(土) 9:20  Mail [修正]
昨日、日本郵船歴史博物館というところに、氷川丸の日の丸についてファックスで問い合わせました。一週間ぐらいで返事をくれるそうです。返事があったらまたご報告します。

 No.2362 氷川丸  通りすがり  2009年12月5日(土) 10:14 [修正]
ノロさまへ

氷川丸の航海履歴をみますと、
9次号   21年9月24日博多発、9月27日葫蘆島着、9月30日葫蘆島発、10月3日博多着
10次号  21年10月17日博多発、10月23日葫蘆島着、10月24日葫蘆島発、10月29日博多着

ノロさまが21年10月に葫蘆島にいらしたのなら、この第10次号にご乗船したことになります。

高橋茂氏の「氷川丸物語」(S53かまくら春秋社)に次の記載があります。「十八日付の新聞は次のように報じている。−葫蘆島-博多間の引揚病院船氷川丸(一万二千トン)は十七日朝、関門海峡西口の沈船を縫って門司港第三岸壁に赤十字のマークも鮮やかに巨体を横づけにした。」

つまり、ノロさまがご乗船された氷川丸はSCAJAP管理下にある日本商船ではなく、軍用病院船としての資格を維持していた船と理解するのが適当と考えます。

そして「氷川丸とその時代」(2008年海文堂)に当時の引揚者の手記(引揚者が下船した後ロビーのカウンターに残されていたもの)としてつぎのものが掲載されてあります。「葫蘆島、我々遺送者、。。。(中略)。。。昭和二十一年八月六日夕方、。。。(中略)ソシテミヨ!其ノ向カフニハ白色ノ船体に赤十字ノ一際鮮ヤカニ巨船氷川丸ガ岸壁ニ横付ケサレテヰルデハナイカ、然モマスト高ク翻ルハ日章旗、(後略)」

因みに国際条約による病院船の規程には「病院船ハ総テ其ノ國旗ト共ニ「ジェネヴァ」條約ニ定メタル白地ニ赤十字ノ旗ヲ掲ケ又中立國ニ屬スルモノナルトキハ右ノ外指揮ヲ受クル交戰國ノ國旗ヲ大檣ニ掲ケテ之ヲ標識スヘシ」とあります。

ノロさまがご乗船された氷川丸には(場所は船尾かマストかという違いはありますが)日の丸が掲揚されていたというのが事実でしょう。

前にも申し上げましたが、このことが「引揚船」すべてにあてはまるわけではなく、各船の所属と時期をきちんとわけて調査されないと、単なる日の丸を見た、見ないという水かけ論に終わってしまうと思います。

高砂丸、興安丸の黒色船体、輪郭つき十字マークにつきましては、私はただの通りすがりで詳しくは存じません。想像はつきますが撮影年月日がわからないのでいい加減な発言は控えさせていただきたくご容赦ください。

 No.2354 「遙かなる絆」再び  Tomo  2009年12月3日(木) 20:46  Mail
[修正]
この年末、30日、31日、午後3時から、あのNHKドラマ「遙かなる絆」全6回分を2日に分けて再放送だそうです。

 No.2287 「最後の帰郷〜旧満州開拓団 姉妹の69年〜」  Tomo  2009年11月15日(日) 9:27
[修正]
先週の日曜日にNHKハイビジョン特集「最後の帰郷〜旧満州開拓団 姉妹の69年〜」を見ました。その再放送が、本日4:30からNHK(BSハイビジョン)であることを、番組表で知りました。

あらすじは、末尾にコピペしておきましたが、当サイトで話題になった城戸久枝さんの本の内容にも匹敵する姉妹の人生、感慨深いものでした。妹さんは先に帰国しておられましたが、お姉さんは、長野県泰阜村・天龍村地域からの移民のうち、最後に残ったおひとりでもあり、それが「最後の」というタイトルに現れています。未見の方(ハイビジョンを見られれば、ですが)には、お薦めです。

2009年8月、中国から1人の日本人女性が帰国した。宮沢照子さん、73歳。彼女は1940年、5人家族で開拓団員として旧満州へ渡った。1945年8月ソビエト軍の侵攻、その後の逃避行の末、母は妹を連れて中国人の妻となり、姉と照子は、別々の中国人の家に養女にもらわれた。「私は中国人」と言い続けてきた照子は、なぜ帰国を決意したのか、照子と妹・順子の激動の人生をたどり、開拓団員一家の長い歳月を見つめる。


 No.2288 見終わりました  ノーラ  2009年11月15日(日) 18:03  HP [修正]
 やっとハイビジョンを見る手段が解り、全部見ることが出来ました。

 胸がいっぱいで、余韻に酔っています。

 No.2289 複雑な照子の一生  やぎ  2009年11月15日(日) 18:57 [修正]
最後の帰郷者照子さんと順子さんの抱擁の後の、照子さんの笑顔が複雑に見えましたね。
以前に「NHKアーカイブス」を検索してみたとき、中国で小児科医として働く照子さんを見たような記憶がありますが、探してみたが見つかりませんでした。

 No.2290 ドラマのような重い人生  Tomo  2009年11月15日(日) 20:26  Mail [修正]
照子さんの医者としての生活と順子さんの学校に行けなかった生活とのギャップ、照子さんの医者故の人生の明暗など、放送では描かれきれなかったことが多かったのだろうなど、思いながら今でも反芻しています。ふたつの祖国に生きた人びとの数だけ、ドラマのような重い人生があったのですね。録画したので、そのうちにまた見直してみようと思っています。

 No.2291 姉妹のこともさることながら  ノーラ  2009年11月16日(月) 5:39  HP [修正]
私は父親の心中を考えました。あの画面では、いち早く復員して天龍村に帰っていたのに、誰もそのことを姉妹達に伝えない(長女と三女は何度か祖父母に手紙をだしているのに)。

自分が反対する妻を説得して満洲に渡ったことを、ずっと後悔し、心の底で詫びながらも、いつしか新しい伴侶をみつけて昔の職業(大工)をしながら生きてきた。

照子が「何故私たちに会いたくなかったのか」と責めており、そのあたりにも深い溝を感じます。
養父母に恵まれた照子、記憶がはっきり残っている長女正子の不運、母親と最後まで一緒で、母親の再婚相手にいつも気兼ねして成長した順子、子供達の為を思いながら、敢えて二人を手放した母、照子は終世その別れの時を思いだして、日本に帰りたがらなかった、それぞれの立場が判るので、苦しい思いで見終わりました。

国、いや、当時の国の責任者こそ、許せません。

 No.2292 思いは何時も同じです  鴨緑江  2009年11月16日(月) 14:20  HP Mail [修正]
この種のドキュメントはもうかなり観ましたが観終わって思う事は何時も同じです。
あの戦争さえなかったら、当時の施政者にもう少し責任観念があったらこのような辛苦を舐めることは無かったろうにと云う怒りの思いです。

 No.2295 葛藤  Tomo  2009年11月17日(火) 7:25  Mail [修正]
そうです、ノーラさん、あの父親のことは、ありきたりにいえば、筆舌に尽くしがたい人生とでもなるのでしょうが、幾種類もの葛藤の連続だったはずです。そういう姿を、リアルに記録や文学や、そして叶うならば映像でも残し、知ってもらい考えてもらう、体験者は思い出すだけでなく再考してみることも、今、大切になっているように思います。この番組では、姉妹におもな焦点を当てていましたが、父親の話は、ちょっと大変すぎたのでしょう。小説やドラマの世界にでも移し替えないとダメだろう、と私は思います。

 No.2331 宮沢照子さんのこと  Yozakura  2009年11月25日(水) 20:07 [修正]
 宮沢さん一族に就いては、この談話室にて以前紹介されていた図書《沈まぬ夕陽》P.64--P.70に懸け記述されています。これは、1989年6月7日から翌月初旬まで、黒竜江省の現地を訪問した中島多鶴氏が、そのときの体験を踏まえて、宮沢一族の出自や渡満までの来歴、日本敗戦後の現地での生活や、家族個々人の消息に言及しています。
 佳木斯造紙廠職工医院にて、丁度診療中の宮沢照子さんの写真も掲載されています。

 なお同書のP.70には、

> 照子さんはしみじみ話してくれたが、別れるときにはこう言い切った。
> 「私は、中国人です。」
> 照子さんは日本へ帰る意思は毛頭ないのだ、と、多鶴は思った。

との記述があります。宮沢さんの帰郷には、何か事情があったのかも知れません。番組を御覧になった人の新たな書き込みを俟ちたいところです。

 No.2332   ローラ  2009年11月26日(木) 11:36  Mail [修正]
>宮沢さんの帰郷には、何か事情があったのかも知れません

相変わらず本には詳しい Yozakuraさんですね。

番組を観ても驚いたところですが、小さい頃から仲の良かった妹さん夫妻が先に帰国されていて、帰国を強く勧めたようでした。
定年後の生活を考えたら、日本も経済的に悪くないと考えたのではないでしょうか。これは私の邪推です。実の娘さんたちとは別れての帰国でしたから…。

 No.2347   RAORON  2009年12月1日(火) 10:50 [修正]
新聞の紹介記事を先に見ていたので、待ちに待って家内共々見ました。
照子という名が家内と同じだったのは、テレビを見ているうちに知りました。
姉妹の運命については、以前小島さんのHPがあったころ、掲示板で紹介しました名古屋在住の引揚者「河畠さん」の妹さんたちの境遇と極めて近いため、特別な感慨を持って拝見しました。
なんにしろ、こういった番組が放送されると吸い付けられますね・・・

 No.2348 お久しぶり!  ローラ  2009年12月1日(火) 17:41  Mail [修正]
同じ番組を観られた方が来て下さるのは、本当に嬉しいですね。(*^_^*)

RAORONさんは、今、水を得た魚のように、ご自分のブログで活躍されていて、そのエネルギーの凄さに圧倒されて、陰で拍手を送りながらも足跡もつけずに、ごめんなさい。

1 2 3 4
全 102件 [管理]
CGI-design