本書は、主としてジョゼフ・フーシェが政界に入って(1792年、国民公会議員)からルイ18世により放逐される(1816年、ルイ16世処刑賛成者として追放)まで、彼の政治人生の大きな局面毎に、その行動を多角的重層的に概括叙述する評伝です。
ジョゼフは、著者シュテファン・ツワイクによると、「生まれながらの裏切者、いやしむぺき陰謀家、のらりくらりした爬虫類的人物、営利的変節漢、下劣な岡引根性、浅ましい背徳漢等々・・・・どのような侮蔑的罵詈も彼に浴びせられないものはな」いほどの人物なのです。
本書では、その素顔を彼の主として政治的行動を客観的に分析しつつ明らかにします。著者はいいます、英雄の伝記がわれわれの精神を高みに引き上げてくれる力をもっていることは認めるけれども、それは精神生活においてであって、実際生活において政治という権力がものをいう世界においては、優れた人物が決定的な役割を演ずることはまれであって、黒幕の人物が決定権を握っている、と。ですから、政治というものが現代の宿命となってしまったからには、われわれは自己防衛のために、その裏に隠れている人間を識り、それによって彼らの力の危険な秘密を知ろうと試みようと思う、そして、この伝記が、そうした意味の寄与をすることを祈る、ともいっております。読者には、このねらいを現代に活かすことが期待されているのでしょう。
ところで、フーシェのように相対的座標系を持つ人間は、生きて行く上における基準が定まらず、空間を浮遊しがちで、外からその基準が見えにくいのです。辻邦生は、「フーシェ革命暦」において、フーシェは、「何が善いか」を基準としていて、局面にあたってその判断をしていた、と記しています。それによって動揺・浮遊が防げないのは、それがいわば天動説であって、事実との齟齬があちこちに出てしまって、軸が定まらずぶれてしまうからなのです。絶対的座標系を持てばぶれないのです。
ツワイクは、フーシェを描くにあたって、多角的重層的にフーシェを観察してもその立ち位置はぶれていないように見えます。つまり、ツワイクは絶対的座標軸を据えてフーシェを描いているのです。
また、この本を読んで感じたこととして、欧米で生成発展を見た民主主義の歴史が、中高校の教科書で学ぶ印象以上に紆余曲折をみているのだな、という印象があります。フーシェの政治人生は、フランス革命をきっかけに世界で一二を争う民主主義の発展をみる歴史のなかでのことなのですが、共和制を勝ちとったかと思えば、ナポレオンの独裁から帝政へ、そして王制に戻りといった中でのそれであったのです。とはいえ、ナポレオンの事跡に中に、その後の民主主義の成長の方向に沿う成果もあるのですから、それは、それまでに勝ちとられたものの上ではじめてあり得ることなのでしょう。フーシェが、絶対的座標を内に育てていたならば、その流れに沿う活躍ができたのかも知れません。
なお、本書は、当初、岩波文庫ではなく岩波新書に入っていました。しかし、現在、岩波文庫の赤帯に分類されている、つまり、文学とされているのです。文学としての伝記と考えることもできましょうが、すなおには評伝なのです。
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