〜 ごあいさつ 〜 御歳暮替わりに、ページを増やしました(ホント?)。
12月に入ると同時に神戸では雪が降り、冬が駆け足でやってまいりました。
冬の寒さは、仮設住宅や避難所、コンテナハウスなどに仮住まいしていらっしゃる方々にとって、とても厳しく、身に応えるものとなります。
その様な、辛い状況の中で「ウィークリーニーズ」などのすたあと長田の活動が、少しでも心のゆとりを与えられる様、努力するつもりです。
<目次>
2〜3頁 『防災ギャザリング '97fromかながわ』に参加せえへん?
4頁 関東発『ポラロイド大作戦!』について
5頁 Saturday Express
6〜7頁 桜亭の金田真須美でございまっす 第2回
8〜9頁 御蔵通5‐5 シリーズ「まちのボランティア」その1
〜誰がための「まちづくり」〜
10〜11頁 のぶ日記 Vol.2(11/22〜11/24)
裏表紙 つれづれなるままに 第5回/編集後記
〈くわ〉 桑山克巳 A-yan Tokyo代表 |
〈のぶ〉吉田信昭 すたあと長田スタッフ |
*** 見るぎゃざりんぐ ***
○ ぎゃざりんぐめいんすてーじ
子どもが見た震災展 ボランティアが見た阪神・淡路大震災〜スケッチ画展
ガレキのなかから見えてくるもの かながわでの地震に備えて
全国災害ボランティアネットワークを目指して
○ ドキュメンタリービデオ上映
○ 朗読劇場『黒い虹』
○ 小さなステージ〜紙芝居、お話会、ミニコンサート等
*** 参加するギャザリング ***
○ ONE LOVE 神戸〜阪神・淡路応援コンサート
○ 救急法を学ぼう!
○ 演劇キャラバン『てくてく』〜僕らが歩いたガレキの街
○ こころの郵便局〜絵手紙 to KOBE from Kanagawa
○ 起震車体験
*** 買って得するギャザリング ***
○ 『ええもんや』阪神・淡路物産即売会
○ 神戸の本屋さん
○ カレーを食べてインドを救え!
*** つながるギャザリング ***
○ 防災シンポジウム
神奈川(災害)ボランティアネットワーク設立記念講演会
防災と安全の都市(まち)づくり〜東海大地震に備える先輩、静岡からに学ぶ
防災はともだちづくりから〜全国災害ボランティアネットワークを目指して
○ グリーンコールヨコハマ〜県外避難者相談フリーダイヤル
○ 笑顔のキャッチボール〜ポラロイドメッセージ from KOBE
044-556-4564//080-347-8097
katz@NetLaputa.or.jp(担当:桑山)
私たちは東京で神戸支援を日々の活動として行っていますが、残念ながら東京では、震災ということに対して日に日に記憶が薄れつつあります。
そこで、神戸への関心を持ってもらうために、たとえ小さなことでも、私たちのできることから行動していこうと考えています。
1996 年、七夕の夜に東京を中心とした全国の方々から、笑顔に神戸へのメッセージを添えたインスタント写真が短冊として飾られました。これが「ポラロイド大作戦」の始まりでした。
神戸の方から「メッセージキルトや手紙といった物はよく送られてくるけど、なかなか送り手の顔が見えてこない」というお話を聞き、それならば少しでも親近感を感じれるようにと、インスタントカメラを使った写真入りの直筆メッセージカードを神戸へ送るという企画が生まれました。それが、 この「ポラロイド大作戦」です。
今回、1997 年1月18 〜19日におこなわれます「第2回市民とNGO の<防災>国際フォーラム」内にて、全国から送られたメッセージ入りポラロイド写真を展示します。そこで、その場で神戸のみなさんやイベント参加者の方々の写真を撮らせていただき、全国の方へメッセージを送っていただきたいと考えています。神戸から送られたメッセージ入りポラロイド写真は、東京を中心として全国で写真展を通して多くの方に見ていただき、神戸と全国とのメッセージのキャッチボールを行いたいと思います。
小さなことかもしれませんが、神戸と全国を結ぶきっかけになればと願っています。
また、フォーラムや写真撮影に、直接参加が不可能な方も、被災地内外を問わず、どうか私どもまで、手紙なり写真なりを送っていただけたら……と思っています。
(「ポラロイド大作戦」実行委員長:高橋康次郎)
長田のコミュニティ放送局 FM◯◯◯◯(77.8MHz)より
毎週土曜日午後2時から2時55分まで放送中!
毎回さまざまな方面の方々にゲスト出演していただき、笑いあり涙あり、時には真剣に、明るく楽しめる番組をお届けしています。
※数回分のゲスト出演のコーナーを文章化したものが有ります。ご希望の方はすたあとまでご連絡下さい。
Saturday Expressクイズ
Saturday Expressを放送しているラジオ局(上の〇〇〇〇)の名前を当てて下さい。
正解の方の中から抽選で3名の方に「FM◯◯◯◯特製ステッカー」を差し上げます。
<たった数十秒の揺れがこの世に地獄を作った>
夜明けを待って原付バイクで街へ飛び出した私の目の前に信じられない光景が次々と襲いかかってきた。いや、目に限らず耳に鼻に(私は人の焼ける匂いを初めて嗅いだ)手足の全てに。
日常生活において経験することの無い異様な街の姿に私たち人間は為す術も無く、ただ呆然と立ちつくした。そして、その地獄から這い上がる苦しみと闘う日々が始まった。
味わう為ではなく生きる為に食べ、眠れなくても身体を休める為に横になり、無駄だと思っても何か出来る事をと動き回った。次にはもっと大きな地震が来るかもしれないという恐怖につきまとわれ、そこかしこで耳にする様々な噂に翻弄され自らその平常心をも捜さなければ見つからない程だった。
地震から10日が過ぎようとした頃、私は川のほとりの公園に居た。長蛇の列を作る人々を前にチャイ(ミルクと砂糖たっぷりのインド地方の紅茶)や雑炊の炊き出しに物資の調達や配給、各地から集まってくる名も知らぬボランティア達の食事の世話や地域状況の伝達を行った。何より重要で辛かったのは被災者達との語らいの時だった。今にして思えば私の話す方言への土着的な安心感から、いろんな話を聞かされた。ある50代なかばの男性は、脱サラで2年前に家族と始めたパン屋が全壊し、収入の絶たれた不安と今後への絶望感に押しつぶされそうになる気持ちを涙しながら語った。その後も彼はたびたびやって来て、自分の幼い頃の話や家族のこと、長かったサラリーマン時代の様々な話、そして今避難所で過ごす苦しさ等を語り続けた。
出会ってひと月になる頃、久しぶりに公園を訪れた彼は、いつもと違う明るい表情で、何とか家族4人が暮らせるマンションを見つけたことを告げに来た。その日初めて彼は涙を流さずに私と過ごし、神戸を離れる為、暫くこの公園に来ることはないだろうと笑った。
この頃から被災者達は立ちはだかる問題に対しどう選択すべきか思い悩んでいた。
このまま、いつ迄避難所に居られるのか? その後は仮設に入れるのか? それはいつ、どの広さのものなのか? 収入の見通しもないのに資金は? 公園のテント住まいでは仮設は申し込めないのか? 長年ともにしてきた犬や猫は? 子供の学校、職場への足は? ガレキの中に置いて来た家財道具は? 元の所へは帰れるのか?
胸中に様々な思いや考えが去来し、その都度現実に突き当たり、繰り返す内に心身ともに疲れある者は酒に逃げたりもした。
先月号で紹介したウメおばちゃんは70近い年齢でありながら精神的疲労を肉体的疲労で乗り越えた(やっつけた?)一人だ。前号でも記したように、独り暮らしで被災し住まいを失ったおばちゃんは近所の避難所に身を寄せたものの、狭い避難所内で繰り広げられる御近所同士のもめごとに嫌気がさし、我が公園へと流れ着いた。若いボランティア達の世話をし、道行く街の人々の悩みを聞き同じ目線で励ましかける内に、結構な重労働をものともせず初めて会ったときとは別人(鉄人?)の様になって居た。とりあえず仮設が当たる迄、真冬のテント暮らしを選んだおばちゃんに余裕が生まれたらしい。
そんな頑張りもくじけそうになった頃、おばちゃんに仮設当選の知らせが有った。
本人は当然の事、周りのボランティア達も我が事の様に嬉しそうだった。いくら思いはあっても自分で救い切れない一人の人間に陽が差したのだ。かつて冬の公園で寝食を共にして来た老人に見送られて地元に帰る時程ボランティアにとって辛い瞬間はなかっただろう。遠くへ戻っていったボランティア達に被災地の状況を伝えていた私の声も、久しぶりの朗報にはずんだ。
それから引っ越し迄の10日間、私とおばちゃんは荷造りや運搬用の車や人出の確保に走り回った。勿論、ガレキの中に置いて来た荷物やひろい集めた道具たち、他ボランティアチームから頂いた輝く様な新品の布団類。それらの品をまとめてみるとかなりの量になり、それはそれで、あの狭い仮設の中に入り切るのかと心配になったりもしたが、地震以降初めての楽しい作業だった。
引っ越し前夜、私とおばちゃんは神妙な面持ちで向かい合っていた。明日からこのテントには居ないおばちゃんの門出を祝ってささやかながら私は鍋料理の支度をしたが、今までの苦労やこれからの事を想うと胸が一杯で何も語れず箸さえすすまなかった(いつもはにぎやかな回りの連中もこの夜は誰一人テントに来なかった)。
長い穏やかな夜が明ける頃降りだした雨が、ウメおばちゃんの荷物を積んだ車がでる午後には、傘が無くては歩けない程になっていた。
(金田 真須美)
−悪の巣窟(?)桜亭− 撤去当日、テント全景の写真が ないことに気づき、パチリ! 数時間後には跡形もなし。作業終了。 (撮影日:1996.10.20) |
−在りし日の桜亭店内− 3.6m×10.8mのテントは、営業スペース (土間)と居住スペース(畳敷き)の 半分づつで、結構広かった。 金田真須美生誕37年を祝う奴隷たち。 写真、手前左が私。 (撮影日:1996.4.13) |
一応この連載のコンセンプトは「御蔵にいる(いた)人たちの『思い』や『姿』を堅苦しくなく紹介する」つうことなのでありますが、しばらくブッチします。何故かというと筆者である小野がとてもそんな精神状態ではないからでありまして、なんでそんな精神状態ではないかというと、笑えないくらい被災2年目を迎えようとする御蔵・菅原のまちは、「明日が見えない」状態だからであります。
地震が起きたあとの「まち」の話を知っている人はどれくらいいるだろう?
被災地と言ったってその範囲はとっても広い。西宮と尼崎と芦屋と神戸は抱えている問題は共通するものがあるが、被害の中身やまちのタイプは結構違う(そもそも別々の自治体だし)。神戸の中だって東と西ではやっぱり違っていて、それは自ずと「復興」に向けての課題や方向性の違いが(当然ながら)関係してくるはずなんだけど……。
「震災復興土地区画整理事業」
全焼地区である御蔵・菅原に、震災直後の'95年3月に指定された「都市計画事業」。
多大な被害を受けた阪神の被災地区には、この事業が被せられている所が多い。
「震災復興」と堂々銘打たれたこの事業の中身は「ただの区画整理」でありまして、「区画整理」を知らない人は勉強して下さい。どこのまちでも行われています。
「減歩」(1定割合の土地資産を供出させること)「換地」(価値が同程度の土地へ交換させること)を行って、新たに「道路」と「公園vを生み出すこの制度が、被災したまちに対して行政が行う最大の支援策なのだけれども、そこには「家」の話や「生活」の話がちっとも浮上してこない。神戸市は、ともかくまずは道路・公園の位置を決めて下さいの一点張りで、だから2年近くまちの人が「まちづくり協議会」で何を話してきたかというと、市との押し問答を繰り返しながら、実はほとんどその話だったのだ。
そして、今「事業」だけは確実に進行している。
ところで「まちづくり協議会」とは何でしょう。
行政から認められた、住民による協議組織で、この会が地域の代表機関として行政に対し提案や要望を行うことになっている。あくまで「まちづくり」のための会なので、いわゆる「自治会」とは違う。「住民主体のまちづくり」の成否はこの協議会の活動いかんに懸かっていると言ってもよく、重要な役割を担っているのだ。震災後あちこちの地区でタケノコのようにこの「協議会」が誕生している(大小とりまぜて100以上)。
いま、御蔵・菅原は(区画整理がかかっていない地区を除いて)大きく2つの地区に別れていて、それぞれに協議会ができている。長田線(バス通り)をはさみuすたあと」のある方がu御蔵5・6」、菅原市場のあるほうが「御菅3・4vと呼ばれており、ともに区画整理を前提にした「まちづくり」に取り組んでいる格好になっている。
協議会の役員は概ね10数名。殆どが全焼で家を「焼き出された」方たちで、避難所で数ヶ月生活していた方も何人かいらっしゃる。u立場」も地主・借地・借家の方、各々いて、主婦もいれば事業主もいる。そんな方々がほぼ毎週毎週寄り集まって「まちのこれから」の為の会合を行ってきた。もちろん全員無報酬「ボランティア」だ。
そして、あの1月17日が目前に迫る今、多くの人がまちに戻れず、家も建てれず、ただ不安ばかりがが募るu仮」生活を送られている現状は一体なんだ?
壊滅に近い被害を受けた「まち」にとっての「まちづくり」とはなんだ?
僕は思う。「区画整理」は、被災地の為の「まちづくり」の手段ではない。
(小野 幸一郎)
<左図> 震災前の長田区御蔵通5・6丁目の地図に 区画整理案(太文字)をかぶせたモノ。 道路が広がり、公園が2カ所配置される。 ちなみに減歩は5% |
今回は、ウィークリー制作直前でありながら、遊びまくってた頃のお話。
11月22日から24日まで『ソウル・フラワー・モノノケ・サミット』の『3days』がありました。この通称『モノノケライブ』は今回、22日に仮設西神第7住宅で、23日は仮設東加古川団地で、24日は『フェスタin湊川』というフリーマーケットの会場で行いました。
(吉田 のぶ)
左は伊丹さん(ソウルフラワー)、 右が沖さん。 1996.7.28 アジア自由市場会場 (長田区)にて |
左が澁江さん、右は奥野さん (ソウルフラワー)。 1996.9.29 大阪にて |
みなさん、こんにちは。
さて今回は、先月号に継ぐ『パート2』です。先月号は、有機農業や農薬の怖さについて書いたんですが、今回は、どのように作られた作物が良いのかを書いてみたいと思います。
みなさんは、自然農法というのを知っていますか? 自然農法とは、農薬や有機肥料を一切使用せず、土に含まれている栄養分だけで作物を育てていく農法の事です。言葉どおり、自然に作ることですが、実際はそんなに簡単に作れるものではありません。
土には本来、たくさんの微生物達がいます。この微生物達が、落ち葉や枯れ草、わらなどを分解して、土をどんどん肥やしていきます。実際に自然農法の畑やたんぼでは、おちばや枯れ草、わらなどと土をまぜて、適当な温度と湿気で自然発酵して出来たqたい肥rを使用しています。これには、有機肥料や農薬は一切入っていません。
本来qたい肥rというものは、土と自然の産物によって出来るのです。
この土を使って作物を育てるので、出来た作物は一切害はありません。しかし、現在の日本の状況を見てみると、この農法で作るのは難しいと言われています。今日までの農薬散布による土の酸性化や工場からの有害物質のたれ流し、そして、酸性雨。「日本の土は死んでいる」とも言われています。土だけではありません、水も死んでいます。こんな状況では良い作物を育てることは出来ないのです。また、どんなに頑張っても、自分の畑だけ自然農法をしたところで、隣の畑で農薬を使用していたら、すべて汚染されてしまいます。
しかし、何年もかけて、土を生き返らせる努力をしている農家の方もいます。
私たちの生活というのは、健康な身体があってこそ成り立ちます。その健康な身体は、作られた環境からではなく、自然の中から生まれてくるものなのです。
本当の意味での『健康な身体』になる事をもう少し考えてみてはどうですか。
(パミール)
この『第12号』は、月初めに発送するつもりだったのですが、作業が遅れてしまったために『ウィークリーNo.19 』と制作が重なってしまい、作業に追われる焦りから、集中力が散まん・肉まん・あんまん…… ウィークリーでは、誤字が多くあると、東京のスタッフから注意を受け、しかも「(インフォメーションの記事が)勘違いを誘う文章だ!」と読者から電話で叱られてしまいました。(~o~)
今度から、印刷前のチェックをするときは、カルシウムをたくさん取って、集中力を高めたいと思います。
(吉田 のぶ)