==新湊川公園で ながたの《古代のひかり》をみっつけた==
苅藻川と合流する新湊川のあたりは、震災後も、熱心に散歩コースの整備がすすめられている。ひなん所になっていた旧区役所の横に《御船山(みふねやま)旧跡》の石碑がある。
古代【ナガタノクニ】とよばれたころ、神功(じんぐう)皇后が、朝鮮(新羅:しらぎ)への遠征のあと、海から苅藻川をさかのぼり、ふねが着けられた所とか、船具を埋められた所という話がのこっている。
3世紀初めのころの説話である。もっとも、このころは【日本】という国もなまえも、まだなかった。われわれが、いま住む、この列島も、ひとつの国ではなかった時代の話である。朝鮮半島も、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)の3国にわかれていたときの話でもある。
《じんぐう皇后が、朝鮮を侵略した。》という書きかたをする本もあるが、むしろ、このころ、大陸や、半島や列島にある、東アジアの諸国は、ひとびとも、まぜこぜで、いくさをしたり、仲良くしたりしていたのであろう。
川沿いの公園を、朝の陽をあびながら、歩いていると、木々の間から、そんな古代の光がもれて来て、じつに、気持ちがいい。
(和田 幹司)
ふねをあやつり かわをくだり いっぱいの みやげを積んで うみを渡り 行き来した日々。 大陸も、半島も、列島も、 いまも、ながたには 人が集い |
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▲《御船山 旧跡》の石碑 | |
▲川沿いの紅葉 |
最近の風呂屋は、お客さんの人数がめっきり減ってしまって、どうしたものかと思います。以前はたくさんお客さんが見えていました。
風呂屋といえば、以前はお客様の社交の場、情報交換の場、そして1日の疲れをいやす場として、たいそう繁盛しておりました。
それがいまは核家族化が進み、各家庭に浴室が付き、家庭でお風呂に入るようになりました。たくさんの人の前で裸になれない人が増えています。俗に言う「裸のつきあい」がなくなってきたのかな?
今まではお風呂の中でコミュニケーションをとることにより、子供も大人もたくさんの情報を持っていました。それが今では、家庭にある風呂には裸になって話をするという機会が少なくなったと感じます。母親と子供、父親と子供、親子の間でのコミュニケーションが、何となく少なくなったかなあと思いますが、いかがでしょう、みなさんは? どう思われますか?
小学校低学年ぐらいまでだったら父親・母親とお風呂に入る機会もあったと思いますが、高学年になればなるほど入りづらくなります。でも銭湯では、同級生同士で入ることが多々ありました。思春期の悩み事、また友達のこと・恋人のこと、色々なことを友達としゃべったものです。両親には言えないことでも、湯につかりながら何時間もしゃべった記憶がないでしょうか。
今、友達同士、また親子同士のコミュニケーションが少ないように思います。みなさんも一度、友達同士や家族みんなで銭湯でのコミュニケーションというものを見直してみたらいかがでしょうか。思いもしてみなかった話題が出るかもしれません。
(鷹取『幸せ湯』:古西 隆裕)
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