『白き街』 acte 2


 床に落ちた朝食を片付けてすぐに、ミレイユと霧香はホテルを後にした。
 カルフールが身を潜めていると思われる屋敷へ向かって足早に歩くミレイユ。
 ミレイユの3歩後をついて歩く霧香。
 2人の間に小さな溝が出来ていたのは、傍目にも明らかだった。
 
 やがて、2人は屋敷が見下ろせる小高い公園に着いた。
 ミレイユはベンチの右端に座ると、鞄の中から双眼鏡を取り出して屋敷の中を覗いた。
 そして間も無く、ガウン姿のまま何食わぬ顔をしてパイプを咥えているカルフールの姿がミレイユの瞳に映った。
 「意外とあっさり見付かったわね。ま、これで町中歩き回らなくても済むけどね」
 ベンチの左端に座った霧香は、ミレイユの言葉に何の反応も示さなかった。
 ミレイユはベンチの右端に座ったまま、不愉快そうな視線で霧香を睨む。
 「・・・言いたい事があるなら、はっきり言えばいいじゃない」
 霧香もまた、不愉快そうな視線でミレイユを睨む。
 「・・・別に・・・ないわよ」
 ずっとリサラの事をミレイユに言おうと思っていた霧香だったが、いざミレイユに機先を制されてしまうと、ついつい口篭もってしまうのだった。
 「そう・・・言いたい事が無いなら、何の問題も無いと思う事にするわ」
 言い終わるや否や、足早にメインストリート方面へ歩いていくミレイユ。
 ミレイユの3歩後をついて歩く霧香。
 2人の距離は変わらない。
 が、2人の溝はより深まっていた。
 
 やがて、2人はメインストリートに着いた。
 この町の朝は早い。まだ午前9時だというのに、様々な商店は早くも営業準備を整え、客が来るのを待っている状態だった。
 
 ふと、古物商の前で霧香の歩みが止まる。
 そこには霧香が覚醒した日にベッドサイドにあったものと、全く同じクマのぬいぐるみが置いてあった。
 「可愛いでしょうお嬢ちゃん。今朝、開店直後に持ち込まれたんですけどね」
 ミレイユとのいざこざで、ささくれ立っていた霧香の気分が和む。
 「旅の記念に、ひとつどうです?」
 霧香は口元に笑みを浮かべ、ぬいぐるみの頭を撫でようとして右手を伸ばす。
 
 その時、霧香に向けて何かが飛んで来た。
 霧香は凛とした表情を見せると、右手で飛んできた物体を叩き落した。
 飛んで来たのは1ユーロのコイン。
 投げたのは数メートル先に居たミレイユだった。
 「何するのよ、ミレイユ!」
 霧香は怒った顔でミレイユを見つめる。
 ミレイユも怒った顔で霧香を見つめていたが、少しすると急に呆れた様な表情になった。
 「あんたの無警戒ぶりにもほとほと呆れたわね」
 自分が無警戒?
 霧香の中で小さな疑問が湧く。
 こうして街中を歩いている時にも、小さな殺気ひとつ逃さぬ様に気を配っているのに。
 「ま、少し頭を冷やして、真っ直ぐホテルに帰ってらっしゃい」
 ミレイユは吐き捨てる様に言うと、ホテルへの道を足早に歩いていった。
 
 「チッ。ミレイユの奴め、余計な事を言いやがって」
 「まあいい。百戦錬磨のミレイユと異なり、霧香は殺気の無い相手を警戒する事が出来ない。その弱点に霧香自身が気付かぬ限り、霧香を殺るチャンスは幾らでもある」
 「それよりも2人がバラバラになった今こそ、ミレイユを殺るチャンスだ。ぬかるなよ」
 
 霧香と別れてホテルへの道を歩いていたミレイユの目の前に、ビルの影から唐突に2人の大柄な男が現れた。
 「お前、土地の者じゃないな」
 「ただの観光客よ。何か用かしら」
 「ここは俺達の私有地だ。通りたければ通行料を払いな」
 「あら、あの人達はタダでいいのかしら?」
 ミレイユが視線を送った先には、家族連れの地元民が歩いていた。
 「それはな・・・通行料は身体で払う事になっているからだ」
 そう言い終わるや否や、男のひとりがミレイユに襲いかかる。
 ミレイユはその美貌と素晴らしいプロポーション故に、下心丸出しのチンピラに襲われる事が多い。勿論、巷のチンピラなどミレイユの敵ではないが、旅行鞄という手枷が有っては存分に戦闘能力を発揮出来ない。
 ミレイユは咄嗟に旅行鞄を地面に置くと、襲いかかって来た男のパンチを避けながら、男の鳩尾に回し蹴りを叩き込んだ。
 (!)
 ミレイユが顔を上げると、もう一人の男が旅行鞄を持ち去って行くのが見えた。旅行鞄には携帯電話とノートパソコン、そして愛銃のワルサーP99が入っている。ミレイユはもう一人の男を全速力で追い掛けていくが、狭い路地裏に入った所で男を見失ってしまった。
 
 「自在に暗器を調達出来る霧香と異なり、ミレイユの殺し技は拳銃に大きく依存している。それがミレイユの弱点だ。拳銃を奪ってしまえば、ミレイユなどただの女に過ぎん。もうヤツは死んだも同然だ」
 
☆★☆★☆
 
 ミレイユと別れた霧香は、トボトボとした足取りでホテルに向かっていた。
 自分の何処が無警戒なのだろうか?
 霧香には全く見当が付かなかった。
 
 霧香はホテルに戻ると、ベッドの上で膝を丸め、壁に開いた小さな穴のひとつに目を向けていた。その穴には、朝食で出たウインナーの拾い忘れと、ウインナーに群がるネズミの姿があった。もしミレイユがこんな光景を見たら、ヒステリックな声で「部屋を変えて!」と言うに違いないだろう。
 美味しそうにウインナーを齧るネズミの姿を、霧香は微笑ましい表情で見ていた。
 
 ・・・次の瞬間、霧香の表情が凍り付いた。
 ウインナーを齧っていた3匹のネズミが、突然痙攣した様な動きを見せた。
 そして、3匹のネズミはその場に転がって、ピクリとも動かなくなった。
 (まさか、毒が盛られていたなんて・・・)
 リサラの様子からは、毒が盛られているなど想像も付かなかった。
 多分、リサラは何も知らずに朝食を運んで来たのだろう。
 ミレイユがどの様な方法で毒に気付いたかまでは判らなかったが、ミレイユが貧血を起こしたフリをして朝食を廃棄した理由を、ようやく霧香は理解した。
 
 霧香は急いでホテルを出て、メインストリートへと向かう。
 きっとあのクマにも何かがある筈だ。
 ホテルを出てから10分程で、霧香はメインストリートに到着する。
 古物商の回りには人垣が出来ていた。
 霧香が人垣をかき分けて中に入っていくと、古物商の主人がクマのぬいぐるみを手にしたまま死んでいるのが見えた。
 主人の右手には小さな針の跡があった。
 猛毒を仕込んだ毒針が、ぬいぐるみの頭に仕込まれていたのである。
 (ミレイユがコインを投げなかったら、こうなっていたのは私・・・)
 霧香の心の中は、ミレイユに対する懺悔の気持ちで一杯になっていた。
 
 そんな霧香の前に、一人の女の子が花束を持って現れる。
 「観光客へのプレゼントです。どうか受け取って下さいね」
 「ありがとう」
 霧香が花束を手にしようとした瞬間。
 (もし、私がミレイユならどうするだろう?)
 霧香は手を止めて花束を注視した後、左手をスカートのポケットに突っ込む。そして、一瞬止めていた右手を伸ばして花束を掴むと、直ちに女の子に背を向けた。
 
 霧香は女の子から受け取った花束を手に、人通りの殆ど無い裏通りをひとり歩いていた。
 霧香の鋭敏な感覚は、後から殺気を押し殺して尾行して来る男の存在を明確に捉えていた。
 そして、そのまま暫く歩いていくと、突如として霧香の歩調が乱れる。
 何とか姿勢を持ち直そうとする霧香だったが、通りの角を曲がった所で、苦しげに身体を震わせ、その場にうずくまってしまった。
 四つんばいになって息を荒げ、小刻みに身体を震わせている霧香の元に、先刻から霧香を尾行していた黒服の男が姿を現す。
 「フッ、ノワールを騙る少女にしては、呆気ない最期だな」
 
 次の瞬間。
 霧香は唐突に飛び起きると、右手に持ったままの花束を黒服の顔に突き当てた。
 「な、何ィ!」
 霧香が花束を手にしようとした時、かぐわしい花々の香りの中から、微かに鼻を突く異臭を感じ取った。
 しかし、花束を受け取らなければ女の子が犠牲になる。
 霧香は一旦花束を受け取り、女の子に背を向けると同時にスカートのポケットからハンカチを取り出し、左手で口元に押し当てて匂いを嗅がない様にしていたのである。途中ふらついたり、四つんばいになったりしていたのは霧香の芝居だった。
 「・・・く、くそぅ・・・・・ウッ!」
 黒服の男は異臭の元を直接吸い込んでしまったのか、身体を激しく痙攣させた後、四つんばいになって息を荒げ、間も無く絶命した。
 霧香は黒服へ向かって花束を投げ、その場を後にした。
 
☆★☆★☆
 
 同じ頃。
 ミレイユは路地裏で、微かな殺気を放っている男の気配を感じていた。
 頼みの拳銃を旅行鞄ごと持ち去られてしまった今、ミレイユは丸腰も同然だった。
 武器の無い今、敵の攻撃を受けたら、間違い無く殺られてしまうだろう。
 (もし、私が霧香ならどうするだろう?)
 ミレイユは霧香がロカールやタナーを殺した時の手口を思い出していた。ロカールは頚動脈を眼鏡の弦で突かれ、タナーは延髄にフォークを突き立てられていた。どちらも暗器は霧香が現場で調達したものである。
 何処かに使えそうなものはないのだろうか?
 ミレイユはふと、自分の胸元にあるブローチに気付いた。
 安全ピンの一方に葡萄を模した装飾が付いている形の、全長約10センチのブローチ。元々はパリの露店で購入した安物なのだが、露店で買ったとは思えない程に高級感があるので、シャレのつもりで着けていたのである。
 そのブローチをミレイユは胸元から外し、安全ピンの部分を伸ばして右手に隠し持った。
 
 やがて、何処からともなく黒服が姿を現す。
 左手には旅行鞄。
 そして、右手にはワルサーP99。
 ミレイユは黒服の様子を見るや否や、軽蔑した様な口調で言う。
 「わざわざ荷物を届けてくれてありがとう。でも、女性の鞄を勝手に開けて中身を物色するなんて、あまりいい趣味とは言えないわね」
 「フッ、何とでも言いたまえ。この状況下では万が一にも勝ち目が無い事位、聡明な君なら判っている筈だ」
 黒服はミレイユの5メートル手前で鞄を置き、拳銃を手にミレイユに歩み寄る。
 そして、黒服はミレイユの眉間に銃口を突き当てると、鼻筋から口元、胸元から下腹部へといった具合に、ミレイユの身体のラインに沿って銃口を滑らせる。そして、ミレイユの左胸へ銃口を戻すと、乳房の弾力を楽しむかの様に強く銃口を押し当てる。
 「実に素晴らしい美貌とスタイルだ。殺し屋にしておくには勿体無い位にな」
 「褒め言葉として受け取っておくわ」
 その言葉とは裏腹に、ミレイユは怒ったような目付きで男の顔を睨む。
 
 次の瞬間。
 ミレイユはあさっての方向に視線を向ける。
 黒服の視線もあさっての方向に向かう。
 ミレイユは視線を外したまま、ワルサーのスライドを左手で掴むと、右手に隠し持ったブローチで黒服の心臓を突いた。
 「・・・クッ・・・・・バカな・・・・」
 心臓を刺された黒服は咄嗟に引き金を引こうとするが、スライドが掴まれているので弾を撃つ事が出来ない。
 そして、黒服は前のめりに倒れて絶命した。
 黒服の心臓を刺し、血で染められた右手のブローチを見て、ミレイユは呟く。
 「私の仕事も、十分下品ね」
 
 ミレイユは黒服の手から愛銃を奪い返し、咄嗟に鞄の中身を確認する。
 拳銃以外に手を付けられた様子が無かったのを見て、ミレイユは少し安心する。
 そして、再び旅行鞄を手にして顔を上げたその時。
 
 ミレイユの視線の先には霧香の姿があった。
 霧香はべそをかいた様な表情でミレイユを見ていた。
 ミレイユは落ち付いた表情で霧香に歩み寄る。
 「・・・ミレイユ・・・・・ごめんなさい・・・」
 霧香は呟くような小声で言うと、急に駆け出していきなりミレイユに抱き付いた。
 雨に打たれた子猫の様に、霧香はその小さな身体を小刻みに震わせていた。
 「・・・ミレイユは色々な罠から私を助けてくれた・・・それなのに、私は・・・・」
 「絡め手から弱点を突いてくる相手なんて、あんたにとっては初めてでしょ、霧香?」
 「・・・うん・・・・・」
 「経験を重ねなければ判らない事だってあるわ。ひとつひとつ覚えていけば、それでいいのよ」
 ミレイユの優しい言葉を聞いた霧香は、ミレイユの胸に顔を埋めて泣いた。
 ミレイユは旅行鞄を下ろすと、静かに霧香の身体を抱き寄せた。


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