『空ばかり見ていた』acte 2


 そして、週明けの月曜日。
 月曜日の第6時限は、週に一度のレクリエーションの時間だった。各クラス毎に、学校内の施設を自由に利用できる時間である。
 今回、霧香のクラスでは男女混合でソフトボールを行う事になった。チーム編成も打順もポジションもくじ引きという、実にいいかげんな決めの結果、霧香はトップバッターとして打席に立つ事になった。
 少し間を置いて、霧香は一塁ベースへと歩いて行った。相手ピッチャーのコントロールが悪く、1球もストライクが入らなかったからである。
 次の打者は強打者で鳴らす野球部員だった。今回は単なる遊びの筈なのだが、それでも血が騒ぐのだろうか、いきなり痛烈なライナー性の当たりが一・二塁間へと飛んでいく。
 打音が響くと同時に塁を飛び出した霧香は、丁度その打球の飛んで行く先に差し掛かっていた。飛んで来るボールを避ける事など、霧香にとっては造作も無い事だった。
 しかし、次の瞬間、霧香の心は突然かき乱された。
 新一がカメラを構えて、自分を写そうとしているのが見えたからである。
 あの表情を再び撮られる訳にはいかない。
 霧香が咄嗟に緊張を解いた瞬間、打球の行方も霧香の頭の中から消えた。
 そして、打球は霧香の頭を直撃した。
 
 霧香はその場で意識を失い、倒れこんでしまった。
 「・・・俺、夕叢さんを保健室に連れていくよ。後は適当に続けていてくれ」
 保健委員でもある新一は、カメラを友人に預けるとそのまま霧香の所へ行き、霧香の身体を抱き上げた。
 その時、新一は奇妙な違和感を覚えた。
 霧香の身体の感触は、普通の女の子が持つ柔らかさとは明らかに異質のものだった。
 大腿部も二の腕も、指先がのめり込む様な感覚は皆無であり、逆に皮膚の表面で押し返されるような強い弾力があった。新一は霧香を抱えたまま、右腕を動かして霧香の背中をまさぐる。そこにはぷよぷよした脂肪の感触も、痩せた女の子にありがちな骨ばった感触も無かった。新一の腕に伝わってきたのは、大腿部や二の腕と同様に、華奢な外見からは想像も付かない、柔軟で瞬発力のありそうな筋肉の感触だった。
 霧香の驚異的な運動能力を考えれば、この位鍛えられた身体をしているのはむしろ自然な事なのだが、それでも霧香の秘密の一端を暴けた事に、新一は無上の喜びを感じていた。
 
 6時限目が終了し、掃除の時間を迎える。
 今週の教室掃除当番は新一の班だった。
 床掃除の為の机移動は、掃除中最も面倒な事のひとつである。女子は丁寧にひとつひとつの机を運んでいるのだが、男子の中には面倒臭いとばかりに、シマの端に立って複数の机を一気に押し返そうとする者も居る。
 そして今日もまた、複数の机を押し返す男子生徒の姿があった。
 新一である。
 「おらおら〜っ・・・あ」
 教室内の微妙な凹凸に机の脚が引っ掛かり、ガシャガシャという激しい音と共に幾つかの机が倒れ込む。机の中身やら机に括り付けられた鞄の中身やらで、辺りはグチャグチャになってしまった。
 「何やってんのよアンタは!手間ばかり増やして!」
 「悪ぃ悪ぃ。つい力が入り過ぎちゃったぜ」
 
 新一だけではとても拾い切れない分量なので、仕方無く全員で机や鞄の中身を復元する事になった。
 ふと新一が目を向けると、霧香の鞄が口を開けて中身を覗かせていた。中には教科書とノートの他に、鉄道マニア御用達の大版の時刻表が入っていた。
 しかし、いざ時刻表に手を掛けてみると、見慣れない黒い物体が中から滑り落ちて来た。
 「おい!お前達一体何時になったら掃除終わるんだ!」
 突然響く教師の声に、新一は黒い物体が何なのかを確認しないまま、学生服のポケットに入れた。そして、どさくさに紛れて黒い物体を自分のスポーツバッグに入れた。
 こうなる事を意図して行った訳ではなかったが、思わぬ形で霧香の秘密を暴くキーアイテムが手に入り、新一は内心ほくそ笑んでいた。
 
 丁度机や鞄の中身を戻し終わった頃、霧香は教室に戻って来た。更衣室に立ち寄ってから来たらしく、霧香は既にセーラー服を着用していた。
 「夕叢。今日は掃除はいいから、帰って休みなさい」
 「はい」
 霧香は教師の指示に従い、自分の鞄を手にするとそのまま教室を後にした。
 
 帰り道。
 霧香にとっては、いつ「敵」が襲ってくるかも判らない恐怖の時間である。
 勿論、霧香の腕前をもってすれば「敵」を倒す事など造作もない事だが、それでも遭遇しないに越した事はない。
 商店街の外れで霧香が咄嗟に踵を返して駆け出すと、黒塗りの大型セダンがスピンターンして追い掛けて来た。どうやら今日は一戦交えなければならないらしい。
 霧香はそのまま廃工場に駆け込んで、薄汚れた窓から敵の人数を見極める。
 大型セダンから降りてきたのは3人。
 黒服達を迎撃するため、霧香はベレッタを取り出そうとして鞄の中に右手を突っ込む。
 (・・・無い・・・そんな・・・どうして?)
 霧香の表情がみるみる蒼ざめていく。
 霧香は通学時にベレッタを携帯出来る様に、時刻表の中身を拳銃の形にくり抜き、その中にベレッタを入れて持ち歩いていた。一見しただけでは拳銃がある様には見えない上に、素早く取り出せるという利点もある。そして、その事を知っているのは自分しか居ない筈である。
 しかし、幾ら探してもベレッタは見当たらない。
 万が一拳銃を失った時の事を考え、霧香は弾倉を別の場所に隠していた。弾倉は鞄の中に有ったが、本体が無ければ何の役にも立たない事は明白である。
 
 「敵」は工場内をしらみ潰しに当たっている。時々聞こえて来る発砲音からも、着実に自分の所に近付いているのが判る。
 このまま死を待つしかないのか?
 霧香は辺りを見回して武器になりそうなものを探す。廃工場という事でロクな物が無かったが、その中から霧香は長さ10センチ程度の釘と、内径1センチ、長さ20センチ程度の鉄パイプを拾ってきた。
 その後、霧香はポケットの中にあったガムを噛み始め、ガムが原型を留めない位にこなれた所でガムを口から出し、釘の真ん中に巻き付けて行く。そして、鉄パイプの一方からガムを巻いた釘を押し込み、反対側に弾倉から取り出した弾丸を入れる。
 装弾数1発、しかも弾丸がまともに飛ぶかどうかも判らない粗末な銃。
 だが、霧香はこの粗末な武器に己の命運を託すしかなかった。
 
 そして遂に、黒服のひとりが霧香を捕らえた。
 手始めに霧香に向かって3、4発発砲する。
 銃弾は外れたが、反撃が来る様子は無い。
 その様子を見て、黒服は自分の経験から霧香が丸腰であると判断した。
 黒服は拳銃を構えたまま、一歩一歩霧香に近付く。
 霧香を確実に仕留める為に。
 そして、恐怖に怯える霧香の表情を見て愉しむ為に。
 
 霧香は小さな身体を更に小さく丸め、今にも泣き出しそうな表情で震えていた。
 まるで、己の命があと少しで絶たれる事を自覚しているかの様に。
 黒服は霧香の両手を見る。
 左手には何も握っていない。
 右手には短い鉄パイプを握っているが、そんなものでは棍棒の代役にすらならない。
 黒服は勝利を確信した。
 後はこの忌々しい小娘に耐え難き屈辱感を与えてから、地獄の底に突き落とすだけである。
 黒服は霧香に銃を向けながら、ゆっくりと近付いていく。
 霧香の瞳は恐怖で小刻みに震えている。
 そして、黒服が霧香の顔に手を伸ばしたその時。
 霧香はいきなり鋭い目付きで黒服を睨むと、鉄パイプの尻を壁に叩き付ける。
 そして、鉄パイプから発射された銃弾は黒服の胸を居抜いた。
 
 霧香は息絶えた黒服の拳銃を奪い取り、弾倉を引き抜いて残弾数を確認する。弾倉の中身は既に空になっており、残っているのは拳銃本体に残っている1発のみであった。ポケットを探しても予備の弾倉は無く、霧香の持っているベレッタの銃弾では口径が合わない。
 残る敵は2人。
 これでは1人を倒しても、残る1人に殺られてしまうのは明白である。
 霧香は少し考えてから、先程倒した男のベルトにベレッタの弾倉を挟み込み、物陰に隠れた。そして、財布から10円玉を取り出し、部屋の入口に向かって投げた。
 チャリーン。
 コインの響く音に誘われて、残る2人の黒服がやって来る。
 目の前に映ったのは、霧香に倒された仲間の死体だった。
 黒服2人は警戒態勢を取りつつ、仲間の死体へと近付く。霧香が近くに居るのは明白だったからである。
 そして、黒服2人が仲間の死体に最も接近した瞬間。
 物陰から霧香が飛び出して、最後の1発を放つ。
 銃弾はベレッタの弾倉に命中し、黒服の死体を破裂させた。
 突如として巻き上げられる血まみれの肉片が、黒服達の視界を塞ぎ、拳銃にまとわり付く。
 次の瞬間、霧香は猛ダッシュから黒服2人の間をすり抜け、一目散に逃走した。
 「野郎っ、姑息な真似しやがって!」
 黒服の1人が霧香に銃を向ける。
 「よせ。このまま撃てば自滅するのは我々だ。ここはひとまず引き揚げるしかない」
 もう1人の、頭の切れそうな顔をした黒服が制止する。万が一銃身に異物が詰まった状態で撃てば、暴発して自分達が致命傷を負うのは目に見えているからである。
 「でも兄貴、ヤツを逃していいのかよ!」
 「慌てるな。理由は判らんが、ヤツはもう武器は使えない。武器が使えれば、直接我々を撃ってくる筈だからな」
 そして、黒塗りの大型セダンは何処へともなく消えていった。
 
 霧香はそのまま自宅まで走り続けた。
 そして、慌てて家の中に入るとその場で大の字になった。
 荒々しい呼吸の度に大きく上下する胸が、今日の苦闘ぶりを如実に物語っていた。
 (・・・私は・・・奴等と・・・どうやって戦えばいいの?)
 ベレッタを失った今、霧香には「敵」に対抗できる武器は無い。
 今日の様な奇策は二度は通用しないだろう。
 やがて来る絶望的な状況に、霧香の心は押し潰されそうになっていた。
 
 その頃、新一は丁度自宅に帰り付き、着替えを済ませた所だった。
 そして、掃除の時間に咄嗟に拾い上げた、霧香の鞄の中の黒い物体の正体を確かめようとして、ゆっくりとスポーツバッグのジッパーを開ける。
 !!!
 黒い物体を見た瞬間、新一の顔色が変わる。
 拳銃。
 あるいはモデルガンなのかもしれないと思い、新一は中学時代に遊び半分で購入した自分のモデルガンと比べてみる。新一のモデルガンは「本物そっくりによく出来ている」と評判のモデルだったが、本物とおもちゃとの差は余りにも歴然としていた。
 でも、本当に本物なのだろうか?
 新一は霧香の拳銃のセイフティを外し、コッキングして窓の外に銃口を向ける。
 そして、両手でしっかりと構え、ゆっくりとトリガーを引く。
 バァァン!
 大きな音と共に強い反動が新一を襲った。
 霧香は即座に敵を迎撃し、仮に拳銃を奪われても1発しか撃てない様に、拳銃本体に1発だけ弾丸を装填し、弾倉を引き抜いた状態で携帯していた。
 新一が撃ったのはその1発だった。
 轟音に驚いた新一の母が、慌てて階段を駆け登り、新一の部屋の扉を開ける。
 「どうしたの新一。何だか凄い音がしたけど」
 「い、いや、何でもないんだ。ネットサーフィンしてたらいきなりフルボリュームで銃声が響いて・・・俺もすげぇビビったよ」
 「そう、それならいいんだけど、あまり驚かさないでちょうだい」
 
 新一の母が部屋を出ていくと同時に、新一は部屋の入口の鍵を閉め、全ての窓とカーテンを閉めた。そして、新一はベッドに入り、掛け布団の中で恐怖に打ち震えていた。
 1発の銃声が解き明かした霧香の正体。
 それは、自分の命を付け狙う「敵」と闘う戦士だった。
 凛とした表情で辺りを見回すのは、いち早く「敵」の気配を察知する為。
 鞄やポケットに右手を突っ込んでいたのは、いつでも拳銃を撃てるようにする為。
 死と隣り合わせの世界に生きる少女、それが霧香。
 (俺は何も知らない・・・俺は何も見ちゃいない・・・)
 底知れぬ恐怖が支配する中で、新一は必死にそう思い込もうとしていた。


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