『空ばかり見ていた』acte 3


 その翌日から、霧香は学校を休んで自宅に引き篭もっていた。「敵」に対抗できる手段を失った今、下手に外出すれば「敵」に殺られてしまうのは明白だったからである。
 「敵」も住宅街で発砲する訳にはいかないので、自宅に居る限りはとりあえず安全だった。
 しかし、不登校を続けていれば学校側に怪しまれる。
 食料も底を尽き掛けている。
 いずれにしろ、そう遠くない将来に「敵」の前に無防備な我が身を晒さなければならないのは明白だった。
 
 新一は「頭が痛い」と言って1日学校を休んだが、その後は普通に登校を続けていた。
 霧香の拳銃は、霧香と同様に時刻表を繰り抜いた中に入れて常に携帯していた。
 拳銃を廃棄する事も考えてはみた。
 だが、掃除当番の日に新一が霧香の机や鞄の中身を元に戻していたのは、その場に居合わせた皆が知っている。
 拳銃を盗ったのが自分だという事が、霧香にばれる可能性も十分考えられる。
 もしそうなった時に、拳銃を差し出せば万が一にも見逃してくれるかもしれない。
 それが新一が1日考えた末に出した結論だった。
 
 そして、霧香が休み始めてから、4日目の夕方。
 「チッ、今日も動き無しか」
 霧香の家を見張っていた黒服の苛立つ声が、黒塗りのセダンの中に響く。
 「仕方ないだろう。ヤツとて丸腰のまま外出する程、間抜けではあるまい」
 「だが、我々が手をこまねいている間に、ヤツが武器を調達する可能性だってある。そうなればヤツを倒すのは格段に難しくなる」
 「・・・ヤツと接触した、例の小僧を使うか」
 「上からの指令は『秘密裏に霧香を抹殺せよ』ではなかったのか?」
 「フッ。最終的に知っている人間が居なければ済む事だ。ヤツさえ始末出来れば、あんな小僧などどうとでもなる。それよりも、指令の期限が守れなければ俺達が上に消される。手段を選んでいる場合ではない」
 黒服達の肚は決まった。
 
 友達と別れ、ひとり家路に付く新一の直前で、黒塗りのセダンが横向きに急停止する。新一が後ろを振り向くと、もう1台の黒塗りのセダンが横向きに急停止していた。
 そして、2台のセダンから黒服達が飛び出し、瞬く間に新一を取り囲む。
 新一は直感した。
 この黒服連中が、霧香の命を付け狙う「敵」なのだと。
 黒服のひとりが、凄みの聞いた声で新一を脅す。
 「小僧、夕叢霧香という少女は知っているな?」
 新一は額に汗を滲ませて、無言で頷く。
 この場で嘘をつけば、間違い無く消される。
 「一度だけ言う。ノワール、いや夕叢霧香に連絡を入れて、人気の無い場所に呼び出せ。そうすればお前だけは見逃してやる」
 新一は小刻みに震えながら、無言で首を縦に振る。
 
 余りにも人通りが少なく、何故そんな所に置いてあるかも判らない電話ボックスから、新一は霧香の家に電話を入れた。
 「はい、夕叢です」
 「高杉だ。君に渡したいものがある。6時に田丸橋のたもとまで来てほしい」
 「でも、私・・・」
 まずい。
 霧香の呼び出しに失敗すれば、自分が消されるのは火を見るより明らかである。
 ふと、新一は拳銃の事を思い出した。
 拳銃を引き合いに出せば、きっと霧香は来てくれるだろう。
 だが、傍らで聞き耳を立てている黒服達に、拳銃の事を知られても拙い。
 「・・・君に借りた時刻表を返したいんだ」
 新一は咄嗟の思い付きでそう口走った。
 「・・・判ったわ。6時に田丸橋ね」
 霧香もどうやら気が付いてくれた様だ。
 そして、新一は静かに受話器を置いた。
 「フッ、時刻表とは笑わせてくれる。2人で何処かに駆け落ちでもしようってか」
 新一は無言で頷く。
 「夕叢霧香が河川敷に現れたら、時刻表とやらを渡してお前は帰れ。勿論、俺達の事は口外するな。判ったな」
 どうやら、黒服には拳銃の事は知られずに済んだ様である。
 
 新一は河川敷の真ん中で、顔中に汗を浮かべながら霧香の到着を待っていた。
 黒服達は河川敷の茂みの中に潜伏している。
 そして、5時55分。
 あの日と同じ、パーカー姿で霧香はやって来た。
 霧香は無警戒な様子でゆっくりと新一に近付いていく。
 新一は霧香の姿を見て鞄の口を開ける。
 そして、霧香と新一の距離が2メートルにまで詰まったその時。
 霧香と新一を半円形に取り囲む様に、総勢6名の黒服達が銃を構えた姿勢で一斉に立ち上がった。
 新一はその時、黒服達が霧香もろとも自分を葬ろうとしている事に気が付いた。
 いかに霧香が超人的な運動能力を持っていても、この状況下で銃弾を避けるのは到底不可能である。
 (最初から俺を助ける気なんて無かったのか!)
 新一はようやく、自分の愚かさに気が付いた。
 
 そして、黒服達の銃が一斉に火を噴こうとしたその瞬間。
 新一は霧香に飛び掛かり、覆い被さるようにして押し倒した。
 黒服達の銃撃は容赦無く2人を襲った。
 辺りは既に暗くなっている。
 新一は確実に銃弾を食らっている筈だが、霧香の方はどうか判らない。
 だが、仮に仕留め損なったとしても、丸腰の霧香など恐れるに足らない相手である。
 黒服達は勝利を確信し、霧香達に近付いていく。
 パンッ!パンッ!
 2回の銃声と共に、黒服2名が断末魔の叫びを上げて倒れる。
 「バカな・・・何でヤツが銃を・・・」
 次の瞬間、霧香は左腕で新一の身体を払いのけ、同時に横に転がりながら銃を撃つ。
 またひとり、黒服が断末魔の叫びを上げて倒れる。
 霧香に払いのけられて仰向けになった新一は、薄れゆく意識の中で霧香と黒服達の戦闘を眺めていた。
 夜空に霧香の白いパーカーが舞う。
 黒服の銃弾がパーカーを貫く。
 飛び起きた霧香が撃たれたのかと思い、思わず目を背ける新一。
 ドサッ。
 銃声と共に、新一の背後で黒服の倒れる音がした。
 新一が恐る恐る目を開けると、視線の先には左手で拳銃を構える霧香の姿があった。
 霧香は地面を転がりながら拳銃を左手に持ち替え、空いた右手で羽織っていたパーカーを空に投げ上げたのである。
 残る黒服は2人。
 だが、パーカーを利用した霧香の陽動作戦にも掛からず、霧香を中心にして常に90度の位置関係を保ちながら銃を構える彼等は、明らかに今まで倒してきたザコとは格が違う。
 どんな拳銃の名手であっても、一度に2つの標的は撃破できない。
 じわじわと霧香との間合いを詰めて行く黒服達。
 険しい表情でじりじりと後ずさりする霧香。
 誰の目から見ても、霧香が圧倒的に不利な状況に居るのは明らかだった。
 
 2人の黒服を警戒しながら後ずさりする霧香のかかとに何かが当たる。
 それは、霧香が最初に倒した黒服の死体だった。
 もうこれ以上退く事は出来ない。
 まるで申し合わせたかの様に、黒服2人の銃が同時に火を噴く。
 銃声と共に後に倒れ込む霧香。
 遂に、霧香は黒服達の銃弾の前に倒れた。
 
 
 
 ・・・かに見えた。
 
 次の瞬間。
 2つの銃声が同時に響く。
 最後に残っていた黒服2人が、少し時間をおいて前のめりに倒れる。
 それから更に少し時間を置いて、両手に拳銃を持った霧香が上半身を起こした。
 霧香は黒服が引き金を引くと共に後ろに倒れ込み、その時に先に倒した黒服の拳銃を右手で拾い、2つの拳銃で2人の黒服を同時に倒したのである。
 
 霧香は右手の拳銃を黒服の手に戻すと、新一の元に掛け寄った。
 新一が銃弾を受けたのは致命傷に至る部位ではなかった。
 しかし、長時間に及ぶ戦闘の間に、新一は著しい量の血液を失っていた。
 どんな名医をもってしても、もう新一を助ける事は叶わないだろう。
 霧香は意識を失いつつある新一の上半身を抱き起こす。
 
 「霧香ちゃん・・・俺、このまま死ぬのかな・・・」
 新一の問い掛けに、霧香は無言でうつむく。
 「そうか・・・」
 元々感情表現が下手な霧香の様子を見て、新一はもう、自分の命があと僅かで尽きる事を悟った。
 「ずっと・・・見てたよ。凄いんだね・・・霧香ちゃんて」
 「そんな事・・・ないよ・・・」
 霧香は新一の肩に手を回し、自分の身体の方へと抱き寄せる。
 新一の頭が霧香の胸に触れる。
 普通の女の子と同じ、ふんわりとした柔らかな感触。
 その柔らかな感触の中から、霧香の心臓の激しい鼓動が新一にも伝わって来る。
 その時、新一は初めて気が付いた。
 霧香も普通の女の子に過ぎないのだと。
 どんなに優れた運動能力を持っていても、どんなに優秀な射撃の腕を持っていても、屈強な大男と命を賭けて闘うのは恐怖以外の何物でもない。
 新一はそんな恐怖に震える霧香の心の奥底を見たような気がした。
 
 新一の視界が、次第にぼやけてきた。
 ついに来るべきものが来た、と新一は悟った。
 不思議な事に、新一はその事に恐怖を感じなかった。
 しかし、新一は霧香に伝えなければならない事があった。
 「・・・霧香ちゃん・・・ひとつ尋ねていいかい・・・」
 コクッ、と霧香は小さく頷く。
 「奴等は・・・霧香ちゃんの事を『ノワール』と呼んでいた・・・『ノワール』とは一体・・・」
 「私が『ノワール』・・・・」
 霧香は無言で首を横に振る。
 「・・・・判らないのか・・・・ならいいんだ・・・」
 次の瞬間、新一は「ウッ!」という短い叫び声と共に表情を歪める。
 いよいよ、最期の時が現実のものとしてやって来たのである。
 その様子を見て心配そうな表情をする霧香。もはや手遅れだと判っていても、人間の感情はそう簡単には割り切れない。そんな霧香の様子を見て、新一は少し悲しい表情で呟く。
 「・・・頼む・・・・そんな顔しないでくれ・・・・笑顔を見せてくれ・・・」
 霧香は自分の感情を噛み殺し、必死に笑顔を浮かべる。
 新一は霧香の表情を見て、妙に落ち付いた表情になる。
 「・・・・ありがとう・・・・」
 その霧香の笑顔が、新一がこの世で見た最後の光景となった。
 
 遠くで赤い光が点滅し、サイレンの音が響く。
 誰かが銃声を聞きつけて、警察に通報したのだろう。
 霧香は新一をゆっくりと地面に寝かせ、薄汚れたパーカーを羽織って静かにその場を後にした。
 
 自宅までの帰り道。
 星空を見ながら、霧香は思う。
 「夕叢霧香」としてこの街に引っ越してきてから3ヶ月。
 何故黒服達と闘わなければならないのか?
 『ノワール』が自分なのだとしたら、自分は一体何なのだろうか?
 幾ら考えても判らなかったこれらの事に対して、答えを出したいという衝動が霧香の中で芽生え始めた。
 
 
 
 霧香がミレイユと出会うのは、それから3ヶ月後の事である。
 

(おわり)


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