『空ばかり見ていた』acte 1


 ある日の昼休み。
 霧香はいつもの様に、屋上でひとり空を眺めながら、小さなおにぎりを口に運んでいた。
 この学校に転校してから、霧香はずっとそんな風に昼休みを過ごしていた。
 第4時限の終了と共に鞄を持って姿を消し、第5時限の開始直前に再び教室に戻る。
 昼休みの間、霧香が何処で何をやっているのか、何故わざわざ鞄を持って行くのか、誰も知る者は居なかった。
 
 霧香が2つ目のおにぎりを口にしようとしたその時。
 雲が流れ、一瞬陽射しが遮られる。
 それと同時に感じ取れる、微かな人の気配。
 霧香は咄嗟におにぎりを投げ捨て、鞄の中に右手を突っ込む。
 そして、凛とした表情で辺りを見回す。
 
 パシャ!
 突然のシャッター音に意表を突かれる霧香。
 「こんな所で逢うなんて奇遇だね、夕叢さん」
 霧香の目の前に現れたのは、高価そうな一眼レフを構えた男子生徒だった。
 いつものぼーっとした表情に戻った霧香は、ゆっくりと鞄から右手を出す。
 「・・・高杉君」
 高杉新一。
 霧香のクラスメイトである。
 
 新一はカメラを構えたまま、霧香が投げ捨てたおにぎりの所へ歩み寄る。おにぎりは鉄柵にぶつかり、粉々に砕け散っていた。
 「何だか随分びっくりした様子だったけど、一体どうしたの?」
 「・・・え?」
 「いきなりおにぎりを投げ捨ててこっちを睨むもんだから、何があったのかと思ったよ」
 「・・・あまりにも突然だったから・・・ごめんなさい」
 「でも、そのおかげでいい絵が撮れたよ。普段はボーっとしている様にしか見えないけど、夕叢さんもあんな表情(かお)するんだね」
 しまった。
 霧香にとって「凛とした表情」は、あくまで戦闘用のものだった。
 いつ襲って来るかも知れぬ「敵」の襲来を迅速に察知するには、僅かな環境の変化を逃さぬ様、精神を集中させていなければならない。
 だが、女子高生として学校に通っている以上、クラスメイトに「敵」の存在を知られる訳にはいかない。もし「敵」の存在を知られたなら、学校がとんでもないパニック状態に陥るのは必至である。
 その為、クラスメイトの前では「いつでもボーっとしている霧香」でなくてはならない。
 霧香もその事は十分熟知していたが、まさか写真を撮られるとは予想すらしていなかった。
 
 霧香は黙り込み、今にも泣き出しそうな表情でうつむいていた。
 「い、いや、別にいいんだ」
 慌ててフォローする新一。
 「誰だって不意を突かれれば、自分でもよく判らない反応をしてしまうからね」
 「・・・・そうだね」
 霧香は小さく頷きながら、か細い声で新一の呼びかけに答えた。
 「じゃ、俺メシ食いに行って来るから。じゃあね、夕叢さん」
 新一はそう言うと、足早に昇降口へと向かっていった。
 
 その日の放課後。
 新一は写真部の暗室で、今日撮影したフィルムを現像し、印画紙に焼き付けを行っていた。
 焼き付けしていたのは霧香の写真だった。
 霧香が一瞬見せた「凛とした表情」が忘れられなかったからであるが、見事に焼き上がったその写真を見て、新一は妙な事に気が付いた。
 (夕叢さんは何故、鞄に右手を突っ込んでいるのだろう?)
 不意を突かれて戸惑うのは判らなくもない。
 しかし、この右手の先にあるものは一体何なのだろう?
 新一の中に、霧香の不可解な行動の謎を解いてみたいという気持ちが生まれていた。
 
 翌日は土曜日。学校も休みである。
 霧香はパーカー姿で田丸橋のたもとの河川敷に寝転んで、ボーっとした表情で空を眺めていた。田丸橋というのは霧香の自宅と学校との中間地点に当たる古い橋である。田丸橋近辺には小さな工業団地があったが、不況の影響で倒産や撤退が相次ぎ、今や廃工場や骨組だけのビルが立ち並ぶ廃墟と化している。
 そんな場所だから人通りも極端に少なかった。
 だだっ広い河川敷には、霧香の他には誰も居なかった。
 
 田丸橋の上で、何かが光った。
 霧香は寝転んだ姿勢からいきなり飛び込み前転し、その勢いを利用して立ち上がる。橋の上に居る男が、逆光でよく判らないが何かを構えて霧香の方を見ていたからである。霧香は右手をパーカーのポケットに突っ込み、凛とした表情で橋の上を睨む。
 橋の上の男は構えていた何かを下ろし、無警戒な姿勢で霧香に歩み寄る。
 「こんな所で会うなんて奇遇だね、夕叢さん」
 橋の上の男は新一だった。
 「今日は天気もいいし、写真撮って歩こうと思っていたら、いきなり夕叢さんが寝ていたんでびっくりしたよ」
 「・・・・・」
 「ま、今日みたいな日には、のんびり昼寝というのもいいもんだね」
 「・・・・そうだね」
 新一は霧香の人間離れした俊敏な動作については敢えて触れなかった。実は400ミリの超望遠レンズとカメラの連写機能とで、寝転んだ霧香が立ち上がるまでの一部始終を撮影していたのだが、その事を口にすれば霧香が落ち込むのは明らかだったからである。
 
 2人は河川敷に座ったまま、流れる雲を目で追っていた。
 「夕叢さんはいつも、休みの日はこんな風に過ごしているのかい?」
 「・・・うん」
 新一の問い掛けに霧香は小さく頷く。
 「空ばかり見ていて、よく退屈しないね」
 「・・・・・」
 視線を落として黙り込む霧香を見て、新一は何とか気分を盛り上げようと考えを巡らす。
 「そうだ。ちょっと俺に付き合ってくれるかい、夕叢さん」
 「え?」
 新一は霧香の右手を握ると、勢い良く立ち上がり急ぎ足で歩き始める。霧香は新一に手を引っ張られたまま、新一の後をついて行く。
 そして、新一に連れられるまま、電車に揺られる事約20分。
 2人が降り立ったのはテーマパークのある駅だった。
 
 新一は入場券とアトラクションの回数券を購入して、霧香に手渡す。
 「・・・・ごめんね・・・お金出させちゃって」
 「気にするなよ。バイト代も入ったし、そもそも俺が言い出した事なんだから。それよりも、今日はしっかり楽しもうよ」
 「・・・・うん」
 新一が最初に案内したのは、サンダードラゴンという名のジェットコースターだった。最高時速100キロで疾走し、きりもみ回転しながら50メートルの高さにまで登っていく凄まじいスリル感に、大抵の女性は勿論、男性でも絶叫せずには居られない程であった。
 「コイツはとてもスリルがあって面白いんだ」
 「・・・そうなの?」
 「もし怖かったら思いきり叫んでもいいんだよ。皆そうしているから」
 そして、霧香と新一、他十数名の客を乗せてサンダードラゴンは動き始める。
 キャァーッ!
 ウワァーッ!
 新一を含め、他の客の絶叫がこだまする。
 しかし、霧香だけは平然とした顔をしていた。
 
 そして、サンダードラゴンは停車場に戻って来た。
 「すごいね夕叢さん。あのサンダードラゴンで絶叫ひとつ上げないなんて」
 時速100キロもきりもみ回転も、霧香にとってはどうという事はなかった。他の人が何故こんなにも怖がるのか、霧香には全く理解出来なかった。
 「・・・景色が凄いスピードで流れて・・・面白かったよ」
 (やはり・・・この娘は何か違う)
 屋上や河川敷で抱いた霧香への興味が、新一の中でますます膨らんで行く。
 
 新一が次に案内したのは、トップガンナーという体感3Dシューティングゲームだった。プレイヤーは戦闘機の射撃手(ガンナー)となり、宇宙から迫り来る100機の敵戦闘機を撃破するという、ごくありがちなゲームである。
 ただ、トップガンナーでは、各プレイヤーが着用する液晶ゴーグルのそれぞれに異なる映像が写し出されている。具体的には、プレイヤーAが撃破した戦闘機が、プレイヤーBから見れば無事に飛んでいるといった具合である。その為、プレイヤー全員がそれぞれ100機の敵戦闘機を迎撃する事になる為、「より多くの戦闘機をより少ない弾数で倒す」事を競うゲーマー達で活況を呈していた。
 「・・・これ・・・どうすればいいの?」
 「敵の戦闘機が真ん中の四角に入る様に操縦桿を動かして、四角が赤く光ったら撃つんだ。ま、初めてだったら30機撃墜出来れば上出来かな」
 「・・・高杉君は・・・どうなの?」
 「その日の調子にもよるけど、大体70機から80機くらいかな。トップガンナーを取った事だってあるんだぜ」
 ガイド役のお姉さんの指示で、霧香は7番シート、新一は8番シートに着席する。
 そして筐体が揺れ、ゲームがスタートする。
 開始からほんの数秒で、霧香は照準を動かす感覚を掴んだ。
 そして、所狭しと飛び交う敵戦闘機を極めて正確な射撃で撃ち落す。
 隣の様子は判らないが、新一がガシャガシャと激しく操縦桿を動かす音が聞こえてきた。
 霧香の操縦桿からは殆ど音はしなかった。
 
 ゲーム終了。
 各プレイヤーがコクピットから表に出ると、8分割画面で各自が液晶ゴーグルで見た画面がリプレイ映像に映し出される。
 少しすると、プレイヤー全員が右端上のリプレイ映像に視線を浴びせていた。
 シート全体が激しく揺れているにも関わらず、右端上のリプレイ画像だけは無駄の無い動きで敵機を捉え、確実に撃破していく。
 そして、リプレイ画像が終了し、戦績が表示される。
 「No.7 Shots:100 Marks:100」
 霧香以外の全員から驚嘆の声が上がった。ガイド役のお姉さんも、唖然とした表情で口を開けていた。
 100発の発射で100機全機を撃墜。
 いくらゲームとはいえ、とても人間業とは思えない驚異的な記録である。
 (この娘には絶対、何かある!)
 照れ臭そうにトップガンナーのバッジを受け取る霧香を見て、新一は今まで以上に霧香への興味を膨らませていた。
 
 その後は適当なアトラクションを幾つか回り、日も落ちてきたので帰る事にした。
 「・・・ありがとう・・・今日は面白かったわ」
 「たまにはああいう遊びもいいもんだろ?」
 「・・・うん」
 霧香は精一杯の笑顔を作って、新一の問い掛けに答えた。
 
 霧香と別れた後、新一は学校へ寄り、今日撮影したフィルムを現像して帰宅した。
 そして、自分の部屋でネガフィルムを眺める。
 !!!
 そこには新一自身も気付かなかった、霧香の驚嘆すべき行動が映されていた。
 霧香は前転していたのではなく、左腕一本で側転していたのである。それもただの側転ではなく、終始田丸橋の側を睨み、パーカーのポケットに右手を入れながら側転していたのである。
 行動開始から立ち上がるまでに要した時間は2秒弱。
 とても普通の女の子に出来る行動ではない。
 
 ネガフィルムを何度も見返しているうち、新一は自分がある衝動に駆られているという事に気が付いた。
 霧香を包む秘密のヴェールを、自らの手で剥ぎ取っていきたいという衝動にである。
 今にして思えば、霧香をサンダードラゴンやトップガンナーに案内したのも、霧香の本性を知りたいという気持ちの顕れだった。
 普段は猫を被っているとしか思えない霧香の、本当の姿を見たい。
 学校の屋上で霧香を見掛けてから、新一がずっと抱いていた漠然とした思いが、「霧香の秘密を暴く」という明確な目的へと変貌したのである。


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