『痛ましい記憶』 acte 3


 霧香は額に汗を浮かべながら、ミレイユと対峙していた。
 双方の距離は15メートル。ミレイユの腕前なら絶対に外さない距離である。
 しかも、霧香の拳銃はポケットの中にある。拳銃に手を伸ばそうとすれば、即座にミレイユに撃たれてしまうだろう。
 霧香はミレイユの右腕を見つめながら、右足を引いて半身に構える。
 そして、ミレイユの服の袖口が微動した瞬間、右足のつま先に引っ掛けていた小石をミレイユに向かって蹴り出す。
 バァーン!
 「痛っ!」
 ミレイユの銃弾は霧香の右腕をかすめた。霧香が蹴った小石を回避しようとする反射的な行動が、僅かに照準を狂わせたのである。
 霧香はそのままダッシュして廃ビルに逃げ込んだ。
 ミレイユも霧香の後を追って廃ビルに入った。
 
 2人が廃ビルに入って直ぐに、高層ビルの入口からベルレーヌが側近を連れて現れた。
 「フフフ・・・いつまで最強の刺客の攻撃をかわせるかしら、夕叢霧香」
 「さすがはベルレーヌ様、見事なお手並みで」
 「でも、霧香を始末した後のミレイユはどうするんですか?」
 「心配には及びません。ミレイユは人一倍プライドの高い女。自らの手でパートナーを葬ったと判れば、ミレイユは自滅への道を歩むでしょう」
 「もしミレイユが自滅しなかったら?」
 「私達が引導を渡してやるまでです。残党共や霧香と闘って体力も弾薬も消耗し尽くしたミレイユなど、私達の敵ではありません」
 「麻薬部会の残党共が全滅し、憎きアルテナがこの世に遺したノワールが消える・・・新しい夜明けがもう直ぐ来るのですね」
 「そして、各派閥に送り込んだ使者達が内部から組織を崩壊させ、いずれはソルダの全てが新修道女会のものとなる・・・なんて素晴らしい未来なのでしょう」
 ベルレーヌと側近達の表情は喜びに満ち溢れていた。
 
☆★☆★☆
 
 ミレイユは廃ビルに入ると、じっと耳を済ませて周囲の様子を窺っていた。
 そして、突然何も無い場所に向かって発砲し、直ちにその場を離れた。
 「あうっ!」
 ミレイユの銃弾は「何も無い場所に走り込んで来た」霧香の左肩をかすめた。
 霧香も反撃するものの、銃弾が窓ガラスを割る音だけが空しく響く。
 銃弾を放ったのがミレイユである事は間違い無い。
 だが、霧香の視界には一瞬たりともミレイユの姿は入っていない。
 霧香は上の階へ逃げ、扉の陰で身を潜める。
 そして、扉の僅かな隙間から周囲の気配を窺う。
 「!」
 軽い衝撃波と共に、霧香の前髪の一部が千切れて舞う。
 霧香があと5センチ顔を出していたら、銃弾はこめかみを貫いていた筈である。
 (そんな・・・何故私の居場所が判るの?)
 麻薬部会の100人を相手にした時よりも遥かに大きな恐怖を、霧香はミレイユに対して感じていた。
 
 ミレイユは西側の階段に身を潜めていた。
 少しして、何を思ったのか、長い廊下の突き当たりにある東側の階段に向けて発砲する。
 そして、霧香はまたも銃弾の弾道に姿を現した。
 「うわっ!」
 ミレイユの銃弾は霧香の右腿をかすめた。
 霧香は階段の踊り場にうずくまり、右腿を襲った激痛に歯を食いしばって耐えていた。
 ミレイユは明らかに、自分の位置や行動を把握した上で発砲している。
 霧香の背筋に寒いものが走った。
 (これが、ミレイユの真の実力なの・・・)
 かつて荘園で霧香がミレイユと闘った時、ミレイユは霧香の位置を正確に読む事で、狂戦士と化した霧香の攻撃をことごとく退けた。終いには門の裏に霧香が潜んでいる事を読み切った上で懐中時計を放り投げ、霧香に自我を取り戻させるという行動にも出た。
 今、そのミレイユの恐ろしいまでの「読み」が、霧香の目の前に大きな脅威となって立ちはだかっていた。
 このままではいずれ、ミレイユの銃弾の餌食となってしまうだろう。
 かと言って、姿の見えないミレイユに攻撃を仕掛けても全く意味が無い。
 一体どうすれば良いのか?
 最強の刺客・ミレイユの前に、霧香は生涯最大のピンチを迎えていた。
 
☆★☆★☆
 
 霧香は右脚の痛みに耐えながら、廃ビルの5階へと上がって行った。
 5階は他のフロアと異なり、フロア全体がまるまる1部屋となっている。東西の階段の中間に一つだけ存在する扉を開けない限りは中へは入れないので、死角から狙撃される可能性は限り無くゼロに近い。先程までの男達との戦闘で知り得た知識を活かしての行動であった。
 更に、霧香は扉とは反対側の窓際に背中を寄せ、扉に神経を集中していた。
 ここなら万に一つもミレイユに先手を取られる事は無い。
 男達との戦闘で割られた左右の窓からは時々ビル風が入り、色褪せたカーテンをフワッと宙に舞わせていた。
 
 霧香が5階で息を潜めてから数分後の事だった。
 突然、霧香の背後を照らす月明かりがフッと暗くなる。
 思わず振り返った霧香の視線の先には、何とミレイユの姿があった!
 ミレイユはロープにぶら下がりながら、窓ガラスを蹴破ってフロアへ入って来た。そして、霧香のベレッタを左の手刀で叩き落し、霧香の腹部に膝蹴りを叩き込んだ。膝蹴りの反動で、霧香の小さな身体が宙に舞い、床に落ちて転げた。
 「ううっ・・・くっ・・・」
 霧香は激しく痛む腹を押さえながら、ミレイユに視線を向けた。
 月明かりに照らされたミレイユの禍禍しい表情を見た時、霧香はミレイユに何が起こったのか、ようやく知る事が出来た。
 
 ミレイユはポケットからワルサーを取り出し、銃口を霧香に向けた。
 「お願いミレイユ!正気に戻って!」
 「フッ・・・私から両親と兄を奪ったお前が、この期に及んで命乞いとは何とも滑稽ね」
 「ミレイユ!」
 「今すぐ地獄へ落としてあげるわ」
 ミレイユはトリガーにゆっくりと力を込める。
 大きなダメージを負った今の霧香には、ミレイユに殺されるのを待つ以外に何も出来なかった。
 ・・・カシャン。
 ミレイユの拳銃には一発の弾丸も残っていなかった。
 絶体絶命の霧香は、ギリギリの所で九死に一生を得た。
 
 だが、それで終わった訳ではなかった。
 ミレイユは残弾の無い拳銃を放り出すと、霧香の腹の上に馬乗りになり、両手で霧香の首を絞め始めた。
 「ああっ・・・」
 霧香も必死に抵抗を試みるが、腕力ではとてもミレイユには歯が立たない。
 頚動脈と気管にミレイユの指が食い込み、段々と意識が遠のいていく。
 同時に、ミレイユの両腕を制止していた両手の力も弱まっていく。
 「フッ、ようやく観念する気になったらしいわね」
 
 あるいはこれが、自分が待ち望んだ結末なのかもしれない。
 薄れゆく意識の中で、霧香はそんな事を考えていた。
 いくら真のパートナーとして打ち解けたとはいえ、ミレイユの両親と兄を殺したのが、他ならぬ霧香自身であるという事実は変えようが無い。
 かつてミレイユの銃口の前に身体を投げ出した時、ミレイユがトリガーを引いていれば、自分が今ここに居る事も無かっただろう。
 苦しげな霧香の呼吸が次第に弱まっていく。
 最期の時はもう、すぐ近くにまで迫っていた。
 
☆★☆★☆
 
 (霧香・・・・・霧香・・・・・)
 濃霧の向こうで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
 霧香は一歩一歩、濃霧の中の人影に近付いていく。
 やがて、霧の中から一人の女性が姿を見せる。
 霧香と同じ、紫がかった黒髪に鳶色の瞳をした、幸薄そうな女性。
 その女性はゆっくりと霧香に語り掛けた。
 (ここはあなたの来る場所ではありません。早くお帰りなさい)
 (でも、もう私には・・・)
 (・・・それでは少しだけ、私がお手伝いしてあげます。早く自分の場所にお帰りなさい、霧香・・・・・)
 (あなたは・・・誰?)
 (・・・・・)
 女性は霧香の問い掛けには答えず、再び濃霧の彼方へと消えて行った。
 
☆★☆★☆
 
 霧香の両手がミレイユの腕から滑り落ちた。
 もう、霧香にはミレイユを制止する力は残っていない。
 ミレイユが霧香に止めを刺さんとばかりに、両手に更なる力を込めようとしたその時だった。
 
 一際強いビル風がカーテンを高々と舞い上げ、反動で窓際にある小さな植木鉢を落とした。
 
 ガシャン!
 植木鉢は床に衝突して粉々に砕け散った。
 
 その瞬間、ミレイユは我に返った。
 そして、霧香の首を絞めていた両手を咄嗟に離し、自分の掌を見ながら身体を大きく震わせていた。
 霧香は気を失ったまま、ピクリとも動かない。
 もしかしたら、霧香は死んでしまったかもしれない。
 一緒に辛く厳しい闘いを乗り越え、ようやく心を通わせたパートナーを、自らの手で葬ってしまったという罪悪感がミレイユを苛む。
 「うわあああぁっ!!!」
 ミレイユはその場に仁王立ちになり、髪の毛を振り乱しながら大声を上げて泣き叫んだ。


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