『痛ましい記憶』 acte 2


 地平線の彼方に夕陽が完全に隠れた頃、"Salon de Fleur"の前にショッキングピンクにペイントされた小さなワゴン車が停車する。そして、少し間を置いて運転席からハニーブロンドの美女が降り、店内へと入って行った。
 「ようやく配達終わったわ、霧香」
 「お疲れ様、ミレイユ」
 霧香は入口に閉店を示す札を掛けると、店の奥にある控え室に入ってコーヒーを淹れ始めた。
 「うーん、いい香り・・・ようやく一心地付いたって感じだわ」
 「今日はベルモントさん所への配達があったから、大変だったでしょ?」
 「どうして資産家ってあんな不便な所に屋敷を構えるのかしらね」
 2人はコーヒーを飲みながら他愛の無い会話を交わす。別にどうという事の無い光景だが、血生臭い世界で生きてきた2人にとっては、この上無く心安らぐ時間であった。
 
 その時。
 異様なまでに野太いエンジン音が迫って来るのを、霧香とミレイユは感じ取っていた。
 ここは危ない。
 そう直感した霧香とミレイユは、咄嗟に店の奥へと駆け込んだ。
 ドガッ! ガシャガシャッ!
 猛スピードで走って来た大型トラックはその巨体でワゴン車を押し潰し、スクラップと化したワゴン車ごと店の入口を突き破り、店内を踏み荒らしながらシャワールームの壁を破壊した所でようやく停止した。
 
 2人は店の裏口から、間一髪で脱出に成功した。
 「遂に、奴等が仕掛けて来たわね」
 「そのようね」
 2人は拳銃をポケットから取り出し、店名の入ったエプロンを脱ぎ捨てた。
 いつかは闘わなければならない敵がやって来た。
 ただそれだけの事であった。
 
 辺りはすっかり暗くなっていた。
 ベルレーヌに扇動された麻薬部会の男性幹部達は、急遽パリに居る『兵隊』を総動員して、直ちにノワール討伐を実行に移したのである。
 頻繁に銃声がこだまする中、霧香とミレイユは老朽化した廃ビルに逃げ込んだ。そして、ビルの影で息を潜めながら、周囲の様子を窺っていた。
 「少なく見積もっても敵は100人以上。キツイ闘いになりそうね」
 「手持ちのマガジンだけではとても足りないわ」
 「弾を取りに行く訳にいかない以上、敵の武器を奪って闘う以外にないわね。敵の人数も多い事だし、二手に分かれましょう」
 「判ったわ」
 
 ベルレーヌは廃ビルの隣に有る高層ビルの一室から、廃ビルの周囲に飛び交う銃弾の軌跡を眺めていた。
 「遂に始まったわね」
 麻薬部会の兵隊達の戦闘スキルは、かつてノワールを襲撃した『騎士』とは比べものにならない位に低かった。一応射撃訓練は受けている様だが、人影を見た途端に闇雲に乱射するといった手合いが大半を占めていた為、一発で仕留めて拳銃を奪う事自体はさほど難しくはなかった。
 だが、いくら相手がザコの寄せ集めであっても、100名以上を敵に回して闘うのはさすがに辛いものがあった。兵隊達から奪った拳銃は精度が低く、武器としては大して役に立たなかった。また、敵が多い事で回避行動を取る機会も必然的に多くなり、体力の消耗度も通常の戦闘と比べて遥かに高くなっていた。更には「幾ら敵を倒しても次々と新たな敵が襲って来る」という、精神的な重圧感もあった。
 
 そんな状況下でも、敵を倒し続ければ終わりは必ずやって来る。
 戦闘開始から1時間も過ぎると、飛び交う銃声は最初の頃の半分以下に減少していた。
 その様子を見て、ベルレーヌの側近達が口々に感想を漏らした。。
 「さすがはノワール・・・麻薬部会の男共では荷が重過ぎたか」
 「この調子でいけば、ノワールが男共を一掃してくれる。しかし、これではみすみすノワールを取り逃してしまう・・・」
 不安を表情に出す側近達に、ベルレーヌは妖しげな微笑をたたえて語り掛けた。
 「心配は要りません。ノワールに対しては、ちゃんと最強の刺客を差し向ける手立てを考えています。そろそろ準備を始めましょうか」
 ベルレーヌと側近達は、高層ビルの一室を後にした。
 
☆★☆★☆
 
 戦闘開始から2時間後。
 ようやく廃ビルの周りが静けさを取り戻した。
 霧香もミレイユも、大きく肩で息をするほど疲れきっていた。
 まだ敵が潜んでいる可能性が無い訳ではないが、殆どの敵を倒した今、敵を全滅させるまで闘うよりも、この廃ビルの周辺から離脱する方が遥かに安全である。
 霧香は正面から、ミレイユは裏口から、相棒と落ち合うべくビルの外に出た。
 
 ジャキッ!
 突然、ミレイユの両側からサブマシンガンを構える音が響く。
 そして、廃ビルから高層ビルへと向かって、サブマシンガンの銃弾がばら撒かれる。
 ミレイユは銃弾に追いたてられる様にして、高層ビルの中へと入っていく。
 今度はミレイユの右側から左側に向かってサブマシンガンが乱射される。
 サブマシンガンの銃弾が、正面入口のガラスに無数の弾痕を残す。
 一体何処へ逃げれば良いのか?
 周囲を見渡すと、警備室の扉が僅かに開いているのが判った。
 ミレイユは銃弾を避ける為に警備室へと飛び込んだ。
 
 警備室の中は一条の光も差さない、真の暗闇と言える状態だった。
 ガシャッ!
 警備室の扉がオートクローザーで閉じられる。
 ミレイユは反射的に扉に掛け寄ってドアノブを回そうとするが、ドアノブは何者かに壊れていた。これではどうあがいても、中から開ける事は不可能である。
 (罠・・・・)
 自分の目前にかざした掌さえ見えない暗闇の中で、ミレイユは必死に周囲の気配を感じ取ろうとした。
 
 突然、ミレイユは脳幹を揺さぶられる様な激しい不快感を覚えた。
 周囲には何一つ物音はしていない。
 だが、ミレイユは床に膝を突き、両手で頭を抱えていた。
 まるでとてつもなく恐ろしい何かに遭遇したかの様に、ミレイユの心臓の鼓動は異様に高まり、その表情は恐怖で引き攣っていた。
 そして、ミレイユは真の暗闇の中に、父と、母と、兄の姿を見た。
 襲撃事件当時の姿のままで、父と母と兄はミレイユに語り掛けて来た。
 (ミレイユ・・・どうしてお前は、私達の敵を討ってくれないんだ?)
 (黒幕のアルテナは倒した。もう敵なんて居ないわ)
 (嘘だ。僕達を殺した奴は未だに生きているじゃないか!)
 (それは・・・)
 (私達の魂は天に召される事無く、今でもこうして地上をさまよっています。それもこれも、あなたが私達の敵を討つのに躊躇しているからです。ああ、何て事でしょう・・・)
 (うっ・・・)
 (私達はお前が敵を討ってくれると信じている。お前の力ならきっと出来る。頼んだよ、ミレイユ・・・)
 (・・・・・)
 
 ・・・それから少し時間を置いて、警備室の扉がゆっくりと開いた。
 ミレイユは扉が開いたのを確認すると、スッと立ち上がって警備室を後にし、ビルの外に出た。
 
☆★☆★☆
 
 その頃霧香は、ミレイユを探して廃ビルの周りを歩いていた。
 敵の気配は全く無かった。
 後はミレイユを見付けて、この物騒な場所から一刻も早く離脱するのみである。
 
 霧香が廃ビルの周りを1周半すると、高層ビルの方からミレイユが出て来るのが見えた。
 「ミレイユ!」
 ミレイユの姿を見つけるや否や、ミレイユに声を掛ける霧香。
 霧香に気付いたミレイユが、チラッと霧香の方に視線を送る。
 !
 小走りにミレイユに近付こうとした霧香の足が止まる。霧香の呼び掛けに対して、ミレイユが何の反応も示さなかったからである。
 「・・・ミレイユ・・・一体どうしたのよ?」
 「死ね」
 ミレイユは寒気がする程に凶悪な表情を浮かべながら、ワルサーの銃口を霧香に向けた。


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