『痛ましい記憶』 acte 1


 荘園での死闘から半年が過ぎた。
 霧香とミレイユは相変わらずパリ市内に住んでいたが、その生活は大きく変わっていた。
 2人は『ノワール』の名を捨て、全く別のコードネームで暗殺代行業を請け負っていた。仕事は以前の半分以下に減少し、仕事の内容も2人のスキルからすれば、片手間と言えるレベルに過ぎないものばかりだった。
 荘園での死闘の後、霧香とミレイユの中では、血生臭い世界から早く脱却したいという思いが日増しに強くなっていった。だが、依然としてソルダが自分達を狙っているという現状を踏まえると、即座に暗殺代行業を辞める訳にもいかなかった。
 そこで、2人は暗殺代行業から徐々に手を引く為に、負傷による暗殺スキルの低下を口実にコードネームを変更し、難易度の高いミッションは依頼拒否する様にしたのである。
 
 また、2人は暗殺代行業に取って代わる仕事として、アパルトマンから歩いて3分程の場所にある小さな店舗を借りて花屋を始めた。店の名は"Salon de Fleur"と言う、ごくありふれた名前である。仕入れや配達はミレイユが行い、車の運転が出来ない霧香は店番をしながら花の手入れを行っていた。
 花屋を始めた当初、ミレイユは「霧香に接客が務まるだろうか?」と心配していた。元々感情表現に乏しい霧香なだけに、無愛想な表情で接客し、客に不快感を与えるのではないかという懸念があった。
 しかし、ミレイユの心配は杞憂に過ぎなかった。
 花屋を開いてから1週間後、ミレイユは霧香の様子を見る為に1つ先の路地に車を停め、オペラグラスを使って店の様子を眺めていた。
 オペラグラスの視線の先には、明るい笑顔で接客をしている霧香の姿があった。
 (どうやら私の取り越し苦労だった様ね)
 思い当たる節が無い訳ではなかった。荘園から戻って以来、霧香は美味しい物を食べると素直に嬉しそうな顔をするようになった。一緒に映画を見に行った時にも、霧香は悲惨な目に遭うヒロインに共感して涙を浮かべていた。ただ、変化のスピードが緩やかだった為、ミレイユの頭の中からは「感情表現に乏しい」という先入観が抜け切らなかったのである。
 ミレイユはホッとした表情で、車に戻った。
 
☆★☆★☆
 
 「あれからもう半年か・・・」
 夕暮れの光に染められた洋館の一室で、グレイファードは窓から外の様子を見ながら、ブランデー片手に一言呟いた。
 「よもや我々が、同朋同士の殺し合いに明け暮れるとは思ってもいなかった。これもお前が用意したシナリオだったのか・・・アルテナ・・・」
 荘園での死闘で、修道女会はアルテナ・ボルヌ・マレンヌといった最高幹部達をことごとく失った。そして、求心力を失った修道女会は四散し、他の派閥に飲み込まれていったのである。他の派閥の共通の敵であった修道女会が消滅した事で、ソルダの組織内部は平静を取り戻すというのが、最高評議会の共通認識であった。
 
 しかし、最高評議会の思惑とは裏腹に、修道女会の消滅はソルダに新たな内紛をもたらした。
 修道女会消滅後、修道女会が所有していた資産は各派閥の構成員に比例して分配する決まりになっていたのだが、元々は力の弱い派閥である麻薬部会が旧修道女会のメンバーを積極的に引き入れ、構成員の数を増やすという行動に出た。そんな麻薬部会の行動を、他の派閥の幹部達は一斉に非難したが、実際には他の派閥も麻薬部会と同様に旧修道女会のメンバー引き入れを行い、構成員の水増しを行っていたのである。
 また、一部の会員によって、修道女会の資産が不正に利用された事も明らかになった。原初ソルダの精神を受け継ぐ派閥である筈の修道女会の中にも、支援者達の寄付金をピンハネしたり、修道女会が所有していた土地を第三者にこっそり譲渡して分け前をせしめるなど、私腹を肥やす事にのみ精を出す者が少なからず存在した。酷いのになると、地域支部の資産総額の数倍もの金を有している者さえ居た。麻薬部会に旧修道女会のメンバーが大勢参入したのも、彼女達が有り余る資金力を利用して、元々組織力の弱かった麻薬部会の要職に就いた事が原因であった。
 
 それらの事実が発覚するや否や、修道女会打倒の為に築いた各派閥間の同盟関係は一気に崩壊した。
 現在のソルダにおいては財力と権力こそが派閥の力である。旧修道女会のメンバーを大勢引き入れた麻薬部会は、財力にものを言わせて他の派閥が有しているソルダ内部の利権を奪い取ろうとした。
 そんな麻薬部会の行動に対して、各派閥の対応がまちまちだった事も、同盟関係を崩壊させる大きな要因となった。徹底交戦を主張する派閥、戦況を見て有利な方に加勢しようとする派閥、自らは参戦せずに漁夫の利を狙おうとする派閥・・・各派閥の思惑が交錯した挙句、導き出された結論は「他派閥=敵」という、極めて単純な図式であった。
 かくして、ソルダ内部の覇権を巡って、各派閥が血で血を洗う抗争が始まったのである。
 
 不意に、グレイファードはノワールの事を思い出した。
 「これで終わりだと思うな」
 荘園本館前で、重傷を負った霧香と満身創痍のミレイユにブレフォールが投げ掛けた言葉である。
 だが、現実にはその言葉とは裏腹に、この半年間ソルダがノワールに手出しする事は全く無かった。
 ノワールを敵に回して闘うとなれば、相応の戦力を用意し、かつ多大なる犠牲を覚悟しなければならない。かつて『騎士』と呼ばれる各派閥の精鋭達を集めてノワール討伐を実行した事があったが、結局騎士達は一人残らずノワールに倒されてしまった。その時を上回る戦力を一派閥で用意するなど、ソルダのどの派閥にとっても無理な話であった。
 ましてや、今はどの派閥も他の派閥とは敵対関係にある。ノワール討伐に戦力を振り向けた隙を突かれ、他の派閥に滅ぼされてしまっては元も子も無い。
 そんな訳で、どの派閥もノワールについては「我関せず」という態度を貫いていた。
 
 「どうなされましたか、グレイファード閣下」
 グレイファードが振り向くと、色白で細面の美しい女性が居た。
 「ベルレーヌか。つい考え事をしていて、君が来た事も判らなかったよ」
 ベルレーヌはかつて修道女会の要職に就いていたが、裏では寄付金の着服や修道女会資産の転売を行うなど、私腹を肥やす事にのみ腐心していた。ノワール継承の儀式が行われる際にも、クロエ絶命の一報が届くと共に荘園から脱出し、それまでに貯め込んだ資金を活用してグレイファード率いる麻薬部会に入り込んだのである。
 グレイファードは目前にブランデーグラスを掲げて、ベルレーヌに声を掛けた。
 「君も飲る(やる)かね」
 「はい」
 ベルレーヌは戸棚からブランデーグラスを取り出すと、グレイファードの目前で並々とブランデーを注ぎ、馥郁たる香りを嗅いでうっとりとした表情を見せた。
 「・・・いい香りですこと」
 グレイファードはベルレーヌの満足そうな表情を見て、口元に微かな笑みを浮かべる。
 「一体何を考えていらしたのか・・・差し支えなければ教えて下さいませ」
 「ノワールの事だ。奴等が今何をしているのか、ふと気になってな」
 「私が調べた限りでは、パリの街角で花屋を開いているとの事です」
 「我々が抗争に明け暮れている最中に、花を売って生活しているとは・・・何とも優雅なものだな」
 グレイファードは沈みゆく夕日を見つめながら、ブランデーの残りを一気に飲み干した。
 
 「実は、そのノワールの事で閣下にお話があって参りました」
 「遠慮無く話したまえ」
 ベルレーヌの言葉を聞いて、グレイファードは興味深そうな表情で言った。
 「我々がノワールに手を出せずにいるのは、ひとえにノワールの力が強大だからです。もし、彼女達の力を敵対する派閥に向けられれば、絶大なる戦果が期待出来るでしょう」
 「君の言う通りに事が進めば、我々麻薬部会はソルダ内部の権力争奪において有利な立場に立てるだろう。他の派閥とノワールが共倒れしてくれれば、それこそ願ったり叶ったりだ」
 グレイファードはブランデーグラスをテーブルに置くと、真剣な表情でベルレーヌの側に向き直った。
 「だが、他の派閥もノワールも互いに不干渉を貫いている。一体どの様な方法で奴等を闘わようというのだね?」
 「ノワールは飛んで来た火の粉を払う以上の事はしないでしょう。となれば、ノワール討伐に向けて派閥自体を動かすしかありません」
 「派閥を動かすとは言っても、兵隊が2、3人やられた程度ではどの派閥も動きはしないだろう。最高幹部クラスがやられれば、報復行動に出るとは思うがな」
 「ええ、閣下のおっしゃる通りです」
 ベルレーヌは不敵な笑みを浮かべると、右手を背後に回してサイレンサーを装着した拳銃を取り出し、銃口をグレイファードへと向けた。
 「・・・・・ですから、閣下にはこの場で死んで頂きます」
 「何ぃ!」
 ボッ! ボッ!
 何かに包められた様な小さな銃声が響き、銃弾がグレイファードの胸部と腹部を貫いた。
 「ベルレーヌ・・・君は・・・」
 「閣下亡き後の麻薬部会、いえ、新修道女会は私が率いてみせます。どうか安心して天に召されて下さい」
 ベルレーヌの悪魔の様な微笑みが、グレイファードがこの世で見た最後の光景だった。
 
☆★☆★☆
 
 ベルレーヌは拳銃を始末すると、麻薬部会の幹部達に緊急召集を掛けた。
 召集を掛けてから僅か30分で、麻薬部会の幹部は全員グレイファードの居室に集合した。
 ベルレーヌはグレイファードの遺影を背に、幹部達に高い声で呼び掛けた。
 「たった今、グレイファード閣下が何者かの凶弾によって命を落とされました。残念ながら犯人は判りません。ですが、この厳重な警戒を突破し、閣下を暗殺する事が出来る者が居るとすれば、ノワール以外には考えられません」
 「くそぉ・・・・・ノワールめ、決して生かしておくものか!」
 「麻薬部会の総力を結集して閣下の敵を討つ!」
 いかにソルダが変質したとはいえ、同朋の死に対する報復行動を取るという点においては、昔と全く変わる所は無い。グレイファードの死を目前にして、男性幹部達のいきり立つ様子が、その外見からもありありと窺えた。
 「閣下がお亡くなりになる直前、私は閣下から麻薬部会の総指揮権を託されました。男性幹部の皆さんは、早速ノワール討伐の準備を進めて下さい」
 「ハッ」
 男性幹部達はベルレーヌに一礼すると、けたたましい足音を響かせて部屋を出た。
 
 ベルレーヌは部屋に残った女性幹部の面々を見渡して、高らかに告げた。
 「これでようやく、私達の理想を実現する為の準備が整いました。長い間アルテナの元で苦汁を舐めさせられてきた私達に、ようやく運が巡って来たのです」
 アルテナは原初ソルダの精神を守る為に、不当な方法で私腹を肥やそうとする会員には容赦無く厳罰を下していた。その内容は幹部資格の剥奪、不正に蓄財した私的財産の没収、最高半年間に及ぶ苦行の強要といったものであった。
 修道女会の最高幹部だったベルレーヌは、会員の厳罰処分が決定するや否や、財産の隠蔽や資産評価者の買収といった裏工作により、会員の資産を保護し、懲罰の減免を行うという行動に出た。アルテナの手から資産を完全に保護する事は不可能だったが、それでも厳罰の対象となった会員達はベルレーヌに深い感謝の意を示し、ベルレーヌの手下として行動する事を誓ったのである。
 「後は麻薬部会の残党共を始末し、アルテナの遺志を継ぐ存在であるノワールを地獄の底に叩き落せば、いよいよ私達の時代の幕開けです・・・フフフ」
 ベルレーヌの含み笑いに呼応するかの様に、灰色の斑雲が濃紺に染まりつつある空を覆い隠そうとしていた。


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