『血に飢えた孤独』 acte 3


 パリに着いたミレイユは、雑踏の中で揉まれながらようやく駅を出た。
 時刻はもう午後8時を回っていた。
 所持金は残り僅かだったが、パンを買う金くらいならある。
 一夜の宿が無理だとしても、雨露をしのげる場所でパンが齧れればそれで十分だと、ミレイユは考えていた。
 そして、ミレイユはパン屋の前に到着する。
 香ばしく焼き上がったパンの匂いが、嫌が上にもミレイユの食欲を喚起した。
 ミレイユは喜び勇んで、ポケットの中から財布を取り出そうとした。
 ・・・・・無い。
 何処で落としたのか、あるいは誰かに盗られたのかは判らなかった。
 ただ、残り僅かな所持金すら失ってしまった事に違いは無かった。
 パン屋を拳銃で脅迫して、金やパンを脅し取ろうかとも思った。
 でも、ミレイユの中に今も息づくブーケ・ファミリーの一員としての誇りが、その衝動を辛うじて食い止めていた。
 (ただの強盗に成り下がる位なら、死んだ方がマシよ)
 ミレイユは空腹を抱えながら、ひとり寂しくパン屋を後にした。
 
 ほぼ同じ頃。
 パリの路地裏をひとりの女が逃げ、2人の男が追う。
 女の方は20代後半といった頃合だろうか。走ってきたせいで少々乱れてはいるものの、綺麗に着こなした薄紫のスーツとショートカットの髪、そしてキリッとした顔立ちが、いかにも大人の女性といった雰囲気を漂わせていた。
 男の方はむさ苦しい黒服を着て、ガラの悪そうなサングラスで表情を隠していた。その風体から、かなりヤバイ筋の人間である事は火を見るより明らかだった。
 しかし、女の逃走劇は長くは続かなかった。
 疲労のせいか、女は足をもつれさせて転倒する。
 そして、黒服達が5メートル程距離を置いた所で止まる。
 「テメェがヤバいネタをよこしたおかげで、俺達は危うく命を落としそうになった。その償いをさせてもらうぜ」
 「あら、この世界に安全な仕事なんてあるのかしら?」
 「まあいい。散々手こずらせてくれたがもう終わりだ。せいぜいその美貌で地獄の悪魔でもたらし込むんだな」
 男達が懐に手を入れ、拳銃を抜く。
 拳銃を見た女の表情に怯えが走る。
 そして次の瞬間、銃声が2発響いた。
 
 女の脳裏に、何かが倒れる音が響く。
 恐る恐る顔を上げると、黒服達が前のめりになって死んでいるのが見えた。
 そして少ししてから、女の背後で何かが倒れる音がした。
 女が身を起こして後を見ると、汚らしい身なりの少女が拳銃を持ったまま倒れていた。
 
 
 
 ・・・一体どの位時間が経っただろうか。
 見覚えの無い部屋で綺麗なパジャマに身を包み、フカフカのベッドに身を横たえる自分の姿に、ミレイユは戸惑いを隠せなかった。
 「あら、気が付いたようね」
 ショートカットの女性がミレイユに話し掛けた。
 「ここは何処?」
 「私の家よ。通りで偶然行き倒れになったあなたを見掛けて、ここへ運び込んで来たのよ」
 「あなたは誰?」
 「私はポーレット。こう見えても、パリでは評判のいい美容師で通っているのよ」
 (この女、ただの美容師なんかじゃない!)
 ミレイユの直感がそう囁く。
 
 ミレイユはパリに着いてからの事を思い返していた。
 僅かばかりの所持金を失い、空腹と疲労でフラフラになりながら、身を休める場所を求めて裏通りをさまよい歩いた事は覚えている。
 そして、偶々見掛けた黒服達が拳銃を抜いたのに反応して、ショルダーバッグから拳銃を取り出し、最後の2発を黒服達に撃ったのも覚えている。
 ミレイユの記憶はそこで途絶えていたが、その僅かな記憶に照らし合わせてみても、ポーレットの言動には不自然な点があった。ただの美容師が偶々裏通りを通り掛かり、拳銃を構えた少女を何のためらいも無く自宅へ入れるだろうか?
 ポーレットの素性を確かめるべく、ミレイユはポーレットにカマを掛けてみた。
 「さすがに評判の美容師だけの事はあるわね。黒服にまで追い回されるとは」
 ミレイユは黒服を倒した現場にポーレットが居た事は全く知らなかった。偶々、最後に見掛けた他人が黒服だったというだけである。
 「・・・鋭いわね。確かにブーケファミリーの生まれというだけの事はあるわね、ミレイユ」
 教えてもいないのにいきなり名前を呼ばれ、ミレイユは戸惑う。
 「ミレイユ・ブーケ、12歳。コルシカで猛威を振るっていたブーケファミリーの首領、ローラン・ブーケの長女として生まれるも、5年前の謎の襲撃事件により一家はあなたを残して惨殺。その後、シャルトル近郊の小さな村に身を潜めていたが、3日前の別荘爆破事件により、あなた自身も死亡した事になっているわ」
 (・・・なるほど。情報屋さんという訳ね)
 
 遠い昔に、ミレイユはクロードから殺人代行業の簡単な仕組みを聞かされていた。
 殺人代行業は、実際に殺人を実行する者(殺し屋)と、収集した情報を殺し屋に伝達する者(情報屋)との分業制である。
 情報屋は殺し屋宛に依頼内容を示す電子メールを送信し、殺し屋は依頼を請けるか請けないかを電子メールで情報屋に返答する。依頼人と情報や金銭のやり取りを行うのは情報屋であり、殺し屋自身が依頼者と直接メールを交わしたり、金銭の授受に関与したりする事は無い。
 勿論、殺し屋と情報屋のどちらにせよ、巷の人間に知られたら拙い仕事である事に変わりはない為、情報屋は殺し屋に依頼人の情報を流し、万一正体がバレた場合には秘密裏に依頼人を始末出来る様にしておくのである。
 
 「で、その情報屋さんが私に何の用?」
 「あの時はあなたが黒服を倒してくれたおかげで、命拾い出来たわ」
 全く身に覚えの無いポーレットの言葉を聞き、ミレイユは少し考えて言う。
 「私は人助けの為に撃ったんじゃないわ」
 自分は護身の為に黒服を撃った。
 ミレイユはその事をポーレットに伝えるつもりだった。
 だが、ポーレットの反応はミレイユが予想していたものとは全く異なっていた。
 「そうね・・・あなたにとってはそれが『仕事』だものね」
 仕事?
 黒服を倒す事が?
 「理由はともあれ、あなたが黒服を倒してくれたおかげで私はここに居る。それが事実。私はその事実に対してあなたに報いたいと思っている。それでいいわね?」
 ミレイユはようやく状況を把握した。
 ポーレットが「仕事」上のトラブルで黒服に追われ、危うく命を落としそうになった所に自分が現れた。
 そして、黒服を倒してポーレットの命を救った。
 その後は気を失った自分をポーレットがここに運び込んだ。
 ・・・多分、こんな所だろう。
 どのみち、体力が回復しなければここを動く事も叶わない。
 ならば、ここはポーレットの世話になった方が得策だろう。
 ミレイユはそう考えると、ポーレットの言葉に首を縦に振った。
 
 それから2日が過ぎた。
 すっかり体力を取り戻したミレイユは、窓際にあるチェアに腰掛けてパリの街を見つめながら、今後の事について漠然と考えていた。
 金や拳銃はおろか、帰る家すらない今の自分が、一体どうやったらこのパリで暮らして行けるだろうか?
 村を出ようと決心して、旅行鞄に着替えや金を詰め込んでいた時に抱いていた希望など、とうの昔に打ち砕かれていた。
 ただ生きていくだけなら、方法が無い訳ではない。
 何処かの商店に住み込んで下働きをするか、街角で身体を売るかすれば、食いはぐれる事はないだろう。
 ミレイユは髪を振り乱し、そんな邪念にも似た思いを振り払う。
 (そんなものに身をやつす位なら、死んだ方がマシよ)
 そして再び、ミレイユは思考の迷宮の中に入っていった。
 
 「大分お悩みのようね」
 コーヒーとクッキーを持ってポーレットが部屋に入って来た。ポーレットはテーブルを挟んで真向かいにあるチェアに腰掛け、ミレイユの前にコーヒーをそっと出した。ミレイユは窓の外を向いたまま、うつむき加減に視線を落とす。
 ポーレットは洋服のポケットから小さな拳銃を取り出し、ミレイユの前に置く。
 その拳銃に視線を送った途端、ミレイユの顔色が変わる。
 それはミレイユが5年近く使い続けてきた拳銃だった。
 「あなたが3日3晩寝ている間、知り合いのガンスミスに見てもらったわ。かなりマメに掃除や調整を繰り返してきたみたいだけど、もう色々なパーツが金属疲労の限界に来てるそうよ。こんな銃でよく、あの黒服達を一撃づつで仕留められたわね」
 ポーレットはコーヒーを一口飲んだ後、身体の後に手を回してもう1丁の拳銃を取り出した。まっさらの新品の様にも見えるその拳銃は、ミレイユが使っていた拳銃よりも1回り大きかった。
 「さて、あなたにひとつ選択してもらうわ」
 ポーレットは急に真顔になり、鋭い口調で言う。
 「あなたは人を殺した。そして、私の正体も知ってしまった。本来ならあなたに選択の余地はないけど、今回は特別よ」
 ポーレットの言葉にミレイユは思わず息を呑む。
 「あなたが私の為に働く気があるなら、この拳銃をあげる。もしその気が無いなら、古い拳銃を持ってここを出て行ってちょうだい」
 目前に並べられた2丁の拳銃を見て、ミレイユは迷った。
 ポーレットの「働く」という言葉が何を意味するのか、ミレイユは理解していた。
 自ら裏社会に飛び込んで行くのか、それとも自分の身を守る為だけに止めておくのか。
 どちらを選択するにせよ、明るいとは言い難い未来が待ち受けているのは明白だった。
 
 突然、炎に染まるコルシカの姿がミレイユの脳裏に浮かんだ。
 自分にはやらなければならない事がある。
 ブーケ・ファミリーを崩壊へと導いた奴等を探し当て、皆殺しにする事。
 しかし、今の自分では到底勝ち目はない。
 ならば・・・
 
 ・・・そして、ミレイユは大きい方の拳銃を手にした。
 
 「その銃を手にする事が何を意味するか、聡明なあなたには判るわよね?」
 「もちろんよ」
 ミレイユは強い意思を込めてポーレットを見つめた。
 そんなミレイユの表情を見て、不思議とポーレットの表情が和やかになる。
 「私はあなたに情報を提供する。そして、あなたは私から来た『仕事』を遂行する。いいわね、ミレイユ」
 ポーレットの言葉にミレイユは小さく強く頷いた。
 弱冠12歳の殺し屋、ミレイユ・ブーケ誕生の瞬間である。
 
 その後の3年間、ミレイユはポーレットの下で「仕事」を遂行し続けた。
 ポーレットは拳銃の腕前こそ素人に毛が生えた程度だったが、その豊富な経験から身に付けた裏稼業のノウハウには目を見張るものがあった。そのノウハウを、ポーレットはミレイユにひとつひとつ教え込んだ。特に隠密行動術は、ミレイユが「仕事」を遂行する上で非常に役に立った。
 また、ポーレットはミレイユの親代わりとして、衣食住を始め様々な面でミレイユの面倒を見てくれ、その上で学校へも行かせてくれた。天涯孤独で帰る家も無いミレイユにとって、ポーレットはまさに恩人と言うべき存在であった。
 
 やがて、裏社会ではミレイユの別名である"Serra"というコードネームが知れ渡る様になった。
 抜群に高い成功率を誇る"Serra"が、まだあどけなさの残る少女だという事を知るのは、この世でポーレットただひとりであった。
 
 卒業後、ミレイユはそれまでに貯めた資金を元手にポーレットの下から独立した。
 ポーレットはミレイユが自分専属の殺し屋でなくなる事に少々抵抗を感じていたが、「殺し屋と情報屋がいつまでも一つ屋根の下で暮らしていちゃまずいでしょ」というミレイユの言葉を聞いて、色々考えた末に独立を認めてくれた。
 しかし、ミレイユが独立した目的は全く別の所にあった。
 殺し屋として必要なスキルの全てを身に付けた今、ミレイユは自力で本来の目的=復讐を果たす事=が可能になった。だが、ポーレットから請け負った「仕事」をこなすだけでは、自分の真の敵が誰なのかを探るのは到底無理である。
 それに、私怨を晴らす為に遭遇するであろう数々の危険に、恩人であるポーレットを巻き込む訳にはいかない。
 色々と考えた結果、ミレイユは「血に飢えた孤独」を選択したのである。
 
☆★☆★☆
 
 クロードはミレイユに無言の別れを告げた後、世界各国を転々としながら「仕事」を続けていた。
 依頼人の名は「ソルダ」。
 彼等から依頼された仕事を遂行する事が、クロードが生きていく唯一の方法だった。
 
 そして、クロードはソルダからの情報から、裏社会で名を馳せている"Serra"の正体がミレイユだという事を知った。
 (あれから7年か・・・)
 クロードはウィスキーグラスを片手に、別荘でのミレイユとの生活を思い返していた。
 (まさか、お前が殺し屋になっているとはな・・・)
 クロードがミレイユに拳銃の打ち方を教えたのは、あくまで護身が目的であった。
 自分の身を自分で護る事が出来れば、ひとりで生きていく事も可能だろう。
 クロードはそんな思いを込めて『一人で生きる為の力』という言葉を使ったのだが、ミレイユはどうやら別の意味で受け取ってしまった様だ。
 結果的には、自分がミレイユに「仕事」を教えてしまったのかもしれない。
 
 だが、互いに裏社会に生きる身になれば、いつ生死を賭けて対峙する事になるかもしれない。
 ソルダが「"Serra"を殺せ」と命じる可能性も無い訳ではない。
 その時、自分はどうしたら良いのだろうか?
 クロードは自分の中の迷いを振り払わんとして、残りのウィスキーを一気に煽り、酔いに任せてベッドの上に倒れ込んだ。
 
 3年後、ソルダから「ノワール抹殺指令」が下る事を、クロードは知る由も無かった。

(おわり)


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