ハリウッド郊外の高級住宅街を抜け、更に高台に位置する森の中に、ジルの屋敷はあった。
霧香とミレイユは15分ほど応接室で待たされた後、屋敷の奥にあるジルの部屋へと案内された。
「我が屋敷へようこそ、お嬢様方」
霧香とミレイユが部屋に入ると、フカフカのチェアに腰を掛けたジルが席を立ち、深々とお辞儀をした。
ジルの部屋は非常に簡素な内装だった。豪奢な絨毯が敷き詰められた上にはジルのデスクとチェア、そして応接用のソファとテーブルがあるだけだった。
ジルは霧香とミレイユをソファに案内した。
「先程は危ない所を助けて頂き、誠にありがとうございます。霧香様、ミレイユ様」
「当然の事をしたまでですわ、『外食王』ジル・バートナムさん」
「私の事をご存知とは・・・光栄の至りです、ミレイユ様」
ジル・バートナム。
彼はアメリカ全域でレストランやファーストフードのチェーン店を運営する企業『グルマンズ』の名誉会長であった。
「50年前にワゴン車1台で事業を始め、一代で『グルマンズ』を興したアメリカ外食業界の雄。その辣腕振りから、巷では『外食王』と呼ばれていると聞いています」
「ふむ・・・だが、それが私の全てではありません」
ジルは1枚の古ぼけた写真を、ミレイユと霧香の前に出した。
その写真には、小柄でショートヘアの東洋人女性と、細身でロングヘアの西欧人女性が写っていた。
「この人達が、芹香さんとエレーヌさんですか?」
「その通りです、霧香様」
「それで、この写真は一体・・・」
「これは50年前の”TAP”旗揚げ当時の写真なのです」
「え?」
「私は"The American Pro-wrestling"、通称”TAP”のマネージャーだったのです。そして、この写真の芹香とエレーヌこそが、”TAP”の救世主だったのです」
霧香とミレイユは、ジルの話に興味深く耳を傾けた。
「”TAP”は元々、私立大学のプロレス同好会が母体となって生まれたプロレス団体です。旗揚げ当時のメンバーは男子選手6名、女子選手2名、そしてマネージャー兼集金係の私でした」
ジルは遠い目をしながら話を続ける。
「ですが、”TAP”旗揚げ当初は苦しい毎日の連続でした。男子選手6名はテクニックが未熟で大味な試合しか出来ず、女子選手はテクニックこそ抜群だったものの、2名だけでは毎日同じカードを組む以外になく、観客動員数は日を追って減る一方でした」
「確かに、試合がつまらなければ客は来ないわね」
「その通りです。私も運営費の捻出に奔走したのですが、客が入らないのではどうにもなりません。旗揚げから僅か1ヶ月で、”TAP”は解散の危機を向かえてしまったのです」
「随分、大変な思いをしてきたんですね」
「そして、とうとう運営資金が底をついてしまったその時でした」
☆★☆★☆
50年前。
”TAP”の事務所として使用していたプレハブ小屋の中で、ジルは一人頭を抱えていた。
「もうダメだ・・・試合会場どころか、練習場を借りる費用もままならない・・・銀行も金を貸してはくれない・・・ううっ・・・」
その時、事務所のドアが開いた。
「失礼します」
事務所の中に入って来たのは芹香とエレーヌだった。
「やあ、格好悪い所を見せてしまったね。芹香、エレーヌ」
芹香は胸に手を当て、息を呑んでから話を始めた。
「私達考えたんです。”TAP”を立て直す為の方法を」
「気休めを言わないでくれ・・・そんな魔法みたいな方法がある訳ないじゃないか・・・」
「あります」
エレーヌは強い口調で言った。
「私と芹香とでタッグを組んで、男子選手と対戦するのです」
「え?」
芹香とエレーヌの提案は、ジルにとって晴天の霹靂とも言えるものだった。
「私達、テクニックでは男子選手の上をゆく自信があります。確かに、シングルでは体力差で圧倒されてしまうかもしれませんが、タッグなら男子選手とも互角に戦えると思うんです」
「確かに君達のテクニックは素晴らしい。コンビネーションを駆使すれば、男子選手とも互角に渡り合えるだろう。だが・・・」
ジルは芹香とエレーヌから視線を逸らして、言葉を続ける。
「男子選手との対戦となれば、体力差以外にも色々と辛い思いをする事になる。例えば、試合中に胸や尻を触られたりする事など日常茶飯事になる。体力の消耗も受けるダメージも、今までよりも遥かに大きくなる。それでもいいのかい?」
「構いませんわ」
「私達にとっては、プロレスが出来なくなる事の方が余程辛いんです」
ジルは芹香とエレーヌの瞳をじっと見つめる。
2人は強い意思を込めた、真っ直ぐな瞳でジルを見つめていた。
「・・・判った。君達に”TAP”の未来を賭けてみよう」
☆★☆★☆
「そして、芹香とエレーヌはタッグチーム『黒薔薇』として、男子選手に闘いを挑んだのです」
ジルはポケットからもう1枚の写真を取り出した。
そこには、黒薔薇の刺繍が縫い込まれた真っ黒なコスチュームに身を包んだ、芹香とエレーヌの姿が写っていた。髪型や顔付きはやや異なっていたものの、体格や体型は霧香とミレイユにそっくりだった。
霧香とミレイユは、ジルの言う「神の悪戯」という言葉の意味を理解した。
「それから数日後、『黒薔薇』はデビュー戦を向かえました。『男と女の闘い』を一目見てみたいという好奇心溢れる客が押し寄せ、会場は”TAP”旗揚げ以来初めて満員になりました。その時私は、”TAP”が泥レスの様な色物プロレスになるのではないかと、一瞬危惧しました」
ミレイユはジルの言葉に小首を傾げる。
「霧香、『泥レス』って何?」
「泥水の中で女の子がプロレスごっこをするの。単なる色物ショーよ」
ミレイユは霧香の言葉から、『泥レス』が何なのかを即座に理解した。
「・・・でも、そんな事よく知っているわね、霧香」
(・・・マズイ事言っちゃったかな(^^;)
ミレイユに妖しい目付きで見られて、霧香のこめかみを一筋の冷や汗が流れた。
「ですが、私のそんな不安を芹香とエレーヌは見事に払拭してくれました。パワーと体格に勝る男子選手を相手に、様々なテクニックやコンビネーションを駆使して互角に渡り合う彼女達の試合を見て、私はプロレス本来の楽しさを再認識しました。色物見たさに押し寄せた観客も、次第にプロレス本来の楽しさに目覚めていきました」
いつの間にか、2人はジルの話に聞き入っていた。
「こうして、”TAP”は芹香とエレーヌのおかげで解散の危機を免れ、団体としての基盤を確立したのでした。彼女達とのファイトに刺激され、男子選手全体のレベルも上がりました。ですが・・・・・」
「何かあったんですか?」
「やはり、女の身で男子選手に闘いを挑むのには無理がありました。体格面や体力面で男子選手に劣る彼女達は、常に全力を出し切って闘う事を強いられました。また、彼女達はパワーと体重のある男子選手の攻撃を、華奢なその肉体で受け止めなければなりません。試合を重ねる毎に、男子選手の数倍の疲労とダメージが彼女達の身体に蓄積されていったのです」
ジルの言葉に、ミレイユと霧香は思わず息を呑む。
「それでも彼女達は、そんな事は表に出さずに男子選手との試合を続けました。私も”TAP”の経営が軌道に乗った事で有頂天になり、彼女達の事に目が行き届かなくなっていたのです。そして・・・」
ジルは一旦視線を床に落とした後、ゆっくりと顔を持ち上げて話を続けた。
「ある日の試合で、芹香とエレーヌは男子選手の攻撃を受け、マットに倒れました。そして、それっきり彼女達は動かなくなってしまったのです」
!
ミレイユと霧香は驚いた表情でジルを見つめる。
「・・・死因はショック死でした。ただ、過酷な試合を続けた事で、彼女達の肉体がボロボロになっていたというのも事実です。私は彼女達を死に至らしめた男子選手達に「全ては運命なんだ。お前達のせいじゃない」と言うのが精一杯でした・・・」
大粒の涙をこぼしながら、震える声を搾り出す様にして言葉を続けるジルの姿に、霧香とミレイユは強く胸を打たれた。
ジルはポケットからハンカチを取り出して涙を拭い、自分の気持ちが落ち着くのを待ってから再び話を始めた。
「実は私が『外食王』と呼ばれる様になったのも、芹香とエレーヌの力になりたくてハンバーガーを売り歩いた所から始まったのです。『グルマンズ』が全米第1位の外食チェーン企業となり得たのも、元を正せば芹香とエレーヌのおかげなのです」
ミレイユはジルの経歴は知っていたが、そんな裏話があった事は全く知らなかった。
「ですが、この50年の間に”TAP”は変わりました。人気団体という事にあぐらをかいていた選手達は、自らの肉体と技術に磨きを掛ける事を忘れ、次第に大味な、レベルの低い試合を見せる様になりました。巨大企業となった『グルマンズ』が資金援助した事も、”TAP”の選手達にとっては危機感の喪失というマイナス材料にしかなりませんでした。そして、最近の景気悪化を背景に、『グルマンズ』は赤字続きの”TAP”の解散を決定したのです」
ジルの言葉を聞いて、霧香とミレイユはハンバーガーショップの駐車場で対峙した男達の事を思い出していた。彼等がスポーツ選手としては中途半端な体付きをしていたのも、ジルが指摘した「危機感の喪失」がそうさせたのだろう。
「私は”TAP”の解散は致し方の無い事だと思っています。芹香とエレーヌの志を忘れた今の”TAP”に、もう未練はありません。ですが、私は死ぬ前に一度だけ、『黒薔薇』がリングに舞う姿を見たいのです」
「死ぬ前って・・・・・」
「私の身体は不治の病に侵されています。グルマンバーガーの駐車場でお会いした時にお判りの様に、もう、いつ命が尽きてもおかしくない状況なのです」
ジルは咳払いをした後、真剣な表情でミレイユと霧香の瞳を見つめる。
「単刀直入に申し上げます。私はミレイユ様と霧香様に、『黒薔薇』としてリングに上がって頂きたいのです」
「えっ?」
「そんな・・・・私達、プロレスの経験はありませんわ!」
「グルマンバーガーの駐車場で、現役プロレスラー4人を相手に互角以上に闘う貴女達の姿は、芹香とエレーヌの現役時代を彷彿とさせるものがありました。また、彼等4人を倒す事の出来た貴女達なら、いきなりリングに上がっても決して恥ずかしい試合はしないでしょう」
「ですが・・・」
「エキシビジョンでも何でも構わないのです。私は貴女達がリングに舞う姿を見たいのです。お願いします・・・」
霧香はふと、ナザーロフの事を思い出していた。
仕事とはいえ、過去の罪を償う事に人生を捧げたナザーロフを暗殺した事に、霧香は強い心の痛みを感じていた。
自分が殺さなくても、いずれ近いうちに死ぬのなら、何故最後まで罪を償わせてあげられなかったのか?
あるいは自分の心の痛みを和らげたいだけなのかもしれない。
が、霧香の中でジルの願いを叶えてあげたいという気持ちが芽生えていた。
いきなり霧香が口を開いた。
「私達で良ければ、お受け致します」
霧香の言葉を聞いて、ミレイユは驚いた表情で霧香を見つめる。
「あんた、自分が何を言っているのか判ってるの?」
「うん。ミレイユには迷惑かもしれないけど、私はジルさんの願いを叶えてあげたいの」
「霧香・・・」
「・・・お願い、ミレイユ。私のワガママを聞いて!」
ミレイユは一瞬呆れた表情を見せた後、いつもの優しげな表情に戻り、ジルの方に向き直って言う。
「判りました。霧香と一緒に『黒薔薇』としてリングに上がる事をお約束します、ジルさん」
「・・・ありがとう・・・・・本当に感謝します・・・ミレイユ様・・・霧香様・・・」
感涙にむせぶジルの姿を見て、霧香の表情が明るくなる。
ミレイユは少しキリッとした目付きになって言葉を続ける。
「但し、2つの条件を呑んでいただきたいのです」
「どんな条件でしょう、ミレイユ様」
「ジルさんのご要望でリングに上がるとはいえ、私達はプロレスラーではありません。ですから、私達がリングに上がって闘う姿は、写真やビデオに一切撮られない様にしてほしいのです」
「承知しました。来場者のチェックは勿論、プレス関係者にも撮影機材は持ち込ませない様に致します」
「また、かつての『黒薔薇』は男子選手と対戦したとの事ですが、私達は男と肌を合わせたくないのです。対戦相手は女子選手でお願いします」
「その様に手配致します」
ジルは自分のデスクに戻り、何処かに電話を掛けた。
数分後。
極端に度の強い眼鏡を掛けた貧弱そうな男が、女性を従えて入って来た。
「はじめまして。”TAP”マネージャーのコリゾン・ブラウンと申します。この度は『黒薔薇』としてリングに立って頂けるとの事で、私共も大変感謝しております」
コリゾンは共に入って来た女性の方に手を差し出した。
「”TAP”広報のセーラと申します。貴女方のお世話をする様、ジルに申し付かりました」
セーラは霧香とミレイユの目前に、持って来たトマトジュースを出した。
「お暑い中大変だったでしょう。どうかお飲みになって下さい」
霧香とミレイユはトマトジュースを口にした。
風味付けの為だろうか、トマトジュースは僅かにタバスコに似た味がした。
「飲み終わりましたらコスチューム合わせを行いますので、私に付いて来て下さい」
霧香とミレイユはセーラに連れられて、ジルの部屋の3つ隣にある小さな部屋へと案内された。
「ジル様は貴女達にこれを着て闘ってもらいたいとの事です」
「これは・・・」
「先代『黒薔薇』が着用していたコスチュームです」
セーラが差し出したのは、先程写真で見ていたのと同じコスチュームだった。50年の歳月を経ている筈なのに、コスチュームには何一つとして変色や劣化は見当たらなかった。
霧香とミレイユは下着姿になり、その上からコスチュームを着る。
「こんなにぴったりだなんて・・・」
まるで2人の為にしつらえたかの様な見事なフィット感に、セーラは目を丸くして驚いた。
「試合では下着の代わりにサポーターを着用して頂きます。そちらの方は新品をご用意させて頂きます」
セーラはコスチュームに着替えたミレイユと霧香を、再びジルの部屋へと連れ戻した。
「おお・・・まるで芹香とエレーヌを見ている様だ・・・」
ミレイユと霧香のコスチューム姿に感嘆したジルは、デスクに戻ってインスタントカメラを取り出した。
「1枚だけでいい・・・貴女達の写真を私に下さい」
ミレイユと霧香は無言で頷いた。