-オルレアン-
J eanne d'Arc's_ S ymphony
そして、解放へ...



『ジャンヌは私とともに手に軍旗を持ってやって来た。それは
白旗で百合の花を手にしているわれらが主の姿が描かれていた。』
デュノワ伯「ジャン・ル・バタール」


オルレアン
レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著
JEANNE D’ARCより



ジャンヌはオルレアンに向かう前にあらかじめいろいろな準備をしていた。
それは、武具や軍旗や剣、そして兵士達の心の準備である。





★武具&軍旗
国王はジャンヌがオルレアンに向かう前に、トゥール(今でも町にはジャンヌの甲冑を仕立てた甲冑師の店が残っている)でジャンヌ用の武具を作らせ、そして軍旗はオーヴ・プールノワールという画家にデザインさせて作らせたそうだ。この軍旗は後に積極的な役割を果たして数々の勝利を導いていき、ジャンヌも「突撃に移る時は誰も死なせたくないので、いつも軍旗を手にしていた」と言っていたくらい重要なものであった。

★剣
サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワで「五つの十字が刻まれている剣」を伝令使に伝えて探させた。(この時ジャンヌは2人の伝令使を意のままに用いることができたのだが、これは国王がジャンヌを貴族出身の他の司令官と同等に扱っている証拠であった。)

★兵士の心の準備
・部下への告解の勧め
・兵士の後をついてまわる娼婦の群れの追い払い
・略奪の厳禁
・呪詛の厳禁
最後の呪詛の厳禁は、”やんごとなき侯”で有名なアランソン侯の次のような証言もある。

「兵士が呪いの言葉を吐くと、ジャンヌはかんかんになって怒り、大いに兵士を叱責した。かく言う私も、時にはそのような言葉を弄したものである。ジャンヌの姿を目にすると、あわてて呪詛を口にするのを抑えたものである。」と。

あと、これはちょっとした余談なのだが、このアランソン侯は王太子の要請で王太子の義母にあたるシチリア王妃のもとにおもむいて、オルレアンに向けての出撃のための財政的援助をしてもらったのであった。




こうして、準備を整えたジャンヌはオルレアンに向かったのである。
そして、ソローニュ方面へと進発して三日目に兵糧を携帯してオルレアン
近くまでやってきて、肉眼で区別できるくらいまで接近したのだった。




ジャンヌは直ちにオルレアンに向かい、救いたかったのだが、進軍はオルレアン近くに設けられているイギリス軍陣地を避けて行なわれた。そしてまもなく、前線部隊を率いていたジャンヌは対岸にシェシーの村を臨む地点でル・バタールと相まみえることになる。
川を渡るためにル・バタールは、町をとりまいている外壁の一つであるサン=ルー砦に部隊の一部を向かわせて牽制の攻撃をかけさせた。そして、その小競り合いが行われている間にジャンヌがシェシーまで、援護してきた兵糧と大砲を町に運び入れたのである。
そして1429年4月29日にジャンヌはオルレアンに到着するのであった。

当時のことを書いてある『篭城記』には町の様子を「多くの者は、まるで神が自分たちのところへ降りてきたのを見ているような喜びようであった。」と記している。
それもそのはず、この頃の町の状況は『First Jeanne』に上げているのだが、もう落城寸前であり、町の人の不安もピークに達していたため、”神の軍”というものがどんなにうれしいものだっただろうか。
しかし、オルレアンに入ったはいいものの、ル・バタールはすぐにブロワの方から来る救援部隊を出迎えに行ったのでジャンヌは数日間、戦いに打って出ることもできずにいたのである。




ジャンヌがオルレアンに入った翌日から始る9日間のあいだに、
歴史の目から見れば信じられないような速さで、さまざまな
出来事が相次いでおこるのであった。
わかりやすくするために、日にちごとに区切って見てみようと思う。




4月30日(土)〜5月3日(火)
★交渉
ジャンヌはいくども、防塁から声が届く距離にあるイギリス軍陣地に”神の御名において撤収もしくは降伏する”ように言ったが、無駄に終わったのであった。


5月4日(水)
★初めての勝利
この日、やっとル・バタールがオルレアンに帰ってくるのであった。(ジャンヌがオルレアンに入って5日目のことである)
ル・バタールがオルレアンに帰ってきた夜、寝ていたジャンヌは何か胸騒ぎがして起きてみると、サン=ルー砦の方で攻撃だか小競り合いだかが起こり、イギリス軍に砦が奪取されたという知らせが入ってきた。そのため、ジャンヌは急いで身支度をしてサン=ルー砦にむかったのであった。
ジャンヌが現場に駆けつけた時にはイギリス軍は防御を固めている所であったが、ジャンヌが姿を現すとフランス兵の士気があがり、まもなく砦と保塁を奪取したのだった。
これがジャンヌにとっての最初の勝利であった。


5月5日(木)
★キリスト昇天の祝日
ジャンヌは家に戻ると、”祝日をことほぎ武具もまとわず、戦闘にも参加しない”と宣言する。そして、イギリス軍宛てに3通の勧告上を相次いで送るが無駄に終わる。


5月6日(金)
★勢いにのる進撃
町の首脳者たちは、サン=ルー砦での勝利で満足して当分は出撃しないと決め込んでいたが、ジャンヌは「オーギュスタン砦に攻撃をかけるべきだ」と言って兵士をつれてブルゴーニュ門から出て、船でロワーヌ川を渡ったのであった。そしてジャンヌは、サン=ジャン=ル=ブラン方面に進撃していった。
あせったイギリス軍は、いそいでトワール島にいた兵士たちを呼び戻して、オーギュスタン砦の近くのレ・トゥーレルとよばれている所の防壁を固めたのだったが、勢いにのっているジャンヌは、ものすごい勢いでオーギュスタン砦を奪取したのであった。
(ジャンヌは敵軍と自軍が戦っているのを見ると直ちに槍を構え、真っ先駆けて敵兵に打ち掛かったのだった。これがきっかけとなって、自軍の士気が上がり、勝利を収めたと言われている。)
そのため、イギリス軍はレ・トゥーレル砦に退却するしかなかった。
しかし、またしても首脳部には弱気とやる気の無さが感じられたので、ジャンヌは怒り、「この新しい勝利は決定的な勝利の第一段階にしかすぎない」と抗議したのであった。そして、次のように自分の部下に指示を出したそうだ。

「明日は今日よりもずっと早く起床して、最善をつくしてください。明日は忙しくなるでしょうし、私は胸の上の辺りから血を流すことでしょう。」


5月7日(土)
★矢傷と勝利
レ・トゥーレル要塞は強力で組織的な守備だったのだが、ジャンヌは再三にわたって強引に城を攻めたのであった。
(ジャンヌは昼過ぎに胸の少し上に矢傷を受けることになるが....彼女は、傷口が化膿しないようにオリーブ油と脂肪を塗るという簡単な手当てだけして、また出撃したのであった。)
ジャンヌは旗を力の限り振ると、乙女軍の全員が旗の周りに集まり、激しく涙道に襲い掛かったといわれている。そして、ついにフランス軍は橋を渡り、オルレアンの町に入ることができた。
つまり、ジャンヌは勝利を手にしたのであった。


5月8日(日)
オルレアン解放
「イギリス軍はその後、戦陣を展開してオルレアンのフランス軍と対峙していたのだが、時が過ぎるとイギリス軍は隊列を整え、立ち去っていった。かくしてイギリス軍は1428年10月12日よりこの日までオルレアン前面に敷いていた攻囲陣を完全に解き、放棄したのであった。」
−篭城日記より−





参考資料:レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著「JEANNE D’ARC 」

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