『夢、翔ばたくときを信じて……』 Story「1」

 日が昇って間もない時間。
 夜遅くまで降り続いた雨も上がり、灰色の雲の隙間からは光が指し込んでいる。まだ乾き切らない道を通る何台かの自動車。そして、一台の自転車。
「天気は大丈夫そうだけど、グラウンド、試合までに乾くかなあ……」
 静かな朝の住宅街を、沙希を乗せた自転車が颯爽と駆け抜けていく。
 自転車を漕ぐのに合わせて、沙希の息も、心も弾んでいる。それは朝の澄んだ空気のせい。そして、今日が2人にとって大切な1日だから……。

 ――5月4日。
 末賀高校との対抗試合の日。

「願掛け、もう一度しておかなきゃね。あ、でも、こう何度もお願いされたら、神様も、しつこいって呆れちゃうかな……ふふ……」
 沙希が乗った自転車が軽快に走っていく。路地の角を曲がると、並木の緑が沙希の眼に飛び込んできた。そこはもう、"いつもの神社"だ。
 背中に背負ったバックの中には、対抗試合のために沙希が毎日夜遅くまで作っていたミサンガが入っていた。サッカー部員全員分のミサンガ。沙希はそのミサンガに願掛けをしようと、病み上がりにも関わらず、朝早くに神社へ向かったのだった。
 今日の対抗試合、ウチが勝ちますように……。
 そして……彼が、大好きな彼が、今度こそレギュラーになれますように……。
 昨日、"彼"が来るのを待っている間、沙希はこの神社で何度も何度も願掛けをしていた。「こんなへたっぴなミサンガじゃ、神様に何度もお願いしておかないと御利益なさそうだもんね」と……。

 

 バサッ!
「きゃっ!」
 突然! 神社を囲む並木の隙間をぬって何が飛び出してきた。そしてそれは自転車に乗った沙希の前を横切っていった。沙希は、反射的に急ブレーキをかけて自転車を止めると、コロコロと道路へ転がっていくものを目で追った。
「サッカー……ボール……?」
 飛び出してきた物は泥にまみれたサッカーボールだった。沙希は神社を囲む低い石垣に沿って自転車を止めた。そしてそのボールを拾おうと、車道を転がるボールに近づいた。ボールについた汚れの隙間から描かれている模様やマークが十分わかる。
「このボールって……」
 バサバサバサッ!
 しゃがんでボールに手をかけようとした瞬間、再び、背後から草木が擦れるような物音が聞こえた。それに続いて、石垣から人が飛び降りる音がした。
 多分、このボールの持ち主で、きっと、私の知っている人……。
 沙希は、泥まみれのボールを両手で拾い上げると、物音がしたほうへ振り返った。
「に、虹野さん!」
「やっぱり……」
 "彼"の驚きの声と、沙希の安堵にも似た声が重なる。
 沙希の予想通り、そこにはビックリした表情の"彼"の姿があった。その顔を確認した瞬間、自然と沙希の表情は微笑みに変わっていた。
 昨日の雨で神社の地面もぬかるんでいるのだろう。転がるボール同様、"彼"の黒いジャージにも足元を中心にたくさんの泥がついている。
「お、おはよう」
 そう言う"彼"は少し照れくさそうだった。それは、沙希を見た瞬間、"彼"がここ数日の出来事を思い出して、沙希を振り回してしまった申し訳なさと、情けない自分への恥ずかしさが、"彼"の心を満たしたからだ。
「うん、おはよう!」
 そんなことなど知らずに、沙希はいつもと変わらぬ笑顔で答える、と同時に、"彼"の顔を見て思わず吹き出してしまった。
「うふふ……ねえ、鼻に泥、ついてるよ。ふふふ……」

 

「はい、タオル」
「あ、虹野さんありがとう」
 社の側にある水道で顔を洗い終えた"彼"にタオルを渡す。渡されたタオルで顔を拭く"彼"を見る沙希の顔には満面の笑みが浮かんでいた。こんな些細な行為が、今の沙希にはとても嬉しかった。ここ数日の反動だろうか。またこうして2人でいられることが、たまらなく幸せだった。
 その様子に気づいた"彼"が切り出した。
「どうしたの? なんだか虹野さん、すごくうれしそうだね」
「え、あ、べ、別に、なにも!」
 沙希は慌てて手を振り、精一杯平然を装った。もちろんあからさまに"なにかある"態度なのだが、"彼"も微笑むだけでそれ以上聞こうとはしなかった。理由はどうあれ、沙希がうれしいのならそれで十分だと思うからだ。
 ……私、あなたに嫌われちゃったんだと思ってたんだよ……。ほんとに、ほんとに不安だったんだよ……。
 沙希は心の中でそんなことを考えていた。そして、改めてその喜びが身体に感じられてくると、沙希の顔はますます赤みを帯びていくのだった。
「そ、そんなことより、練習、してたんだね……」
 気を取り直して、沙希は話しかける。
「昨日、練習サボっちゃったからね。その分をちょっとでも取り返さないと」
「うん、そうだね」
「そういえば。虹野さん、いつまでもここにいて大丈夫? 他になにか用事があるんじゃないの?」
 "彼"は思いついたように切り出した。
 前日に熱で倒れたにもかかわらず、こんな朝早い時間に外出しているのだ。朝練のことは沙希に話していない。ならば「なにか用事があるのだろう」と考えるのは当然だ。
「え!? あ、えっと、う、うん、その、別に用事ってわけじゃなくて……そう、朝の空気を吸いたかったから……」
 突然の質問に沙希は慌てた。「神社にミサンガの願掛けに来た」とは言えない。試合直前まで、ミサンガのことは秘密にしておきたかったのだ。
「そうなんだ。オレだったら朝の空気より睡眠をとるなあ」
「ふふふ。そんなこと言って、こうやって早起きして練習してるじゃない」
「まあ、そうだけどね」
 "彼"は飲みかけのスポーツ飲料が入った缶を手に取ると、それを一気に飲み干した。
「よし! 休憩終わり!」
 "彼"は空き缶を社の石垣の上に置くと、首にかかっていたタオルをそばに置いてあるスポーツバックの上に投げた。そして、足元にあるボールを、手製のゴールの方へ軽くポンッと蹴り出した。
「うん、がんばってね!」
 我ながら単純でありがちな言葉だと思う。でも、沙希の1番好きな言葉。1番気持ちがこもる言葉。
 がんばってね……。
 朝日を浴びながらボールを蹴る"彼"に向かって、沙希は祈るようにつぶやいていた。

続く

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