「人間の条件」と「背教者ユリアヌス」

エッセイの目次へ戻る

物語は葛藤の中に生まれる、といわれる。戦争は、世にある葛藤のなかで最たるものである。だから戦争の物語は多い。当然、その主人公の生き様はドラマティックである。

五味川純平「人間の条件」の梶と辻邦生「背教者ユリアヌス」のユリアヌス帝。ふたりの英雄は、いずれも理想を求め、時代の波に個として立ち向かい斃れてゆく。斃れゆく最後の場面が、いずれも曠野の戦場であってドラマのクライマックスである。

梶は、満州における戦時の不条理のなか、人間の尊厳、良心を貫こうとして、超人的ともいえる選択を繰り返しどこまでも生きようとするが、ほとんど必然的に不条理の波に飲み込まれ冬の満州の雪原に息絶える。

ユリアヌス帝は、古代ローマの後半、今から言えば帝国の衰退に向かっていた時期、意に反する運命の悪戯か、当初可能性がほとんどないと思われた皇帝にまでなってしまう。国教とされていたキリスト教でなくギリシャの多神教を復活させ、そして秩序と正義を実現しローマ復興の基盤とすることを模索しつつ、周辺諸国に戦乱の矛を交えることとなる。そして、終に、メソポタミアの沙漠の熱砂の中、ペルシャ兵の投げ槍に射抜かれて息絶える。

いずれも、有能な人物が、働き盛り、これからという年齢で、厳寒の雪原か熱砂の荒原かの違いはあれ、貴いものを守り新たな秩序を実現しようとして歴史の流れに抗しきれずに命を終える。

民衆の多くは、たとえ守るべき貴いものが目の前にあったとしても、梶のような強靱な心身やユリアヌスのような学識と地位を持ち合わせない故に、世の荒波の前でそれを守り通せない。しかし、これら両長編から、壮大なドラマ、物語を多いに楽しむと同時に、図らずも共通して見えてくる人間の生き様が、ささやかなりとも、人生や社会のいろんな側面で思い出されて勇気というかエネルギーというか、そんなものを意識するしないにかかわらず与えている、と思うのである。

このようなふたりの共通点を見たあとでは、違いをも見ておく価値があると思う。ふたりは、共に歴史の流れの中でドラマチックな死を迎えたのであるが、生きていたときに目指したところは、片や、歴史が間もなく正と結論を出し、片や、歴史の流れについぞ現れることなく今に至る。この違いをどう評価するか、これは簡単でない。ユリアヌスの理想は、ヒョッとすると西欧ルネッサンスが実現したとする解釈もあるかも知れない。しかし、西欧を覆う宗教の主流はキリスト教である。もし、多神教の精神が顕現するとすれば、多宗教の共存が西欧のどこかで実現したときかも知れない。

梶の理想も、何%が実現したか、あまりそれは高い値でないとすれば、理想の実現には、なんと長い年月を必要とするものだろうか。これは、また両者の共通点である。

エッセイの目次へ戻る