『土の記』を土の視点で読んでみる, 2017/2/18
Amazonレビューをはじめに載せます。これだけでも、要点はつかめます。
「土の記」なのだから、土に焦点をあてて読んでみます。そうすると・・・・・・。, 2017/2/18
上下巻を通してレビューします。
老農である主人公伊佐夫の日常において、「土」は一般人よりよほどウェイトがかかっています。土壌断面の模型=モノリスを三面ももっているところなどは土の専門家の域さえ脱しています。まだ上巻冒頭に近い個所で、自家のすぐ上の「崩れた地所の斜面の一部で水の通りの悪いグライ土の灰白色のB層を見た。この辺りは典型的な褐色森林土であり、B層は花崗岩の薄黄色い集積層がふつうなので、思わずアッと声が出た」のです。この斜面が土石流などを起こす可能性があるグライ層に覆われているからなのです。また、その斜面上部の鞍部には長年植えてきた800本に上る茶樹がしげり、土壌断面を見ると、かなり深くまで根が張って土層を深くまで抱えこんでいます。その下に拡がる杉林が根をほんの表層にしか張っていないのと好対照です。長期的には、杉林の間伐をして茶が下層樹として茂るようにしていれば土石流も起こりにくいと考えられるのです。さらに、2011年の夏は例年に比べ桁違いの雨が降ったのですが、崖から水がしみ出ていた個所を村人が確認していたにもかかわらず、予算のことなどを慮ってそのままにしてしまったのです。
伊佐夫と村人は、知っていながら行動に移すことをしませんでした。そして、結末のカタストロフを許してしまったのです。百三十年ほど前に、「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」(傍点あり)といったのは、F.エンゲルスでしたが、このことは、伊佐夫に対してもそのままいえることです。自然災害の多い日本にあって日頃から深く考えておくべき主題でしょう。
以上を、もう少し詳しく書くと以下の通りです。
『土の記』を土の視点で読んでみる, 2017/2/18
高村薫『土の記』の雑誌連載が終り、単行本になったのを機に、文芸誌、主要新聞に文芸時評や書評などが現れた。それらを読んでみて気がついたことは、それらの多くが、本書が「土の記」と称しているにもかかわらず「土」についてほんのわずかしか触れておらず全く触れずに終わっているものもある。「土」との関わりで本書の主題を論じたものは皆無であった。評者は、かつて現役時代には、土壌学の研究者であったので、そのことにたいへん不満を感じたのである。そ 主人公伊佐夫は、大手電器メーカーのサラリーマンのまま、奈良県大宇陀漆河原の農家上谷家へ婿養子に入った。妻昭代は、農業を女手一つで担っていたのだが、一七年前、交通事故にあい植物人間となった。彼女の介護は、その事故をきっかけに中途退職した伊佐夫が担ってきた。しかし、彼女は半年前に亡くなった。妻の事故後、伊佐夫は会社を辞め、農業を継いできた。一人娘が、アメリカに娘と住んでいるが、現地で獣医と再婚した。伊佐夫は、土が好きで、学生時代に作った土壌断面の模型=土壌モノリスを3枚持っていて、機会があると現地で土壌断面を眺めている。本書は「土の記」なのであるから、以下、土と伊佐夫のかかわりを中心に物語を読んでゆこうと思う。こで、本稿においては、「土」に重点を置いた読み方ができることを本書の記述をお借りしながら示してみたいと思う。
伊佐夫の日常において、「土」は一般人よりよほどウェイトがかかっている。冒頭からさほど離れない個所で、「崩れた地所の斜面の一部で水の通りの悪いグライ土の灰白色のB層を見た。この辺りは典型的な褐色森林土であり、B層は花崗岩の薄黄色い集積層がふつうなので、思わずアッと声が出た。標準の土色帳で10YR7/1、もしくは7/2あたりの色。昼間から幻覚を見ていたのでなければ、時間のあるときにいま一度、表層からC層までの重なり具合を観察してみなければならない。田んぼではないので作土の鉄溶脱層ではないし、もちろんポドゾルでもない。ひょっとしたらあの辺りには一部に粘土層が入り込んでおり、雨水や、あまり分解が進まない表層の落ち葉などがつくる有機酸によって、鉄やアルミの溶説が例外的に進んだのかもしれない」と、かなり専門的な思考を展開し、行動をもとろうとしている。「そうして伊佐夫は、養分の抜けたぼそぼその灰色を額の裏に貼り付けながら、またしても何かに似ていると思いつくと、グライ土の灰色はいつの間にか昭代の皮膚の色にすり変わっていた」とも書かれている。昭代の皮膚の色はともかくとして、実は、この専門的記述、特に前半のそれは、伊佐夫とこの地域にとって重要な意味をもっていて、後に記す通り、「表層からC層までの重なり具合を観察」することを怠ったツケが、本書末尾の記述につながってゆくのである。
伊佐夫は、東京の大学で表層地質学を専攻したらしい。その地質学ゼミの栃木県日光での巡検に参加し、その辺りの地層や土壌の断面を観察して歩き、その時の記念に、土壌断面を切り出してモノリスと呼ばれる断面模型を作成した。「たまたま採取した場所がよかったのか、分厚い今市軽石層の風化した赤い表層と、粘土質の黒い北関東ローム層が見事な層を成していて、うつくしい黒ぼく土のモノリスになった。半世紀が経って全体に褪色が進み、白木の枠も見る影もないが、闇のなかに今市土の赤みがかすかに浮かんで見えるのは、自分がまだ半分夢のなかにいるということかもしれない」。いまでも、他の二枚のモノリスとともに手近に置いている。他の二枚とは、「どうしても採取したかった長野県木曾郡の山地の、朽ちた人骨のような灰白色のポドゾル性土。そしてもう一枚は、茨城県の水田の土地改良工事のときに採取したグライ土。灰色の作土のA層の下に、稲の根が運ぶ酸素で酸化した鉄の、水田特有のサビ色の縞がある」というものである。「三重の松阪にある農業研究所の土壌モノリスを見に行く時間をなんとか工面できないかと考え」たりもする。さらに、伊佐夫は「大宇陀の山間に自分の骨を埋めると決めた理由は、武蔵野の国分寺崖線から続いている土の話なのだ、なんと仕合わせな人生だろうかと唐突な感慨に耽」ることもある。(ちなみに、本書カバーの写真は土壌断面の写真であり、上下巻ともに、黒ぼく土と褐色森林土と推測される。)
伊佐夫は、東京の大学で表層地質学を専攻したらしい。その地質学ゼミの栃木県日光での巡検に参加し、その辺りの地層や土壌の断面を観察して歩き、その時の記念に、土壌断面を切り出してモノリスと呼ばれる断面模型を作成した。「たまたま採取した場所がよかったのか、分厚い今市軽石層の風化した赤い表層と、粘土質の黒い北関東ローム層が見事な層を成していて、うつくしい黒ぼく土のモノリスになった。半世紀が経って全体に褪色が進み、白木の枠も見る影もないが、闇のなかに今市土の赤みがかすかに浮かんで見えるのは、自分がまだ半分夢のなかにいるということかもしれない」。いまでも、他の二枚のモノリスとともに手近に置いている。他の二枚とは、「どうしても採取したかった長野県木曾郡の山地の、朽ちた人骨のような灰白色のポドゾル性土。そしてもう一枚は、茨城県の水田の土地改良工事のときに採取したグライ土。灰色の作土のA層の下に、稲の根が運ぶ酸素で酸化した鉄の、水田特有のサビ色の縞がある」というものである。「三重の松阪にある農業研究所の土壌モノリスを見に行く時間をなんとか工面できないかと考え」たりもする。さらに、伊佐夫は「大宇陀の山間に自分の骨を埋めると決めた理由は、武蔵野の国分寺崖線から続いている土の話なのだ、なんと仕合わせな人生だろうかと唐突な感慨に耽」ることもある。(ちなみに、本書カバーの写真は土壌断面の写真であり、上下巻ともに、黒ぼく土と褐色森林土と推測される。)
そのような伊佐夫であるから、土との一体感を持っていることは予想がつくところであるが、それらを本書の記述から拾いあげてみよう。
昔からの農村であるから、農家の人たちは、都会人とは比較にならないほど自然との一体感を持っているのであるが、伊佐夫の場合は、それに加えて土との一体感が強いのである。既述の、退院した病院の玄関を出たとたんに「全身の毛穴がバリバリ音を立てて開いた」などは、その典型的な例であるが、それ以外にもいくつもそうした例が描かれている。「夜半に降り出した柔らかい雨は」、「明け方ふと雨音が絶えたのに気づいて息をひそめる伊佐夫とトイ・プードルの鼻腔へ、たっぷり水を吸った土と、そのなかの微生物や、草木の根や地衣類の匂いを運んでくる」。「週日の午後、男と犬一匹はいつの間にか土の一部になり、風景に溶け込んでい」て、郵便配達夫も単車で走りぬけてゆくヘルパーのおばさんも、通りすぎてからアレと気配を感じて振りかえるということになる。そんな感じは、しかし、農業に携わったはじめから身についていたものでなく、例えば、水稲栽培の水管理も肥料のやり方もまったく試行錯誤でおぼえてきたように、徐々に体得してきたといってよい。だから、「昭代の身体の一部だった農事と土と自然のすべてが、確かに自分の身体にも滲み込んだのを感じる。しかし、よそから紛れ込んだ亜種がせいぜいだったのかもしれない」などと思ったりするのである。そして、「栃の木陰でペットボトルの水を呑む男は、しばし自身が水を吸い上げる植物の根になったような感覚になり、光合成で行われる電子移動において、水こそが電子の供給源になっていることに感嘆を覚えて、ほうと深呼吸をする。もっとも、光合成における水分解の仕組みの全容を、人類は解明しているわけではない」などととインテリの片鱗をひらめかすこともある。
三・一一東日本大震災も、伊佐夫には土を通じて感じとられるのである。その日は、昭代の妹の久代の勧めで、一族で大阪のフラダンスのショウに行っていた。帰り路でも帰村してからも東北からの情報が飛び交い、数日たつうちにニューヨークの娘一家からはアメリカに来ないかという誘いさえあった。その季節、大宇陀でも作付けの準備に忙しい。伊佐夫も里芋の種芋を播くのに忙しくしている。「そういう伊佐夫は、二十時間ほど前に八百キロ北東で人間の想像を絶する地殻変動が起きたことを十分に理解してはいるが、その影響がいまここにある大宇陀の土や生きものにまで及ぶという想像には至らない。なぜか。地球物理学や地質学上の知見がどうであれ、そんな想像はもはや人間一般の思惟の範囲を超えているから、というのがその答えだ」。「ロータリの回転音を響かせながらトラクターを行き来させるうちに、大津波に洗われた三陸沿岸の農地でもいまの季節は荒起こしのトラクターが忙しく行き交っていただろうと思い至り、訪れたことのない夢想の田んぼが脳裏に広がってゆく」。「もしも自分が・・・トラクターを走らせているのが気仙沼湾を望む田んぼであったなら、いまごろ自分はこの世にいない。そう思うと、被災地の死者たちとその遺族の、数万、数十万、数百万の<もしも>が胸元までせり上がってきて大地が傾き、めまいを覚える。/否、それは急速に雲が流れ去って日が差し込んできたせいだったかもしれない。眼の前の棚田が光の池になり、ロータリで掘り返してゆく土がさざ波になり、伊佐夫はほうと溜め息をついているが、続いて、眼の前に広がった光の池は数秒、津波が退いて高く日が昇った被災地の光景になった」。春から夏にかけ、伊佐夫は、類似した心象を心に浮かべ土に対していたに違いない。
農村の日常の中に入り込んでみれば、もっとディープなフォークロアの世界を垣間見るようなこともある。そのうち、ここでは、土と関わりのある事どもだけを見ておきたい。
昭代が事故にあう直前の言動を思い出しつつ、昭代は「彼女にしか聞こえない声、代々上谷の女たちが聞き、土地の者たちもその谺ぐらいは聞き取ってきた、この足の下の土から湧き出てくる声に従い、彷徨し、最後は呑み込まれたということなのだ、と」考える。昭代と正面衝突したダンプの運転手山崎邦彦の母親は事故の直後から、「病院から直線距離にしてニキロほど北東にある榛原戒場の自宅から徒歩で来ていたらしい」のだが、「息子は悪うない、邦彦は悪うない、廊下で誰かれとなく捕まえてはそう繰り返し、病院の職員に連れ出されながらなおも、息子は悪うないと叫び続ける。その声は謂わば戒場の田んぼから湧き出し、病院までの街道に点々とまき散らされながら病院に達した末に、意識不明の昭代とその夫を包囲するだけでなく、それを聞いた人びとの内耳にしばし棲みつき、増幅され変調された末に風や田んぼや草木の音のなかへ排出される。そして、それをさらに聞き取る者、聞き取って排出する者がおり、そのつどおばあの声は増幅と変調を繰り返してきたのだが、十七年目にして当の昭代も山崎も山崎のおばあも死んだいま、それらは戒場や漆河原の杉山の湿った腐葉土の下の水音、あるいは重く頭を垂れた稲穂のざわめきに紛れ込み、その声を聞き取る者、交感する者はもうわずかしかいない」のである
一軒おいて隣の娘ミホが妊娠し産気づいている。それなのに「今夜は消防がどんなに問い合わせても妊産婦の救急外来を受け入れられる病院がないらしい」という。そんな事態も、「何やら神がかりな出来事でも起こりそうな奇怪な興奮へと姿を変える」。「ミホが発する血の臭いは」、「刻々と濃くなりながら漆河原の土と空を覆い尽くしていった」。「ミホの双子は」、「土と山の生きものたちを血と体液の臭いで押し包みながら、まるで黄泉路から拾い上げられるようにして生まれ落ちようとしているのだった」。
ある日、伊佐夫は上谷の家代々の墓掃除をした。「名も知らぬ遠いご先祖たちの石を、掘り出せるものは掘り出して、そのつど湿りけのある褐色森林土と土壌有機物の濃厚な匂いを嗅いだ。明治以降で石塔は夫婦に一つ夫婦石として建てるようになった」。「伊佐夫は昨夜、自分も七十を越えているのだから、早いうちに昭代と自分の夫婦石を建てるべきではないかと思い立った。どのみち自分が死んで家が絶えたあとは、いずれ傾いて土に埋もれてゆくのだ。何を遠慮することがあるか、と」。
これらの記述に見られるように、フォークロアの中の土は、うっかりすると読み飛ばしてしまうのだが、伊佐夫の中では、しっかりと意識されるのであって、伊佐夫が描かれるときにはリアルなものとなる。
多くの書評では、物語の結末は明かさないことが多いのだが、本稿は、この物語を読むときの視点、土の視点から特徴を追ってゆこうとするので、結末にふれないわけに行かない。二〇一一年八月の末から九月はじめにかけ台風十二号はこの地方にも多大な損害を与えた。「上北山村の観測所で降り始めからの総雨量が千八百ミリに達した三日から四日朝にかけて、県内の山間部各地で地形が変わってしまうほどの大規模な深層崩壊とそれに伴う土石流が多数発生し、集落や道路や橋が押し流されて、県内の死者・行方不明者は二十六名を数えた。そこには、大宇陀漆河原の二名も含まれる」という結末である。
土石流に襲われる可能性ないし前兆はあった。伊佐夫は、「一億年前にマグマが隆起してできた領家変成岩類の上に第三紀層の室生層群の溶結凝灰岩が載っているような土地に、裂か水や崩落性の地滑りの可能性がないわけもなし、と考えて」いるとともに、「人間の知見や経験よりも、数万本もの杉や土や生きものたちの集合の記憶がこの皮膚に滲み込み、ひたひたと細胞を満たしながら、何事かを人問に知らせてゆく」ような気もしている。伊佐夫の住む家の上には杉林が拡がっている。「根張りの浅い杉には、傾斜角三〇度の急斜面を十分に保持する力はない」ことを知っている。その年初めて杉山の斜面に出水があった。その後、農民は、再三にわたって災害の可能性や土木工事の必要性をを語り合っているのである。しかし、資金の心配で壁に突き当たり、結局は、「現状認識は不安未満のなにものかに留まり、危機感も長続きはしない」のであった。
土石流の予防ないし対応への可能性もなかったわけではない。本稿冒頭近くにも書いたことであるが、伊佐夫は、「崩れた地所の斜面で水の通りの悪いグライ土の灰白色のB層を見」つけて「思わずアッと声が出た」。「ひょっとしたらあの辺りには一部に粘土層が入り込んで」いて、それがもとで地滑りなどを起こす可能性があると伊佐夫は感じており、「時間のあるときにいま一度、表層からC層までの重なり具合を観察してみなければならない」と伊佐夫は考えていた。
「峠道のすぐ下に、広さにして一反ほどの鞍部がある。斜面から張り出したそこには周りに倒木があっていくらか日が入るせいか、古くから茶の木が自生しており、伊佐夫は上谷に婿入りした一九七〇年にそれを発見すると、自分で杉の間伐をしてさらに光を入れたのだった。五年後には種を採取して育てた苗を植え始め、三十六年目のいまでは八百を超える株がある」。「鞍部の先端が自然に崩落して覗いていた地層の、ほとんどC層の深さにまで張った茶の木の根にはいつも驚嘆する。地表の下の花崗岩が母材のB層でも、すでに土の団粒も消えて生育には厳しい環境なのに、それよりさらに深くに根を張り、岩盤を割ってまで生長し続ける」。表層のみに根を張る杉とは大違いである。長期的には、杉の間伐を進め、林床に茶の群落を作り上げることは、その深根性故に地滑りなどの防止に役立つ可能性がある。緊急には、砂防工事などを行う必要もあったのであるが、それらを動かす指導者は伊佐夫の近くにはいなかったようである。
伊佐夫は土の知識を有していたが、それは、結局、実践に生かされることがなかった。インテリの優柔不断だったのかもしれない。それが自らの命を奪ったのであるから、自業自得と言えなくもないが、そういってすますには人間の命はあまりにも重いのではなかろうか。百三十年ほど前に、「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」(傍点あり)といったのは、F.エンゲルスであったが、このことは、伊佐夫に対しそのままいえることである。自然災害の多い日本にあって日頃から深く考えておくべき主題であろう。
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「土の記」
高村 薫著 新潮社