没後10年辻邦生展 in 軽井沢

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たくさんの木々と芝生の緑に包まれた歩道をたどって軽井沢高原文庫のドアを押して入ると正面に、二階に向けた階段が見える。チケットを買ってその階段を登る。登りきるとやはり緑がガラス越しに飛び込む。斜面をうまく使って建てられているので、2階のドアを空けるとそこでまた芝生や土の小径が眼に入る。庭は、手入れがほどよく行き届いていて好もしい。軒下のベンチに腰を下ろして庭の緑を眺めている客もいる。

辻邦生の作品には、今まで随分親しくさせてもらってきた。影響されてきたといってもよいだろう。その辻が亡くなって、早くも10年。それを記念する展覧会が軽井沢で開かれていると知ったのは、インターネットで調べものをしていてのことだった。新潟県で行われていた「大地の芸術祭」と併せて行ってみようということで、そちらを観た後、妙高高原を経由してここに来たのである。

室内に戻ると、展示場として広くも狭くもない感じのフロアーが階段をぐるりと取り巻いて眼に入る。耳には、エリック・サティの「ジムノペディ」が小さな音で入ってくる。「楽興の時 十二章」に添付されていたCDで聞き慣れた旋律と演奏である。私は、ぐるりと見回してから、子ども時代の辻邦生の写真がパネルに見える一画からゆっくりと見始めた。

この日は、朝から雨が降ったり止んだり。高原文庫だけの予定なので、ゆっくり見学できる。パネルや展示品の記述を読み、写真や縁の品を眺めながら回る。おおむね年代順、分野別に展示されている。軽井沢にある辻の山荘からいくつかの品を持ち込んでもいる。たとえば、立って本を読むための机なんぞがある。説明によると、眠くならないためのものだそうである。なるほど、と思うとともに辻のユーモアを思う。お気に入りの帽子は白っぽい生地でできているカウボーイハット。

辻の作品には、時々、特装本が発行されている。「風塵」「嵯峨野明月記」「天草の雅歌」など何種類かが並ぶ。垂涎ものは、限定20冊発行の「背教者ユリアヌス」の特装本、開いたページはまるで古代の焼失した書庫から助け出されでもしたような燻った色で縁取られている。チェコ語訳、ポーランド語訳の作品も飾られていた。

「背教者ユリアヌス」限定特装本

壁には、大きな世界地図と、その中に拡大日本地図を貼り付けてあって、辻が訪れた場所にシールを貼ってある。地図の片隅に、年表風に何年にどこを訪れたなどと記されている。それらを見ているだけで、旅好きな私には面白いのだが、眺めているうちに気がついたのは、北海道に行ったのが意外に遅いということであった。46歳の時に、始めて北海道に行き道北の旅をしている。彼が、宗谷岬を主な舞台とする「北の岬」を出版したのが、年譜によると41歳の時である。さらに展示写真を見ていたら、「安土往還記」を書いてから後に安土城の跡に立った、ということが示されていたし、帰宅してから、ある書物(菅野、1978)に載ったアルバムをひっくり返していたら、「天草の雅歌」の執筆後、同地の紀行文を書くため天草の遺跡をめぐったと説明された写真が眼にとまった。

辻邦生は、旅行好きでも知られていて、自身多くの地を旅しており、作品の中でも世界のあちこちが舞台となる。しかし、行ったことのない場所を舞台に作品を書いていることがあったとは、今まで気づかなかった。あるイメージとしての土地を作品に書く場合、そこに行っていない方が鮮明なイメージを紡ぎ出せるということなどあるのだろうか。やはり上記書物(菅野、1978)には、「プルーストの故郷イリエを訪ね、小説と現実の差異をさまざまと感じる」という記述もある。あるいは、もっと別の何か考えがあるのだろうか。これは、私にとってひとつの課題となりそうである。

いくつかの作品のコーナーには、創作ノートのサンプルが並べられていた。「夏の砦」のコーナーでは、作品のキーになっているグスターフ侯のタピスリをめぐるノートが箇条書きに書かれており、主人公支倉冬子が子どもの頃過ごした屋敷の見取り図が大きめの紙に事細かに描かれている。これを見たとき、私は、辻の創作の緻密さを見た思いがした。辻は、そうしたものを常に座右に置いて作品を書いていたのであろう。上記のアルバムには、書斎で「春の戴冠」の年表を縦長に本棚にぶら下げ、それを背景に撮った写真が掲げられていて、「五年のあいだに紙は黄色く変色した」と記されている。これらノートの類は、新潮社の辻邦生全集にも収録されていないのだが、間違いなく膨大な量にのぼる。これらは、辻作品を深く理解するには有効なデータであるに違いないが、その緻密な作業を思えば、まずは彼の作品の豊饒さに合点がゆくというものである。

分野別コーナーでは、彼の映画好きは思っていた以上にすごいことを再認識した。たくさんの映画を試写会で観ているという記述があったのだが、ということは、そうなるまえに既にたくさん観ていて、批評をいろんな雑誌などにたくさん書いていることがしのばれるのである。彼の関心は広く、音楽、美術といった文学に隣り合う世界は勿論のこと、例えば「辻邦生が見た20世紀末」を読むと、植物などの自然とその移りゆきから政治までにも及ぶ。ここからも豊饒の源泉が見えてくるのである。

辻が、あるエッセイに、カキドオシという植物を知ったときのことを書いている。そこにはご夫妻でユーモラスに語ったことが書かれている。カキドオシとはふたりのことだという。その中身がふたりで違う。邦生は「書き通し」、佐保子は「掻き通し」だという。佐保子はアトピーだった。そして近年、佐保子夫人が全集に月報としてお書きになったエッセイを単行本にした、その題が「『たえず書く人』辻邦生と暮らして」。

たえず書く姿を思わせるものに彼の日記がある。展示されている日記は、ブルーのインクで書かれた端正な文字、端正なノート使い、清書のように書き直しがない。そのスタイルで、文学につき、物語につき、東西の違いにつき、あらゆることを書いてゆく。それらの多くが1日分の日記としては長すぎるくらいに長い。そこからは、彼の絶え間ない端正な思索を想像させられる。

それら展示品を総じてみると、彼の身を削るがごとき創作、綱渡り師のような緊張した力業としての創作の様子がしのばれるのである。たっぷりと辻の世界に触れたあとには、辻邦生の姿を生き生きととらえ得た満足感とその作品にもう一歩近づけた満足感と、来て良かったという満足感を感じて雨の降り止まない前庭に出る。広い敷地の隅に控えめに野上弥生子の書斎が移築されている。近づくと茶室風の作りである。立原道造の歌碑などもある。そういえば、高いところに堀辰雄の書斎も置かれていた。小雨の中、通りへと出て、どこからともなく集まってきたお客と一緒にバスに乗り込んで緑溢れる軽井沢を味わいつつ帰ってきたのであった。

参考資料:菅野昭正編(1978) 作家の世界 辻邦生、番町書房

(2009/9/16)                    

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