俳句 その四


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山の上病院(老人病院)に、七夕飾りのササの葉に願い事がたくさん書いて下がっていました。「早く良くなりたい」「いえに帰りたい」「お金がたんとほしい」「えっちがしたい」なんてのもありました。看護師さんにおだてられたり励まされたりして書いたのでしょう。

親爺は、この病院で9年半前に亡くなりましたが、7月7日(明治35年)、浜名湖畔の小村の生れでした。その親爺が、疎開の荷物を持ち帰るリヤカーを引く自転車で、「還るツバ〜メ〜は、木の葉のお〜舟で な〜みにゆ〜ら〜れ〜て・・・」と歌っていたのを荷物の上で聞いたことをなぜか、よく憶えています。

 自慢げに 七夕生れと言いし父 今宵銀河に 孤舟を漕ぐか

                                                  (2006.7.7)

先週、ミャンマー、妻有と渡りあるいているうちに、どこかで夏風邪を拾ったらしく、今日は、無理せずに、と自家にてしずかにしつつ

 夏なれど しはぶきやみの いとどしく 雲の湧き来る 窓に凭れつ 

   
                                                  (2006.8.10)



ネットの「満州談話室」で、学校の先生の「尋ね人」があり、たくさんの書き込みがあったのですが、時代の波には勝てないらしく、

 大連の芙蓉高女の同窓会 解散せしと聞けばゆかしき

                                                 (2006.9.17)

ネット仲間のお隣でお葬式があったと話を聞いた。団塊の世代で、働き通して定年になり2年、さあこれからふたりで・・・というところで逝ってしまった。奥さんは2歳年下とのこと。

 夫君逝き 私もすぐに 行きますから・・・ 泣き崩折れる 団塊の妻
                                                  (2006.9.24)


ネット上で、ある詩人が、新しい総理大臣が「美しい国」をつくる、などと空疎なことを言っては民衆に負担ばかり強いることを嘆いたに際し、別の仲間から、民草を思う国守を思う歌が寄せられた。そこで、我も、とまねをして、上杉鷹山についての藤沢周平の小説を読んだときの感想をとて、

 民草の 日々こそ念じ 鷹山の 植ゆる漆ぞ 朱く輝く
                                                 (2006.10.4)
また、畑儀文さんの「日本のうた」を聞いたとて、詩を呉れたノーラさんの歌:

 
馴れた歌に口を合わせつ来し方を あれこれ思う今日の冬空

返歌とて

 吾()が国に生まれし旨き詩(うた)唄うその時覚ゆ美しき国
                                               


                                                (2006.11.28)


 オリオンを 成田で眺め 飛び行きて ダバオで仰ぐ サザンクロスよ

南十字星を、あれはたしかフィリピン南部のミンダナオ島だったと思うのですが、見て感激した記憶がある。日本でオリオンが見える今も、南の島々では、あのよつ星が輝いているわけである。機会があれば、どこか南の国へ行ってまた見てみたいものである。
                                                 (2006.11.8)



橘曙覧の独楽吟五十二首の作風にまねて

 たのしみは 冬風強み 暖とりて 書読みつづけ 夜の更けしとき

ちなみに、曙覧の独楽吟には次のような歌があります。

  たのしみは 人も訪いこず 事もなく 心をいれて 書を見る時
                                                (2007.1.3)


 父と子は また母と子は よく似れど 父と母とは 似るところなし

然れども、

 
歳古れば することぞよく 似たりける もとは似もせぬ 夫婦なれども
                                                (2007.1.18)

 人は皆疲れるものぞ 憩うべき木陰と水と椅子をこそ置け

旅人が立ち止まって一休みしたくなるような木陰が、歩み行く(もっとも、最近は、車が向う)小径の先、田畑の一角に枝振りの良いひともとの木によって作られているのに出くわすことがある。今は、その木の下陰はササや野草に占められているものの、それらに埋もれんばかりに石塔が建っていて、よく見ると道しるべで、あちこちの村の名前が彫ってあったりする。しかし、そんな木陰は、少なくなってしまい、滅多に見ない。それだけに、出会った記憶はいつまでも残っている。かつて何人の人がここで疲れを休めたことであろうか。旅する心と旅人をさりげなくもてなす心とを思い起すために、いつまでもそんな木陰を保ってもらいたいと思う。
                                            (2007.2.10)

 「非正規」は 労働破壊 人破壊。 行きつかせまじ 焼け野原には
                                            (2007.2.17)

 咳が出て 鼻汁が出て 熱が出て クシャミまで出て 風邪はものもち
 咳が出る 鼻汁が出る 熱が出る 風邪とはまるで 打ち出の小槌

                                                (2007.3.2)


 医師・薬師・歴史・地理・和歌・宮仕え 本居宣長 萬象に生く

                          伊勢松阪 宣長資料館にて     (2007.3.21)


二年後の大地の芸術祭に向けて何をしていこうかと

 芸術と科学・民俗・村おこし 越後妻有に 集いて語る

                                 越後松之山にて     (2007.3.25)


 うしみつに 新聞バイク 長距離便 うなるを聴きて 「仕事」し覚ゆ
                                                (2007.3.27)




何やかやで半月以上乗らなかった東海道新幹線。車窓の雑木林や野原など、すっかり黄緑が増え生き生きとしている。レンゲの薄桃色もおちこち。富士のすそ野を走り抜けながら、

  田子の浦にうち出でてみればレンゲ草富士の高嶺は霞のかなた

  (2007.4.18)


松之山は南に行けば峠を越えて信濃に接するような山奥です。

松山鏡は、そんな山奥だから成り立つ話でしょう。その鏡を京に行って持ち帰り妻に与えた男が、京をよく知る家持とされたのは、当時、この地から京がいかに遠く、よほど体力か権力かを持つ人間でなければ行くことが適わない、そんな地だったことを思わせます。

もうひとつ、昔は峠が外界とつながる唯一の公式路で、現在は、鉄道と自動車道がそれを忘れさせてしまいました。峠越えの京への道は、信濃とは反対に北へのルート、高田や富山を経て京方向へ向かう道だったのでしょう。今は、ほくほく線が、東京方面からは越後湯沢を起点にこの地をかすめ金沢方面へと人々を運んでいます。北陸新幹線が通ると、この線も廃線の運命かも知れません。

  松山の峠の末に見し人は水面に映る面影に今

  (2007.7.9)


帰郷して息子と酒を酌み交わしたい、という歌友の話を聞いて、下戸の吾詠める

  酌み交わし語らんとすれど息子どもしらけて見入るテレビの球宴

  心配をすれど結構考えているじゃんとほっとして見る子らの横顔

                                                             (2007.7.15)


私は、戦中生まれですが、記憶は、進駐軍が来たことからです。親爺は、教員でしたが、児童の多くを戦地に送り出す教育に携わっていたわけです。親爺は、それを戦後、「忌々しく」思っていた様子がうかがわれました。それは、一口で言いがたい複雑な感情と見受けました。そのことは、心に秘めて最後まで口にはしませんでした。

  教え子を兵士に育て敗戦になりしあの日は驚天動地

満蒙開拓団を送り出した数は、長野県が最多で、最少は滋賀県。池田浩士さんによると、コメを自給自足できたか否かが反映しているとのことです。新潟県は第5位です。平野部は良かったとしても山間部を多く抱えていたということでしょうね。

  満蒙へ農民多く送り出しその後の村は楽になりしや

満州の写真集に寄せて

  歴史をば映す写真はリアルにて万字の書より多く語りき

                                                      (2007.7.28)


憲法記念日は、当地は朝から小雨模様でした。それが、気がついてみると雲が切れ日が射して五月の風が吹いていました。庭に出ると目に入りました

  スズランもシランもつぼみほころびぬ気付きて嬉し雨上がりかな
                                                         (2008.5.3)
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