みなぎり逆巻く出水のあと、春が来る
・・・プリーシヴィン「裸の春−1938年のヴォルガ紀行」(太田正一訳)を読んで
私は、暖国(静岡)で少年期を過ごしたので、雪国に春が訪れる姿を、たとえば「どこかで春が」という唱歌のイメージなどで勝手に思い描いていました。それは静かに訪れ、どこか長閑な風情をさえ思わせるものでした。 ところが、青年期以降を北海道で過ごすことになって、春の訪れがそんなに静かでのどかなどではなく、とてもダイナミックで速くて時に恐ろしいほどに力に満ちあふれていることを知ったのです。それは、驚きであるとともに、全く新しい自然の姿の認識でした。 まずは冬の空気に徐々に変化が見え始めます。微かな光の動き、気温の推移、水が溶け出す気配などが最初に来ます。冬の間は、日が照ったとて軒端のつららは雫を落とすほどではありません。しかし、ある日、つららの先から目に見えるほどに雫が滴るようになります。その頃、気温が昨日までと違ってきたことに気づきます。雪に閉じこめられていた木々の幹回りが溶け始めているのを発見します。 そうこうしているうちにそれらの動きは日に日に速さを増します。時々降る雪は、厳冬のそれとは違って、サラサラではなく液体の水を含んでいます。たまに吹雪になることもありますが、それは冬の寒気を呼び戻すほどではありません。新しく降った雪の上にウサギの足跡がチョンチョンパと付いていたりします。その足跡は、ウサギが喜んで大きく跳ねていることを記録しています。雪の解けた木の幹の回りに土が現れるとふきのとうが顔を出します。そうなるともう、すべての生物が生き生きと動き出します。 それらと前後して、ある朝、雪の丘の間に小さな池ができます。それは、昼の内に目立って大きな池になります。地形によっては、本物の池になります。そして、ある夜明け、それらの水がドウドウと流れ出します。深く凍結していた土壌のどこかが、水が伝えた暖かな温度のために解けて氷の大地に穴が空いたのです。水は、その穴に向かって集まり、地下に流れ込みます。地上では洪水の時のように新たな川が流れ出すのです。子どもたちは興奮してその流れを追います。母親は、あぶないからと声をからして注意を促しますが、子どもたちは面白くて仕方がありません。時に人家の床下浸水を起こすことさえあります。 それからは、一気に春に向かって季節は進み、一斉に緑が芽吹く時季が来るのですが、今は、そこまで追うことは止めておきます。なぜなら、プリーシヴィンの「裸の春」は、植物の一斉に芽生える春までは、その本で追っていないからです。それは、同じ著者の「ロシアの自然誌」でないと読めないからです。 「裸の春」でプリーシヴィンは、ロシアの大地の春の洪水を描きます。それをめざして旅をさえするのです。ロシア近代絵画を背負った画家群像の中に、春の洪水を描いた画家がおりました。イサーク・イリイッチ・レヴィタン(1860-1900)です。プリーシヴィンの訳者の太田正一さんも、しばしば彼のことを紹介しておられます。私は、彼の「春の氾濫」という絵を15年も前に、東京都美術館で行われたトレチャコフ美術館展で見てとても強い印象を受けました。それは、私が北海道で経験した北国の春の訪れの強烈な印象と合い通ずるところがあったせいだと思います。北国の春の訪れは、かように誰に対しても強いインパクトを与えるのだろうと思います。ある種の自然の力です。 レヴィタンの絵は、春らしく薄い雲がかかった淡い青色の空のもとに、雪解けでできた広い水たまりが描かれます。白樺などの雑木林が手前にあるのですが、それらの多くは水の中に生えているように立ち、水面に影を映しています。左側には水没していない高みに何本もの木々が生えています。木々の梢は心なし薄緑です。画面の奥、対岸には小高い丘があって、そこにも薄く緑がかった梢の雑木林が望めます。その丘に近い水たまりの中に農場の納屋らしい建物が2軒、浮くかのように座っています。一番手前には、小ぶりのボートが浅瀬に乗り捨てられています。レヴィタンはこの船を漕いで、この地に着き絵を描いているのかも知れません。日が後ろから照っていて、ボートの辺りに木の影が伸びています。さあ、これから緑が吹き出し、動物たちも喜び勇んではね回る春が来るぞ、と景色が呟いているようです。レヴィタンは、こうした時季のある瞬間、もっともこころをつかむ瞬間を切り取って一枚の絵に描いたのです。 ネクラーソフに「マザイ爺さんと野ウサギたち」という物語詩があるのだそうです。その詩が、この本の冒頭に掲げられています。プリーシヴィンは、その詩の舞台にどうしても行きたくなったのです。みなぎり逆巻く春の出水から、ウサギだけでなくあらゆる動物が逃れんとするところをどうしても見たくなったというわけである。そのために、子ども時代からの夢だった車輪付きの家を拵えたのでした。 その旅のメンバーは、著者の息子をふくむ3名と3匹の犬と2羽の囮カモです。車輪付きの家というか小屋付の小型トラックを駈ってモスクワ北東100kmほどのペレスラーブリから更に北東方に位置するコストロマー辺りのヴォルガ沿岸をめざします。その地に到着すると、ネクラーソフの物語詩の主人公マザイ爺さんの名を貰う老人と意気投合します。そのマザイは、ネクラーソフの詩の舞台、ヴィジー村に住んでいるのです。 「もうちょっと待てば、ヴォルガが溢れて海みたいになる」とマザイはいろいろと準備を促します。暖気と雨とともにいろんな人たちが来て、上流の氷が溶けはじめたことを伝えてくれます。彼らは、春の洪水を探検する旅に出発します。彼らは、鳥や虫や植物や蟻塚など、自然界の春を待つ姿をすっかり見極めようとします。再来したマロース(寒気)のなかで川漁師たちは大ナマズを釣り上げます。「ひかりの春」から「水の春」に移る頃、また雪が来て、自然の彫刻家よろしく、驚くべき作品群をつくりあげるのです。その後、暖気でいっそう融解がすすみ、その中でリスやクロライチョウをはじめとする生きものが活発に洪水に対応しようとします。ヘラジカなどは悪戦苦闘しています。 プリーシヴィンは、水の雫、小川の流れを見ながら水の大循環を考えます。キツツキ、セキレイ、ウサギ、イスカ、多くの虫たちなどが、ハンノキ、エゾマツ、オーク、サルノコシカケなどの中を忙しく動いています。やがて大水が来ます。彼らは、キツネの足跡から、ネズミを狩ったのだろうと推理したり、森から上がる湯気を見て森の魔レーシーを想像したりします。トカゲ、キバシオオライチョウ、トガリネズミ、カタツムリ、アリなどが登場し活発に動き回ります。漁師はカワスズキをヤスで採ってヴォトカで祝っています。犬たち、囮カモたちをつれ、ボートでカモ撃ちに出かけます。盲のヘラジカ、ガン、蛙の王女、ハリネズミが彼らの話題に上ります。水嵩はますます増してきます。ヒシクイが並んでいたり、ミズネズミが泳いできたり、トガリネズミ、ハタネズミ、ウサギ、ミンク、オコジョなどが泳いで救いの島に泳ぎ着きます。増水に苦闘していたヘラジカの群れのなかで、盲のヘラジカも何とか自分たちの住み場所に帰り着いたようです。夕映えの冠水地の回りでは、ツルが叫び、カエルが和し、クロライチョウが求愛の声を上げ、漁師の歌さえ流れてきます。 プリーシヴィンがヴォルガの春を物語るとき、登場するキャストは、このように人間だけでなく自然界のさまざまな鳥や動物、植物、茸などです。吹きすさぶ風、舞い降りる雪、流れ出す水などもそうです。それらが、「骨肉の目」=親類縁者に寄せるがごときまなざし、態度によって描かれ、それぞれが「森の階梯」と称せられる持ち場を有し、個性を持ってうごめいています。人間との間に交感が行われます。といっても、人間の想像する場面で森の魔レーシーが出る以外には、自然科学的または客観的な描写が貫かれます。いわば詩的なリアリズムです。それは、プリーシヴィンが、大学で自然科学を学んだことと相通ずることかも知れません。この本も、詩的叙情性の内に、人間をも含めた自然界の秩序、法則性の具体的有り様を生き生きとした姿で、あるべきものとして描き出しているのです。 この作品は、スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れた「1938年のヴォルガ紀行}です。出版は翌1939年です。「裸の春」は、ソヴィエトという国家体制の雪解けを暗喩するものかも知れません。少なくとも、プリーシヴィンは、ヴォルガの春のなかで、あるいはロシアの自然とともに、当時の社会の内に、解けて然るべき冬を感じていたのかも知れません。ちなみにフルシチョフがソヴィエト共産党第20回大会でスターリン批判を行ったのは、プリーシヴィンが81歳で没した2年後の1956年のことでした。 |