マルクスの上を行く人たち

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ソ連が崩壊し、東欧でソ連衛星国が連鎖崩壊した後、個人的必要もあって、資本論全3部を通して読んだことがあった。大学で、経済の講義を聴いたりして、一度は読んでおこうと、第1部の冒頭から何がしかは、何回か読んだけれど、大体はいくばくもせずに挫折し巻を閉じていた。かつては、読む必要が特に強くなかったから挫折したけれど、先般は、ある必要があって読んだので、勿論、すべて理解しなかったどころか、浅薄な理解に終わっていることは保障できるが、ひととおりは読めたのであった。

私は、高校時代の社会科の授業で、マルクスとエンゲルスが科学的社会主義を確立した、と覚えたことを思い出していた。私は、いわゆる理科系の仕事をしてきたから、科学論文も結構読んできたつもりである。文科系の書物もいくらかは読んでいた。それらに照らして、資本論はまさに科学的文献であった。論理の展開は、社会が対象であるので理科系論文と違って回りくどいほどに複雑であるのだが、その論理展開は、自然科学論文に勝るとも劣らない。中身の理解が薄いのは恥ずかしいが、このことを実感したのが成果といえそうである。

マルクス読みのマルクス知らず、という言をみたことがある。私は、資本論を読み終わって思ったものである、スターリンも毛沢東も、マルクス読みのマルクス知らずだったに違いない、と。そして、もっとも有効にマルクスを読んだのは、欧米や日本の現代指導者またはそのブレインだったのではないか、と。彼らが、もし、マルクスの言う資本主義から社会主義への発展の自然的法則性を知らなかったなら、20世紀の怒涛のような社会主義化への流れを押しとどめ、資本主義の崩壊を防ぎきれなかったであろうと思った。かれらは実践的に読んだという意味で、有効にマルクスを読んだのであった。

資本主義陣営の指導者が、社会主義への発展の自然法則を認めるか、それともそれを阻止して手にしている御利益を守り通すことをとるか、このふたつを並べてみて、これまた自然法則的に後者を選択し、そのためには、どこへ力を入れて働くべきかを的確に判断したのであった。第2次大戦後、雨後のたけのこのように生れた社会主義国を分析し、遅くない時期に、その偽社会主義化しつつある姿をつかみとり、それに対決の姿勢をとり、スターリンの収容所列島や偏った経済運営を攻撃しつつ、その進行をむしろ有利に使うことにも気がついていた。資本主義陣営の内部では、それぞれの国民収奪を続ける方法を必死で探索し続け、それを首尾よくなさなければ、負けるしかないということを切実に感じていた。

他方、偽社会主義陣営では、マルクスをキリストと同じように理解し、資本論を聖書などのように信ずべき教条として読み、枕詞に使うだけの道具に矮小化していた。学校の教科書は、我が国の社会や理科の教科書と同じように、暗記物のように使い、単なる知識に堕さしめていた。したがって、政治家も教師も、それらを実際に応用して新しい社会を創造する力など養っていなかった。人民が主人公だと口で言っても心底思う指導者などいなかった。自然法則のように、日に日に弊害が拡大し、とうとう自己分解するところとなったのであった。その時に、資本主義陣営に資本主義万歳の声があがった。しかし、彼らは、それが間違いであったことを間もなく悟った。欧米も日本も、万歳どころでないことには気がついた。その意味では、彼らもマルクスの上を行くものではなかった。

2007年の今現在、マルクスを越えて、マルクスを発展させ現代を切り開く力にしている国は存在しない。資本主義陣営はもちろんのこと、中国もベトナムもキューバも、マルクスを越したとは見えない。しかし、資本論の論理の充実度から推し量るに、世界の60余億の民の中に、それを知識としてではなく知恵として理解しあるいは方法として身につけ、その先を思い描く人間がいないとは言えないどころか、きっといると考えざるをえない。その人たちが、世界の人々の前に何かを示した時、再び怒涛のような伝播が始まらないと誰が言えようか。最近、我が国で格差社会が問題となり、労働破壊、人間破壊が顕在化し、世界的にも、ラテンアメリカや欧米で社会的動向がいろいろ変化しているのを見るにつけ、私は、資本論を読んだ時の驚きを思い出し、そこはかとなく思うのである、マルクスの上を示し、それを力に世界を動かす人たちが遠からず出てくるのではないか、と。

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