長春の給水塔  
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長春の給水塔の話ならおもしろい・・・(どこかで聞いた言い回しですね。宮沢賢治です)。

満州平原という呼び方があるのかどうか知らないが、列車や自動車で中国東北部を旅行してみると平原という印象は強い。その中を松花江とか遼河やその支流が流れている。それらは人々の飲み水や生活水の供給源となっている。地下水となって井戸を介して使われることもある。

長春が満鉄付属地になろうとしていた頃、長春にはその都市計画にみあった水量を確保できる大河がない、ということで深井戸の地下水が目を付けられ、100m以上の深井戸が掘られ特に飲料水用に使われたようである。その他に、上下水道計画の中に中水利用計画がつくられ、雨水などは下水と切り離されて独自の中水溝を通して市内の池に注がれるようになったという(越澤明,2002)。この中水利用システムは当時としてはとてもユニークだったのではないか、と思われるが、池などに蓄えられるとともに、多分、生活用水としても使われたのではないかと想像する。

ところで、長春はまさに平原の都会である。深層から吹き上げる地下水を使うと建物の3,4,5階までも水が上がるかも知れないけれど、水圧が十分でなかったかも知れない。川や池、浄月潭など貯水池の浄水は、黙っていたのでは高いところへ上がらない。圧力を掛けて一旦高いところにあげておかなくては欲しいときに使えない。油を燃やしてポンプで上げたり、夜間電力を使ってモーターポンプで上げることもある。いずれにせよ、平坦な土地に多くの人が住むと、そのような水を高みに蓄えておくタンクが必要となる。新京時代に、この地にいくつもの給水塔が作られ、ひとびとの眼に日常的に触れていたのである。それを思い出にもつ人も多いわけである。

さて、長春には、どれほどの給水塔があったのであろうか。そのような統計が現存するのかどうか知らない。当時作られていた陸地測量部製作の1万分の1地形図では、凡例に給水塔が出ているにもかかわらず、図中にその印は見つけられない。手近な資料や「満州談話室」などでよく取り上げられたのは、西広場の給水塔、南新京駅近くの給水塔のほかに、最近話題になった興安大路の給水塔、西広場に近い八島通の給水塔くらいである。

西広場の給水塔は、放射状道路が集まる西広場というロータリーの真ん中にあるので、昔から大変有名で多くの方が知っておられる。数本の足を少し開いて立っているその上に筒状のタンクが載っておりその天辺にはサモワールの蓋のようなものが載っている。この形も印象的で、多くの画家や写真家の標的になってきた。この給水塔は、大正末期か昭和初期に作られたと見えて、越澤明さんの「満州の首都計画」の本の中で、1930年ころの長春満鉄付属地の鳥瞰写真(越澤明,2002)に見ることができる。その後、ずっと活躍しており、近年は頭部の三面が広告で囲まれてしまったけれど同じ場所にしっかりと立っている。給水機能がどうなっているかは知らない。

西広場の給水塔は広告塔。その下にもうひとつ

南新京駅前近くの給水塔は、元の錦ヶ丘高等女学校に沿った場所にあったそうであるが、その駅が終戦後の引き揚げの起点に使われたこともあって、そこから引き揚げてきた多くの日本人の脳裏に焼き付いていたようである。こちらは、西広場給水塔とは形が全く異なり、筒状のタンクから何本もの足が垂直に垂れ下がって地面に突き刺さっている感じ。意匠はけっこう凝っていて芸術品を思わせる。何せ、写真を見ての印象だけで現物を見ていないので推測的な書き方しかできないのが残念である。この給水塔は数年前に取り壊されて今は見ることができない。それを惜しむ日本人も多い。

       南新京駅前(元錦ヶ丘高女校内)の給水塔(ノロさん提供)

興安大路の給水塔は、絵はがきで知ったのだが、二階建ての建物の屋上に立っているように見える。形は、西広場型である。人によっては、その建物の後ろに立っているのではないか、とおっしゃる。その絵はがき写真は多分、3,4階だてのビルの屋上から撮られていると思わるのだが、カメラのレンズの望遠効果が出ていて遠近感覚がむずかしい。それは後背に見える建造物についても言えて、確かに忠霊塔と思われる塔は意外に近く大きく見えるのである。給水塔の後ろ近くに幅広な屋根の上部だけ見えるのは、そのあたりにあった白菊小学校を思わせる。とすると、その写真は大同広場を囲むビル群の中の電電会社の屋上か窓から撮られた可能性がある。そこに勤めておられた森繁久彌さんは、この風景に詳しいかも知れない。給水塔の立つビルの右隣は、別の絵はがきに地上からの写真があって、それによると森岡洋服店とはっきり見て取れる。これだけあれば、長春に詳しい方のお知恵を借りれば、この給水塔の位置は、かっきりと特定できるに違いない。実際には、そのような方はご高齢でもあってなかなか教えていただく機会がない。

 興安大路の給水塔(李重,2005)

興安大路の給水塔には、おかしなことがあって、上述の森岡洋服店という字が写っている絵はがきには給水塔が写っていないのである。給水塔ができた時期が遅いのかも知れないが、あんな巨大なものを後からビルの上に建てるものであろうか。あるいは、あとから撤去したか。撤去の必要性といろいろな困難性をバランスしてみて撤去することになる事態とはどんなものだったのだろうか。建物の後ろに立つ説を採る方は、後方にあるのでローアングルでは写らないのだ、と言う。あるいは 、絵はがきにするのに目障りだとばかりに修正して消してしまったか。いずれにせよ不思議である。

あと一つは、西広場近くの八島通に立つ給水塔である。形は、南新京型である。これは、最近、当地を訪れた方が、ネットに写真を貼ってくれて教えられたもの である。私たちが昨年訪れたときには、広告塔になってしまった西広場給水塔はしっかり見て、みんなで確認してきたのだけれど、その時の私たちの目的は旧西広場小学校(現、第七二中学)にあったので学校から給水塔に一旦近づいて、手前でまた学校方向へ戻って行った。そのため、広告塔はいやでも目に入ったのだが、この南新京型の給水塔には気がつかなかったのである。しかし、広告塔を撮った写真をあらためてながめてみたら、写真の一部、広告塔の向側に偶然この頭部が写っていたのでビックリした。それほど近い場所にあるのである。敷島高女の八島通を挟んだ向側である。

  西広場近くの八島通に建つ給水塔(鴨緑江さん提供)

これらふたつの給水塔が、どうしてこんなに近いところにあるのか。本当のこと は知らないのだが、勝手に想像してみた。西広場給水塔は、満鉄と関東軍が建てた。しかし、八島通給水塔は、立っている一角が海軍武官府など海軍の施設である。つまり 、海軍と陸軍は満州平原で同じ水を飲めなかったのかもしれない。本当だろうか 。

参考文献
越澤 明(2002)満州の首都計画、ちくま学芸文庫
李重(主編)(2005)偽”満州国”明信片研究、吉林文史出版社、長春


謝辞:写真の使用をお許しいただいたノロさん、鴨緑江さん、および本件に関し「満州談話室」でご意見等を交換いただいた方々に深謝します。

               長春の給水塔(続)へとぶ

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