格差社会のなくし方

エッセイの目次へ戻る

いざなぎ景気を上回って好景気が長く続いているという。一方で、どこが好景気なの?という疑問が民衆の間ではもっぱらです。格差社会といわれて、いろいろな解説がされていますが、どうやら大きな会社とそれにまつわる一部の人の懐にお金が集まっているというのが本当のところなようです。テレビで伝えられるところによると、大多数の人々の所得は、好景気といわれる時期を通して横ばいなのに対し、大企業のそれは右肩上がりなのです。

考えてみると、この世の中、普通に商売していたらそんなに儲かるはずがありません。トヨタにしても、絞り上げた雑巾からさらに水を絞り出すように、搾り取れるところからはほんのわずかでも搾り取る「努力」を積み上げているところが「すごい」のです。

大銀行の場合は、バブル時期の不始末を公的資金なるものの力も借りて建て直し、一方で利息をほとんどナシに等しく抑えて数百兆円を浮かせてきたといわれています。そして、大きな利益を上げることになったのです。

そして、規制緩和などとうさんくさい言葉使いで、偽装請負、ホワイトカラー・エクゼンプションなどに代表される、文字通りの搾取労働法制などで、政府がそれを後押しするのです。

大企業は、あたかも自分の努力で利益を上げているのだから誰からも文句を言われる筋はない、と言うでしょうが、それは違う、と思うのです。この世の中、他人様のお陰無くして経済活動は不可能ではないでしょうか。それを認めないときには、民衆から、私たちを踏みつけてかすめ取った利益ではないか、という声があがるのです。

所得の再分配が必要ではないか、という意見が出始めています。泡銭は広く還元せよ、というわけです。貧困が、こういう形で広まっている時代において、企業の社会的責任として貧困を無くし健全な高度社会を築くことを企業が考えないと、次の社会における再生産が保証されない、そのことに気づくべきではないでしょうか。財界も、後は野となれ式でなく、長い目、文明史的長期戦略をもってかからないと未来世代に顔向けできませんぞ。

21世紀最初の四半世紀の日本では、この課題がきわめて大きなものとして議論されるのではないでしょうか?その時、それをすすめる舞台が見えないことは、当面の問題と考えられます。私見では、労働組合が元気になることが必要で、それがもっとも早道だと思います。

20世紀の最後の四半世紀、財界が、労働運動を敵視してその弱体化を進めてきて、今や組織率が2割を割っています。そのような中で、一方的に「使」側が勝ちをおさめた格好です。それは、現在の格差社会を生む原因ともなって来たのです。「労」側が弱体化したことは、社会的には良い結果を生まなかったと判断できます。つまり、労使の関係は、どちらかが無くなってしまったら良くないのです。

例えば茶碗は、陶器と思われがちなのですが、実は、老子も言っているとおり、陶器が形作る洞も茶碗の必須な部分なのです。もし洞がなくて陶器の玉のような塊だったら茶碗の用をなさないのです。おいしいお茶を入れておく場所が無いのですから。労使もこれと同じで、どちらがどちらとも言えないように相互に相手を前提として存在が保証されるのです。ここでは労使関係論に、これ以上踏み込みませんが、そのような労働組合の運動が活発化することがもっとも正常な道だと思われます(なぜ労働組合か、は稿をあらためようと思います)。

労働組合が中心となって国民的運動を展開し、そのなかで不当な格差のない豊かな社会を考え出すことが出来れば、バランスが採れた社会となる可能性が高いと考えられます。今から、準備を始めてもそう簡単には進まない。10年、20年の見通しのもとで進める壮大な運動だろうと思います。ぜひ、そんな動きが進むよう願いたいものです。

エッセイの目次へ戻る