いま、なぜ老子か?

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老子の現代性・先進性について考えてみます。

老子に、その英訳本から入り、ご自身も詩風の訳をものし、今や、その道を実践しようとしておられる加島祥造さんが、「老子までの道(旧題:いまを生きる)」という本で、「いま、なんで老子やね」という章をもうけ、いくつかの場合にいくつかの老子の言葉が今を生きる指針になる、というお話をされています。

「いま、なんで老子か」は、宇宙にとって、世界にとって、君にとってなどいろいろに問いかけられる、と言いつつ、宇宙会議があったなら、地球代表は老子こそふさわしい、と言っておられます。道徳経の第1章は、まさに宇宙と地球の人間を結ぶエナジーを謳っていて、そのエナジーを老子は道(タオ)と呼んだのだ、それをもって地球を代表できる、というわけです。

加島さんは、そのあとで、地球にとって今、何がもっとも大切なことか、として、「不争」をあげておられます。地球上には多くの争いがあります。それらは、タオのエナジーの発現の一端ではあるけれど、「むだづかい」「乱用」であって、自然はそんな愚行はしない、この「不争」をこれからの人間が守るなら、地球上のほとんどの問題は解消し、地球上の人間は生き延びるであろう、と述べておられるのです。世は競争社会といわれます。その時の競争は、どのような争でしょうか?近年分かってきたことは、少数の富者は一層富み、大多数の貧者は一層貧しくなる競争であるということです。「不争」はかみしめてみたい言葉です。

つぎに、日本人にとっては「自足」がポイントではないか、と言っておられます。道徳経では「知足者富」です。富というとき、老子は心の内側のものまで見て「富」といっている。「内なる自由」を見出したとき、人間は真に豊かで富んでいると感じるだろう、というのです。食料を海外に求めている日本の姿は、真に豊かなものとはいえないでしょう。経済は、環境をその領域の外のものとして考慮しないなどは、豊かで富んだ姿とはいえないでしょう。経済の時代から環境の時代へ、ということは、どうやらそのことを指しているようです。「足る」もかみしめてみたい言葉です。

さらに、「弱は強に勝ち、柔は剛に勝つ」を加島さんが大好きな老子の哲理である、とも言っておられます。私は、多くの中からひとつをあげるとすれば「絶學無憂」も、とても現代的、先進的だと読んでいるところです。

ことほどさように、老子の言ったことをよく読んでみると、現代への警鐘であったり、未来への道標であったりすることが随所に出てくるのです。加島さんだけでなく、多くの知恵者が老子を薦めておられます。老子を本業に研究した方々のほかにも、湯川秀樹さんは、素粒子論のみちびきに老荘思想をよくお引きになっておられることは有名です。人生論としてお読みになる方も多いと聞いております。

私自身は、そもそも老子が誰か分からないところに、先進性を感じております。大概の偉人は、もちろん固有の名前を持っています。現代では、写真付きで、これが南野太郎兵衛だとなっています。ところが老子は、誰だか分らない。実在したかどうかを疑う人もいる。しかし、その思想は、万古不易なものとして伝えられてきた。新しいこと、りっぱなことを発見したら、常人は、名前を付してそれを発表し、今風にいえば「知的所有権」を主張します。ところが、老子はそんなことをしない。そして、いつの時代でも、老子の哲理を振りかざす者は、未来を指している故に少数派なのです。多数派には未来はなく、未来があるのは少数派なのです。老子の時代、名を知られ、伝えられたのは多数派のリーダーであって、少数派の頭目である老子の名前は、気がついたときには誰も覚えていなかった。だから本名が伝えられなかったのではないか、と思うのです。勿論、「上善は水の若し」、老子はそれで大満足だったのです。

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