「百姓」が未来を開く
目次 (クリックすると、その項へとびます) 1.「百姓」とは 2.「百姓」は農民か 3.水呑百姓 4.下人 5.村は農村か 6.九公一民 7.百姓と労働者 8.サンチョ・パンサの故郷 9.百姓に未来がある 1.「百姓」とは 百姓とは、そもそも庶民のことを指す言葉だったとのこと、つまり、百もの姓をもつ人間集団という意味だったのだそうです。いつ頃から使われ始めたか、よくは知らないのですが、もしかすると、かなり古くて、平安時代にさかのぼるかもしれません。いずれにせよ、百姓という言葉で農民を指すようになったのは、かなり最近だったようで、明治時代になってからのようです。江戸時代までは、百姓=農民、ではなかったのです。百姓といっても、農業に止まらず、商業や工業にも、ときには、貿易商、金融業までもやっていました。いわゆる豪農といわれる家などでは、それらを一手に引き受けた形になるケースが多々あったようです。 私は、このイメージにとても引かれるのです。江戸時代は、安定した社会が長く続いたといわれますが、それは、徳川の御代が265年間も続いたということに代表される支配の安定のことでして、巷では経済の変化発展が進んでいて、地方でも商工農業の姿がどんどん変わっていたようです。その地方の代表的百姓が、農業だけでなく商業工業をもになう事業主であり、そのなかから、都市に出て後の資本家になって行く者も現れたのでした。NHK大河ドラマ「龍馬伝」での岩崎弥太郎も、農民→下士を経て資本家になった百姓でした。 資本家になる段階は、あまり興味ないのですが、その前の田舎の産業振興の中心をなした百姓、それらに注目したいのです。 当時の百姓は、なかなか魅力的な日々を送っていたらしいのです。何よりも、生産と生活が、現代と比較すれば、貧しいといわれる状態だったかもしれませんが、一体的に進んでいて、かつ多様であった、とみえるのです。農民であっても、家を建てる術を身につけているし、生活用具は自分で作っていたし、一部の高度な施設や技術を要するもの以外、自賄いだったのです。そのためには、経験または訓練も要ります、ということは、同時に時間が要ります。逆にいえば、暇がないとそんなことできません。当時の生産力が、そうしたことに見合っていたのです。その中から、考えて見て下さい、己の能力がどこにあり、産業・・・それは、当時、かなり発達を始めていました・・・のどこで自分の力を発揮できるかが自ずと見えてきたはずです。そんな風に、村や町が、地域の特長を生かした産業を有して成り立っていたと考えられます。こんな姿に、人間の本質的特性を、少なくとも現代に比べ数倍も見てとることが出来ると考えられませんか。 これは、ヨーロッパなどでも同様らしく、経済書でその歴史を記述した中にみられたり、文学にも描かれたりしているのですが、人間のなすことは、洋の東西を問わず共通するところが多いということです。 目次へ 2.「百姓」は農民か 先ず日本の百姓を大雑把に見直します。 歴史の見直し、ということが時々行われます。私にとって、この手の見直しをさせられたことを時々経験してきましたが、百姓を歴史の中で見直すことになったのは、歴史学者の網野善彦さんの学説によってでした。 彼は、問いかけます: 「日本」とは何か 「日本」は島国か 「百姓」は農民か 等々です。 ここでは、最後の問いを見ておきます。 先日、掲示板「樹下談叢」で、中国では、百姓というのは普通の人を指すということが紹介されましたが、韓国でもそうなのだそうです。日本にだけ、「百姓」=農民、という常識が出来てしまっているのです。 この常識、思いこみを捨てて百姓の実態を見てみると、ちがった特長が見えてくると網野さんは言います。 まず、企業家としての百姓が見えてくるのです。有名な例が、奥能登の時国家です。時国家の古文書を調べると、江戸時代初期、建坪240坪の家を構え、200〜300人の下人を使っていました。農地を30町歩持っていました。ここまでですと、地方の豪農というイメージです。 しかし、調べが進むと、同時に、大きな持ち船で松前までも通っていたことも分かってきたのだそうです。ある時には、松前昆布を満載し敦賀でそれを売ろうとしたのが、良い値がつかないので、陸路で大津にゆき、そこでも良い値がつかず、結局、京都、大阪まで行ってようやく全て売り尽くして帰ってきた、という記録がありました。そうした船を2,3艘持っていました。つまり回船業を手広くやっていた姿が浮かび上がるというのです。塩、薪炭なども扱ったようです。江戸末期には、北前船で、サハリンと蝦夷、大阪などを繋いで商売を拡げました。さらには、鉛を産する鉱山経営もやっていたのでした。金融もしてました。 つまり、奥能登の時国家は、豪農ではなく、多角経営の企業家だったのです。 目次へ 3.水呑百姓 網野さんの説をもう少し紹介させて頂きます。 従来は豪農と考えられていた奥能登の時国家が、農業だけでなく多角的に企業経営をしていたのですが、その当時、時国家に100両の金を貸すほどの柴草屋という回船商人が、実は「貧農」つまり「水呑百姓」だったというのです。この地方では、水呑百姓のことを「頭振(あたまふり)」と呼んでいたのだそうです。柴草屋は、その頭振だったのです。頭振の柴草屋は裕福な商人だったのです。私たちは、学校で習ったことから、水呑百姓といえば、土地を持たない貧しい農民と思い込んできたのですが、柴草屋は貧しくて土地を持てなかったのではなくて、商売で儲けていたので土地を持つ必要がなかったのです。 水呑百姓というのはすべからく貧農、というイメージは、払拭してかからなければなりません。私のご先祖は水呑百姓だったと聞かされてきました。しかし、改めて古文書なりと確かめてみなければなりません。確かに、私の村は、農地が少なく、それだけで生計を立てていたとすればとても貧しかったはずで、信じられないほどに土地の少ない村なのです。製塩を含む農漁業の他にも製糸業なども盛んにしていたと聞かされていますから、何か工業に携わっていた家も多かった可能性があります。いずれにせよ、水呑百姓=貧農、と思い込むのはものごとを見間違う原因となりかねません。 網野さんは、別の調査結果を紹介しています。ある地域の村を調べた結果、頭振つまり水呑百姓が71%いて、残り29%の百姓の平均持ち高が4石余、つまり4反歩ぐらいの土地しか持っていないということが分かりました。つまり、上記私のご先祖の村同様に、大変に貧しい村のように見えるのです。 ところが、この地域というのは、奥能登最大の都市、輪島のことなのだそうです。つまり、頭振といわれた人たちの多くが、柴草屋と同様に、土地を持つ必要のない職人や商人、廻船人などだったのです。輪島は、その当時、公式に村と呼ばれていたのですが、「村」とされていても、実は「都市」だったのです。このように見てくると、村は農村とは限らない、というところも見えてくる、というわけです。 従来考えられてきた農村社会の姿も改めて見直す必要がありそうです。 目次へ 4.下人 奥能登の時国家には、200〜300人の下人がいたといいます。 豪農の下人は、従来は、豪農の家に縛り付けられたいわば農奴のように説明されてきました。しかし、時国家の古文書・・・上に紹介したものも含めてですが、それら古文書は、襖の下張りから出てきたもので、何らかの理由で、そうした目につかない形で扱われたようです・・・によると、石見国出身の下人が、佐渡にいる兄弟に会いに行かせて貰いたいと願い出て認められたというのです。つまり、旅行にいろいろ制約のあった江戸時代でも、その程度のことは出来たのです。この下人は、水手(かこ)から時国家の下人になった人らしいとのことです。 その他、時国家の下人の中には、塩づくりが専門の塩師をはじめ、石工、鍛冶、桶結いなどがいたとのことです。北前船の船頭をしていた友之助さんは、蔵にあった帳簿によると、わずかな田畑を時国家から借りて農耕をしていたとのことで、そのことだけみるとまことに貧しい小作人にみえるのですが、同時に船頭だったのです。襖の下張りが発見されなかったら、農奴ということで通っていたはずでした。 このようなことが、奥能登の時国家だけでなく、他の地域にもみられるのです。若狭国、伊予国、瀬戸内の島々、紀伊半島などは、海岸まで山が迫るところが多く、そうした村(浦と呼ばれることも多い)は、農地が少なく貧しい百姓が多かったと思われるのですが、製塩、漁撈、交易、海運、林産などを多角的に営む村であり、そこの百姓も多角的にいろいろな仕事に従事していた、というのです。すなわち、家や土地に縛り付けられた農奴といったイメージの人々はさほど多くなかったと考えられるのです。 それは、海に面した浦の話だけではなく、山に囲まれた村でも同様で、田畑を耕すだけでなく、林産は勿論、川の船運、製鉄もあり、また、桑、苧(からむし)、漆などから布を作り、京に出すことで潤っていたところもあったわけです。そこの百姓は、農民というだけでなく、また、篤農家(農業をしていただけでない)のもとで働く下人も、それらに携わっていてかなり自由度があったというのです。 このように見てくると、わが国の中世から近世にかけての農村像、百姓像、下人像は、かなりの見直しが必要だろう、というところが網野さんの説だ、というところがわかります。祖父の家の軒下には、艪がぶら下がっていましたが、農とともに漁にも従事していた証しでしょうし、塩田もあったという話は聞いたことがあります。先祖の姿も違って見えてきます。 目次へ 5.村は農村か さて、先に、能登半島の輪島が「村」と呼ばれていたことを書きました。村は農村か、ということをもう少し詳しく、網野さんの説に沿って見てみます。 結論を書いてしまえば、村と呼ばれた地域の中に、農村でなく「町」のようなところがけっこうあった、ということです。江戸時代、幕府や大名が認めた町以外は、村とされ公式の行政単位とされました。このため、経済活動が盛んな地域では、町のような村がけっこうあったのです。 たとえば、周防の上関(かみのせき;先日まで、原発を作る/つくるな、で大揺れになっていました)です。ここは、正式に「村」とされていました。上関の内陸部は地方(じかた)、海辺は浦方に分かれていました。それぞれ統計によれば、百姓の内訳が次の通りでした: 地方 浦方 農人 19 農人 12 商人 10 商人 54 廻船問屋 5 船手垰 4 鍛冶 1 船持 3 漁師 1 その他 15 百姓合計 36 百姓合計 88 地方でも、農人はほぼ半分を占めるに過ぎません。実態として、上関は農村というより町でした。 このような「村」が、瀬戸内にはたくさんあり、竹原、倉敷、下津井などもこうした「村」だったのです。江戸時代、全国を見れば、至る所にこうした「村」と呼ばれる町があったのです。 上関には、さらに水呑(上関では門男、もうと、とよばれました)がいて、下記のような職種からなっていました: 地方 浦方 農人 98 商人 68 商人 20 船持 18 その他 17 その他 92 門男合計 135 門男合計 178 地方(じかた)も浦方も、百姓より水呑の方が数が多いです。門男は、本来、石高を持たない人々なのですが、この統計に示された農人が、どのような人々なのかはよく分かりません。その他と分類されている内には、多様な職種があって、船大工、左官、桶屋、石工、漁人、鍛冶、提灯張、張物小細工、紺屋、畳刺、茶屋、髪結などだそうです。 先の、百姓の内訳と合わせてみると、この「村」は、実態として町、都市だったといえます。こうした「村」が、瀬戸内だけでなく津々浦々に多数あったということです。 目次へ 6.九公一民 さて次に、年貢、つまり税金のことです。 先の輪島の場合、年貢の税率は88%だったといいます。年貢は、石高を基準にしていました。太閤検地以来の伝統でしょうか、検地により田畑や屋敷などをすべてコメの量で換算評価し、税率を決め年貢を徴収していました。輪島は、都市ですから石高は少ないのですが、加賀藩は、輪島にほとんど「九公一民」の年貢を課していたわけです。 なぜ、こんなに高い税率になったか。百姓が、商工業、海運などで巨利を得ていることを前提にしたから、と考えられています。商売による利益は、現在と違って消費税を掛けるほどに商業システムが完成していませんから、課税しにくかったようです。そこで、土地に課税したというのです。百姓側でも、それを心得ていて、全く文句をいわなかったそうです。こうした高率の年貢があちこちで行われていたのですが、そうした実態があったのです。 村=農村だとしたら、そんなことはできなかったはずです。村の中には、農業中心の農村もありましたが、都市もたくさんあったのです。百姓がいろいろな職業をになっていたのです。 ところで、年貢は、歴史上、律令制の下での租庸調といった公課制度と違って、厳密な概念といえないところがあるようですが、史料初出は11世紀末期とされているとのことです。年貢とよばずとも、租庸調の特に租は、口分田を始め田から徴税されていましたから、大化の改新の時代にさかのぼるわけです。吉川弘文堂の日本史年表で見てみましたところ、三世一身法が723年、墾田永世私財法が743年ですから、白鳳、天平の時代から、百姓はしっかり税を取られていたわけです。 その時代、献上の仕きたりがいろいろあったようで、年表を見ると、「越国、燃土と燃水を献上」「対馬、銀を献上」「陸奥小田郡に産せる黄金を献上」とかが並びます。租にしてからが、共同体成員が田の収穫の一部を初穂として首長に貢納する初物貢納儀礼が稲の収取体系へと転化し、律令制のもとで租税とされた、ということですから、貢納の習慣が、税を生んだわけで、当時の権力が、権力行使を盤石とするために共同体の習慣を利用したということのごとしです。 百姓は、こうしたことで時の権力者を下から支えたわけですが、歴史の中で、不可欠の支え役が、その役に見合うだけの分け前を十分に得られたかといえば、しばしば不十分であっただけでなく、時に不条理でさえある状況におかれたことがありました。先日、NHKで「開拓者たち」というドラマが4回にわたり放映されましたが、あの満洲開拓とその後の戦後開拓に携わった方々の苦難をおもえば、そうした歴史がなぜにいまだに繰り返されるのか、と思います。 また、話変わりますが、現代のこの閉塞感の中で、中小企業、町工場のものづくりで頑張る「百姓」の姿が、ときどき報道されますが、これは、昔から続く百姓の底力であって、ここにこそ、歴史を切り拓いてきた/切り拓く原動力がみてとれると思います。大企業の力が大きいのは間違いないのですが、そちらにばかり陽の眼をあてることはないのであって、あまりに陽のあてられ方が少ない「百姓」に陽をあて、バランス良い経済と生活を実現することが、政治に求められていると思うのです。 目次へ 7.百姓と労働者 ここまで、歴史上、百姓が村の中でどんな仕事をしていたかをごく大雑把にみてきました。大雑把ではあっても、多分、江戸時代の百姓と村の大事なところは見ることができたと思います。 それらを網野学説によってみてきたのですが、具体的な様子は、時代小説でもしばしば描かれます。たとえば、藤沢周平「漆の実のみのる国」などでは、上杉鷹山治下の米沢藩の状況をかなり具体的に見せてくれます。ドキュメンタリーでは渡辺京二「逝きし世の面影」が、外国人の目から見た江戸時代の百姓のありさまを紹介してくれます。 職業はいろいろだったのですが、百姓は、生活を豊かにする術を心得ていて、いろいろな技術を駆使して多様な生活を営んでいました。家を作るには、要所で専門家の世話になったとしても、茅葺屋根の葺きかえは村中総出でやるし、普段のメンテは皆、自分でやりました。男は誰も大工っ気と○気は必ずあったのです。生活用具も自賄いがけっこうありました。草鞋、縄、籠、灯り、おもちゃなど、皆、自分で作ってました。自家用の野菜や果物など、農人でなくとも作る家が多かったようです。 それらをみて、私がもっとも強く思うことのひとつは、いわば、時間がゆったり流れていたことです。上でにみたように、村においても分業はかなり進んでいましたが、それぞれが己の持ち場で己の仕事をきちんとしつつも、ゆったりとした毎日を送っていたようです。夏場には、昼寝をしたり夕涼みをする時間がけっこうあって、体力の回復を図っていたようです。共同体の中でも、祭りなどいろいろな行事を皆で取り組み、仕事以外のことで、年中、何だかんだと忙しかったようです。 これは、生産力に応じた物と時間の流れがあったということで説明できそうです。現代は、物と時間の流れ、すなわち生産力が、その当時に比べ何十倍も何百倍も大きくなっていて、それがつまるところ長時間過密労働となっているのです。ここで、大事だと思うのは、元々、百姓は、時間的に余裕があったということです。その時代に合った生産をするのに、現代ほど長時間働かなくても間に合っていたということです。これが、本来の百姓と、多くが百姓の成れの果てである現代の労働者との決定的違いなのです。 目次へ 8.サンチョ・パンサの故郷 本稿のはじめのところで、百姓の有り様は、洋の東西を問わず変わらない、と書きました。江戸時代に当たる時期、ヨーロッパでは、西洋近代文学が成立したといわれています。初期(16〜17世紀)には、シェークスピアが活躍し、セルバンテスが「ドン・キホーテ」を書きました。ゲーテ、プーシキンの時代は、18世紀初頭でした。19世紀になるとフランスでスタンダール、バルザック、モーパッサン、ゾラなどの文学が花開きます。何を言いたいかといえば、それらの作品に結構、当時の百姓が登場するのです。西洋近代文学は、ルネッサンスを経て人間を描くことに大きな特徴をもちます。すなわち、百姓とその生活もしばしば描かれることになるわけです。 セルバンテス「ドン・キホーテ」では、スペインはラマンチャのさる村に住む一人の郷士が、中世の騎士道を17世紀に呼び戻すべく、みずから遍歴の騎士となって、正直者で、ひどく脳味噌の足りないサンチョ・パンサを伴い冒険に出かけます。その途中、当然、いろいろな村々を舞台にして活躍するわけで、それらの村や百姓の姿が事細かに描かれます。それを紹介するのは大変です。そこで、当時の村がいかに心落ち着く住み良いところであったかを忍ばせる台詞を紹介することとします。 「ドンキ・ホーテ」の最終盤、サンチョ・パンサがある島の太守となったところで、敵襲を受けさんざんひどい目に遭います。そのあと、しょんぼりして自分のロバのところに帰ってきて涙を流しロバに語りかけます。「わしが太守などという野心を抱いたのは間違っていた。わしの魂の中には何千という悲しみと苦労と不安が入ってくるばかりだった。おまえと仲良くやっていたときは、まったく来る日も来る年も仕合わせだったよ」と反省の弁です。つづけて「太守などやってるよりか、耕したり、穴掘ったり、ぶどうの木の剪定したり、挿し木をしたりすることの方がわしにゃよっぽどわかってるだ。めいめい生まれついたままの仕事をしているのがいちばん似合うってことでがす。夏は樫の木陰で横になり、冬は子羊の毛皮にくるまって自由にしてたほうがよっぽど性に合ってるだ」といって、村に帰ってゆきます。ドン・キホーテさえも、村で牧人になろうというわけです。 目次へ 9.百姓に未来がある 日本で足利の世が続く頃、16世紀初頭、ヨーロッパは、ルネッサンスを経て大航海時代の真っ只中にありました。その頃、あるユニークな文学が作られました。アメリカ大陸の発見者といわれるアメリゴ・ヴェスプッチの船団に加わっていた一人が語るある国の物語です。その物語の中で、次のような紹介がされています: この国では農業が、男女の別なく全ての国民に共通な仕事となっています。子どものときから農業について教えられ、誰もが農業に習熟しています。農業の他にも、いろいろな技術を習得しています。毛織、亜麻織、石工、鍛冶、大工などの技術です。衣服はすべて家庭で作られるので、仕立屋はありません。30世帯に一人の家族長という役が選ばれ、その任務は、怠けてぶらぶらしている人間がいないよう、だれもが仕事に精を出すよう、また、働きすぎて疲れ切ってしまわないよう注意し監督することにあります。 国民は、一日、わずか6時間を労働にあてるに過ぎません。午前中3時間働き、昼食後は2時間の休息と3時間の労働、夕食後、1時間は音楽をしたり、高尚な議論に費やし、楽しい時間を持ちます。夜8時頃には就寝し8時間の睡眠を取ります。空いている時間は各人が職務から解放された貴重の時間とこころえ、自分の好きな何かほかの有益な知識の習得などにこの時間をあてます。たとえば、毎日、早朝には講義が行われ、これに出席の義務があるのは学問研究のために選ばれた人たちだけですが、あらゆる種類のおおぜいの人がこの講義を聴きに集まって来ます。 6時間の労働で、必要な物資が生産されるかといえば心配はいらず、むしろ多すぎるくらいです。考えて見て頂きたい、他の国では、いかに多くの人間が遊んで暮らしていることか。多くの金持ち、紳士、貴族とよばれる連中、聖職者や無頼漢、乞食などがそれであり、実際に働いている人間は意外と少ないのです。金銭が全てを支配しているところでは、ただ奢侈、淫蕩な生活の要求を満たすために余分な職業がたくさん必要となってくるのです。そうした人間も有用労働に参加すれば、わずかな労働時間で十分まにあうはずなのです。 ほかにもこの国について多く紹介されていますが、上とは別の面でおもしろいことを紹介していますので、ほんの少しだけ: この国の人々は戦争を大いに嫌っています。戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えているのです。男女とも軍事訓練に励んでいますが、それは自分と自分の国を守るためであってそれ以外に戦争はしません。周辺で戦争ともなれば、この国は資金援助はするが決して兵隊は送りません(どこかにも、こんな国があります)。 お気づきの方もいらっしゃいましょうが、この物語は、トマス・モア「ユートピア」です。当時の知識で、よくぞこれだけのことを考え出したものか、と感心させられますが、現代の時点で未来社会をこのように描くことも可能なように思われます。トマス・モアは、その時代の百姓を日頃みていて、そこからこのユートピアを考え出したのではないでしょうか。当時の百姓の日常の中にこうした要素が眠っているとみたのではないかと想像します。つまり、どの時代にも、百姓ほど、人間の本質的特性を体現するものはいない。未来も、百姓のなかにある、と思えませんか。 目次へ |