北方領土問題に対する戦略は・・・
先日(2011年 2月19日)、ある方(憂国論者Bさん)から、私の取り仕切る掲示板(樹下談叢)に、次のような投稿を頂きました。 「最近,頓にロシア高官が北方領土を訪問しつつある。日本政府も抗議をしてはいるが,いっこうに収まる気配がない。今日,インターネットで北方領土に関し,ロシア国民の世論を公開しているのを見た。それによると90%以上のロシア国民が,北方領土はロシア領であって返還のへの字もないということである。どうしてこうなったのだろうか?少し前は,こんな数値でもなかったのである。何もしないでいる日本国民に対して強気で出るべしと言うロシアの国民性がここへ来て,一気に表面化したのかもしれない。現在に至るまで,この間,全世界的に不況に覆われたこともある。ロシアにとってチャンスは見逃さずと言うところであろうか? 現日本政府の弱体ぶりも拍車をかけてロシア国民に侮られているのだろうか?しかし,口による抗議や論評だけでロシアを批難している限り,現政府も衰退するだけである。日本全国民の返還運動に盛り上げるためにはどうすればよいか? そんなことを思う」。 まことにその通りです。私は、この投稿を受けて次のようなことを書きました。 「外交では、事実経過を見据えて如何に友好を築き相互互恵を実現するか、の見通しが肝心です。日ロ関係は、サンフランシスコ条約のみならず、日ロの近代以降の歴史を統べてみなければロシアの皆さんの考えとかみ合わず、有効な手が打てず平行線です。そうなれば、時代が進むに付け、北方領土のロシア帰属意識が島民にはいや増します。一日も早く、取りかからなければ困難は大きくなります。同じようなことは、韓国との間にも言えます。中国との関係は、もう少し容易だと思われますが、いずれも戦前の問題も含めて、しっかり歴史と向き合わないといけません」。 次のようなことも書きました。 「私も、北方領土問題をおさらいしています。北海道に住んでいた頃、身のまわりに国後島などに住んでいた方もおられたこともあって、いろいろ勉強しました。その頃のことを思い出そうとするのですが、細部を忘れてしまっています。そこで、再度、当時のことを思い出しつつ復習中です。結論は、少し先のこととして、ひとつだけ、先に書き記します。 「終戦にあたり、ソ連が領土を得た中には、日本の領土の他にヨーロッパのバルト3国とポーランド東部がありました。いずれも、スターリンの強引で不当な領土拡大策の結果でした。しかし、それらは、戦後半世紀ほどの中で解決を見て、それぞれ独立、返還されています。ところが、日本の北方領土は、返還のヘの字も見えていません。これは、日本政府が何をしてきたのか、してこなかったのか、を問われる事態ではないでしょうか。 「わが国では、この半世紀余りの歴史の中で、学校の教科書にも書かれるような『北方4島固有の領土』論が繰り返し叫ばれるだけで、何の有効な外交努力もされてきませんでした。これがなにを意味するのか、そのあたりから資料を見ながら考えているところです。この先は、少々、時間を頂こうと思います」。 この後も、樹下談叢で断片的に書き記してみました。以下には、それらを編集してまとめてみました。昔の学習結果を思い出しつつ確認することが出来ました。 まず、関係事項の年表です。
日本政府の北方領土対策の中心は、【歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島早期返還】です。基本方針として、【我が国固有の領土である北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する】ことを掲げています。以下、日本政府の言い分は、【 】で示し、次のサイト: http://www8.cao.go.jp/hoppo/mondai/01.html より引用します。 交渉の指針としては、【北方領土問題を、(1)歴史的・法的事実に立脚し、(2)両国の間で合意の上作成された諸文書、及び(3)『法と正義の原則』を基礎として解決するという明確な交渉】を掲げています。 これらに関し、はっきりさせるべきことがいくつかあります。それらを順次見て行こうと思います。 まず、エリアを北方四島を限定してかかることは合理的か、ということです。 そもそも千島列島の「先住民は北海道から移住した千島アイヌで、古くはカムチャツカ半島南部にも住んで」(註1)いました。 また、「ロシア人が千島列島の探検に乗り出したのは1711年で、18世紀の末までに南千島にまで進出し、先住民に毛皮税を課し、一時は得撫(ウルップ)島をラッコ猟の根拠地とし」(註2)ました。 日本の進出に関しては、「クナシリ島に松前藩が初めて交易場所を開いたのは一七五四年(宝暦四年)のことで、この島に支配を確立したのは八九年(寛政元年)のクナシリ・メナシのアイヌ蜂起事件の後で」(註1)した。「幕府はロシア人南下の情報によって一七八五―八六年(天明五―六年)に調査隊をエトロフ島・ウルップ島まで派遣していたが、九九年には東蝦夷地を直轄し、高田屋嘉兵衛の協力でエトロフ島に漁場施設を設け、アイヌを懐柔してこの島をロシアに対する前線基地とした」(註1)とされています。 自然地理学的には、「いずれの島も、太平洋プレート(岩盤)北西縁に形成された千島海溝の西側に、アジア大陸の縁辺部に沿って噴出した火山島」(註2)です。そして、歯舞諸島と色丹島は、「地質構造上は根室半島の延長」(註1)であるとされています。なお、「明治二年(一八六九)の国郡画定のときは根室国花咲(はなさき)郡に属したが、色丹島は千島アイヌの移住を契機に同一八年千島国に編入され」(註1)ています。 択捉島と得撫島との間の海峡は、水深もひときわ深く(1300m)、択捉水道またはフリース海峡と呼ばれており、ここが、温帯と亜寒帯の境とされ、植物相も異なり宮部線と呼ばれています。これらのため、ここを境に、北千島(または中千島)と南千島を分けることがあります。 以上、主要な典拠によって示しましたが、要するに、フリース海峡とか宮部線があったとしても、地政学的に南千島を区切って日本固有の領土と断定する決定的事実は認めがたいのではないでしょうか。18世紀以降、先住アイヌ人などが住んでいた千島列島に、主として、北からはロシア人が、南からは日本人が、それぞれ滲むように進出しておりました。それ故に、国境策定をしないといけない状態になっていたわけです。そして、日ロ両方からの滲み方が薄くなっていたのが択捉水道だったように思われます。 そこで、【1855年(安政元年)に締結された日魯通好条約においては、日露国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島との間に設定することとした】のでした。しかし、この条約では、樺太が日ロ国民の「混住地」となって問題が残されました。この条約は、締結前後の事情(を逐一書きますと微に入り細にわたりますので省略させていただきますが、それ)に照らせば、暫定的な条約と解することが出来ます。 その後、1875年の樺太・千島交換条約で、国後、択捉に加えて【得撫から占守(しゅむしゅ)に至る18の島(千島列島=クリルアイランズ)の領土権を取得】しました。一方で、樺太はすべてロシアの領土となりました。この時代としては、これで、一件落着となったわけです。その後、第2次大戦終了時まで、千島列島に係る領土問題には何の動きもありませんでした。 ところで、この条約の結果、千島列島と呼ばれる対象は得撫以北なのでしょうか、国後以北なのでしょうか。千島列島といった場合、南千島を除く得撫以北とする事例は、今回調べたところでは、みあたりませんでした。逆に、ほとんどの事典類(註3)で、千島列島は、国後から占守までと明記しています。ですから、樺太・千島交換条約により国後から占守に至る千島列島全部が日本領土になった、と解釈して良いと考えられます。 つぎに、サンフランシスコ平和条約の問題です。 日本政府は、【サン・フランシスコ平和条約で我が国は、千島列島に対する領土権を放棄しているが、我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない】ことをもって、北方領土つまり北方四島の返還を主張してきました。すなわち、サンフランシスコ平和条約を前提に、北方4島返還を主張しているわけです。 現在でも、この条約に我が国は縛られているので、その縛りからすり抜けようとして、この条約の千島列島に四島が含まれない、という論理を持ち出していると解釈できます。 しかし、18世紀後半以降、北方領土をめぐる歴史を眺めた場合、この論理建てにおいては、樺太・千島交換条約の結果を、事実上、無視していることにならないでしょうか。樺太・千島交換条約では、国後から占守までが日本領土となったのです。第2次世界大戦終了までの事実を無視しないで、そのうえでサンフランシスコ平和条約にどう対処するか、を考える必要があるのではないでしょうか。 まず、政府の言い方を借りるならば、【連合国は、第二次大戦の処理方針として領土不拡大の原則を度々宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている】のです。【この原則に照らすならば、・・・北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しない】のです。この論理は、合理的だと思います。 また、歯舞群島、色丹島に関しては、千島列島に含まれないとする解釈が、地政学的にも、多くの外交の場でも確認されており、これらこそ、日本固有の領土といえます。ですから、ソ連軍による歯舞、色丹の占領は、不当なものとして交渉するに値すると考えられます。なお、日ロ平和条約が締結されれば、日本側に返還するという日ソ共同宣言(1956年)の約束があります。 なお、樺太は、日露戦争の結果、ポーツマス条約で日本の領土とされましたが、サンフランシスコ平和条約で、戦争の結果として得られた領土は返還するとのことでソ連領に戻ったもので、千島列島とは性格を異にします。 このように、国際法的には、日ロ通好条約とサンフランシスコ平和条約とを根拠にし、樺太・千島交換条約を根拠から外した四島返還論には、曖昧さというか、無理というか、相手を納得させうる論理という点で弱点を含んでおります。過ちを犯しているといっても過言ではないように思えます。 では、日ロ平和条約を含め、ロシアとの交渉において、歴史的事実に基づき道理があって合意のもっとも得られやすい主張は、どういうものでしょうか。 日本政府の北方領土戦略は、サンフランシスコ平和条約を前提にしていますが、いかにも官僚的発想に過ぎていると思います。北方領土や戦後処理に関する歴史、国際法上の根拠などを全体として考慮するならば、次のような戦略が良いのではないでしょうか。 樺太・千島交換条約で確定した千島列島が終戦まで日本の領土であった事実を踏まえ、領土不拡大の原則に基づき千島列島占領の無効を訴え、返還を要求すべきです。併せて日ロ平和条約を実現するための交渉を急ぎ、歯舞・色丹の返還を目指すことが必要です。 ソ連・ロシアに係る国境問題は、冒頭に記したようにヨーロッパにおいては全て解決しています。この事実は、日本政府が有効な対ロ外交を展開してこなかった証明になっています。鈴木宗男式の利権をちらつかせた四島返還論では戦えないのです。上記戦略なら、誰にでも分かりやすい正論となりえます。日ロ友好を実現しつつ歯舞、色丹、千島の返還を実現するためには、もっと早くことを進めるべきでした。それら多くの島々に住みついてきたロシア人の生活などを考えれば困難も多いです。一日でも早く方針を改め、有効な交渉を進めてほしいと思います。 註 (1)”ちしまれつとう【千島列島】北海道:総論”, 日本歴史地名大系, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース) (2)”千島列島”, 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース) (3)国史大事典、日本国語大辞典、日本大百科全書、日本歴史地名大系 |