表紙、挿絵は村越竹司氏の作品です


   はじめに

 昭和五十六年より開始された中国残留孤児の訪日肉親捜しが、六十二年三月(十五次)をもって一応終了となりました。戦後四十二年の歳月に肉親との再会を果せた方はわずかな数となり、如何ともしがたき無念さが残り最後のバスを見送りました。無我夢中で生きた私の戦後でありましたが、いつしか還暦を迎える年となりました。自分なりの一応の締めくくりとして拙い文を書き残す事に致しました。
 第二次訪日団の時より始めましたボランティア活動。最初は、京城第二高女の友人・松永昭子さん、妹の宿利幸子と私の三人でしたが、その後次々と参加してくださった京城第二高女、龍山小学校、北九州小倉の西南女学院、そして私の生甲斐となっている茶道の先輩後輩の各位、又その方々の知人といった、温かい御気持の輪が広がり、最終迄には三十六名となりました。来日の都度小伝馬町の問屋に行き、肌着(長袖)上下をあつらえ全員に配りました。問屋の方々ともすっかり顔馴染みとなり、全面的に協力(卸値)してくださいました。代々木の会場でも沢山の心温かい友人が出来ました。感謝の心で一杯でございます。皆々様のお蔭で続ける事が出来ました。有難うございました。又私の拙文出版に当りまして多大な御協力をいただきました、静岡県の鈴木速男様、表紙と挿絵をお描きくださいました三鷹市の村越竹司様(御二方とも父の部隊におられた方)に紙面を借りて心より厚く御礼申し上げます。すばらしい方々との出会いに感謝し、今後も微力ながら体力の続くかぎり帰国孤児、残留孤児のボランティア活動を続けて行く覚悟でございます。今後ともよろしく御協力下さいます様に伏して御願い申し上げます。
  昭和六十二年六月二十八日

                       矢野和子(旧姓南部)




 昭和十九年二月、一通の電報がとどいた。
「キガエヲモッテウジナマデコラレタシ」。その頃父はニューギニアに進駐していた。母も胃の手術のあとであまり元気とは云えないので、私は学校を休んで同行した。軍の指定された旅館で待つうちに父が現れて、持参した軍服と下着を受け取ると、ゆっくり話をする暇もなく、落ち着いたら又連絡すると言い残して帰ってしまった。広島に原爆の落ちた前の年である。
 夕霧にかすんだ宇品。海軍の軍港のあった町のたたずまいが、何故か今も私の脳裏にはっきりと残って居る。その頃、母と私達姉妹は小倉の母の実家に身をよせて居た。弟は学童疎開で、朝鮮の京域(現韓国ソウル)に嫁いで居た長姉の所に世話になって居た。それからどれ位経過したかははっきり記憶はないが、一通の父からの便りがとどいた。関東軍直属の部隊として、東満総省穆稜県興源鎮伊林に駐屯して居ると言う事だった。あとで判った事だが、父の部隊がフィリッピンに移動する途中、敵の潜水艦の魚雷を受けて、台湾の沖三百海里の地点で沈没し、海に漂流する事九時問、日本の駆逐艦に最後に助けられた。撃沈される前、台湾に近づいた頃「冬服に着替えろ」と命令したそうだが、夏服のままだった者、いくらかでもアルコールの入って居た者は、駆逐艦を目の前にして亡くなってしまったと聞く。輸送指揮官をしていた父は最後に救助された。体がこんにゃくの様になって、ただ眠くて眠くて仕方がなかった。眠ると死んでしまうと言う事で、ビシビシぶたれたそうである。その時も軍刀とピストル、双眼鏡(ドイツ製の最高の物だったと聞く)は肌身離さず持って居た。機械化独立工兵部隊だった、当時としては新鋭の機械「ジャングルを伐採しつつ進むもの、切.り株をウインチで引き抜く戦車等」以上の様な装備を海に沈めてしまったので、やむなく満洲に渡ったものの様だ。
 戦争も愈々はげしくなり、北九州もB29の空襲を受けた。まだ若かった私は、その頃防空監視隊と云って、当時小倉警察署の中にあった。四交替で四日に一日泊まり、航空情報を電話で送る仕事に勤務して居た。丁度非番の日に空襲にあい、警護団の人が目の前で亡ぐなるのを見た。工業都市北九州は頻繁に空襲がくる様になった。大根一本で一週問分とか、脱脂大豆とか、ふすまとかの配給では、高齢の祖父や胃の手術後の母は喉を通らない。非番の日はせっせと買い出しに東奔西走の日々であった。その頃、B29の直撃を受けて一家全減した弁護士(砂津にあり、後日一番下のお嬢さんだけ大分の親戚の所へ行って居て無事)のお家が売りに出て、買ったらとの話があった。たしか九千円だったと記憶して居るが、時を同じうして父から渡満してはどうかとの便りが届き、どこに居ても死ぬ時は死ぬと思い渡満を決意した。

身の廻りの物、蒲団や衣類(我が家の中でも一番上等の物)を送り、京域に立寄り、弟を連れて京城駅をあとにした。図們を越える頃から広漠たる大平原。地平線の彼方に太陽が沈む大陸。次の駅に行く迄に民家一つ見えない。かすかに電気が見えると、小さな部落が見えたと云った状況である。
日もとっぶり沈む頃、牡丹江駅に着いた。毛糸の靴下二枚はき、防寒靴をはいているのに、足がつめたくて感じがない。
防寒帽をかぶりマスクをしているのに、息をするとまつげについた水蒸気が氷ってつっぱる。しばらく駅のホームに待って東寧行の列車に乗る。車内は暖房がきいて暑い位。四時問程で伊林に着いた。丁度昭和二十年一月八日であった。
 東満随一と云われる設備の整った、練瓦造りのエキゾチックな官舎だった。父は浴衣姿で出て来た。家の中はスチームが通って居るので、常時半袖のセーターで過ごせるとの事だった。
北九州での地獄の様な生活から、一ぺんに極楽に来た様な気がした。父と一ケ月程一緒に暮らしたが、横道河子へ陣地の構築と云う事で、本隊は移動して、留守部隊と我々家族だげが官舎に残った。伊林での想い出は水が非常につめたくておいしかった事、雉が番(つがい)で庭に舞いおりてきた事等。鳥打ちの上手な方が居て雉をよくいただいた。その水焚きの美味しさ。白菜がとろける様になった味。酢醤油でいただいたあの味。私の一生忘れ得ぬものとなった。又、満人部落に行ってわけてもらった、馬鈴薯のほかほかとしたおいしさも、又一しほでした。春は近くの山に行くと牡丹に秋の七草、鈴蘭が一ぺんに咲くのです。そのむせかえる香に、しばしうっとりと時の経つのを忘れたものでした。全山花につつまれていた。母と、まったくこの世の極楽だと語りあったものだった。
 しかしこの幸せな日々は長く続かなかった。雑音が入り、はっきり聞きとりにくいラジオが、大本営発表のニュースを送ってきた。「大丈夫なのかね…」。母は不安な予感をいつも持っていた様だった。今にして思えば、戦争末期のから元気を出した情報に過ぎなかった様だ。

八月九日、ソ聯軍は不可侵条約を破って参戦して来た。朝六時頃、飛行機が二機上空を旋回した。
ダダダッと機銃掃射をして来た。急いでラジオにスイッチを入れると、ソ聯参戦のニュースが、雑音の中からかすかに聞きとれた。留守部隊からすぐ連絡あり。明朝汽車にて横道河子へ、最少限度の荷物を持って出発の予定。(又帰るつもり、一時的な気持だった)蒲団袋一個、行李二個に着替え、その他を詰めた。
勿論これはそこに置いたままとなる。そのうち刻々と状況が変り、伊林より少し東にある下城子(ソ聯国境より四時問位でこれる地点)にむけて、ソ聯戦車隊が攻撃して来るとの事。明日迄待てぬと、夕方五時に留守部隊の戦車に乗り、牡丹江へむけて出発した。途中ソ聯機の空襲をうけ、照明弾を落とされ、あかあかと我々の乗った戦車がうつし出された。すぐ飛びおりて、満人部落の農家のこやし置場に身をかくし、飛行機の通り過ぎるのを待つ。私の乗った戦車は流れ弾で油圧バイプが折れて使用不能となり、他の戦車に乗り移る。老人女子供は、蓋をあげた中に入るが、それも一ぱいとなり、私は戦車の上に乗ったままであった。内臓がどうかなってしまう様な震動でも、気が張っているので、おなかもすかなければ眠くもない。二十四時間かかったと思う。翌日の夕方横道河子に着いた。途中振りかえって見た牡丹江の駅附近は、火の海の様に見えた。牡丹江高女に通って居た妹幸子が、星輝寮から単身でリュックを背負って、私共の所へやって来た。不穏な状況の所を本当に良く帰って来てくれた。これで家族が合流する事が出来た。しかし戦況益々悪化の一途を辿り、翌朝八月十二日未明(午前二時)、横道河子市民と共に無蓋貨車に乗こみ、避難することになった。


夜の戦車行(横道河子へ)

 父も駅まで送ってくれた。これが父と母の永遠の別れとなった。神ならぬ身の知る由もなかった。食事の配給は、お鉢位のアルミニュームの缶の入れ物に、おにぎりが入って来て、それを皆に二つづつだったか分けてもらったり、途中汽車が停ると、飛びおりて用を足しに行く者、その時、食事の缶の中に土足のまま入り、折角のおにぎりが食べられなくなったり、味噌も糞も一緒とはこの事。惨謄たるものだった。それ迄母の事を、奥様奥様と言ってお世辞を言って居た菅原さんの奥さんは、自分の子供をゆっくり寝かせ度いばかりに、せまい車中で自分だけよければ良いと云った態度。母はそんな時でも「武士は食わねど高揚枝」と云った実にきちんとして居り、私達にもその様にさせた。非常の場合にこそ、人の真価が判ると云う体験をいやという程させられました。新京(現長春)を過ぎて范家屯で、我々の避難列車の機関車がはずされ、放置された。三日間その状態が続き、食糧がなくなり、近くの農場にすぐ食べれるものをと、胡瓜やトマトを買いに行った。農場主が日本人で、昨日重大放送があり、日本は敗けたのだと云う。晴天の霹靂とはこの事。このまま居たら兎に角のたれ死をするだけだ。満人が売りに来る饅頭等が、足許を見てどんどん高くなってきた。そのうちに満軍が暴動をおこし、日本人は皆殺しにされるとの情報が入る。現にこの前の避難民列車が襲われたとの事。もはやこれまでと、父と別れる時、父の部隊の渡辺軍医大尉から渡された青酸カリを、木の葉の上にのせて各々が手に持つ。無蓋貨車は上からゴムのシートがかけられた。息苦しい暑い時間がどれ位過ぎたのだろうか…。とにかく剣付の銃で上からつき殺されると云うのだから・:…。日本人として辱しめを受けぬうちに、薬を飲んで死ねと云う事だった。しかし運良く命は助かった。
「何としても都会に行かねばならぬ」と、皆でお金を出しあって、満人の通勤列車にのせてもらい奉天(現藩陽)にむかった。
やっとのおもいで奉天駅に到着した。駅は避難民と除隊兵でごった返して居た。予定としてはここで列車を乗り換え、一気に朝鮮に入り京城まで行くつもりだった。
 私共の連れの中に田中さん(父と同じ部隊の将校)の御家族がおられた。当時小学校一年生だった坊やが、沢山の積荷の上にのぼって遊んで居たところが、その積荷に寄りかかって居た除隊兵が銃の手入れをして居て、弾が暴発。坊やの後頭部から眉問に抜けて、ホームの屋根を突き抜けた。バタッと倒れた。
あっと云う問の出来事だった。見る見る足の裏の血の気が引き、即死だった。田中さんの八十になる祖母さんは「本当に私がかわりたかった」と歎き悲しんだ。みすみすその家族を置いて行く事もならず、奉天の尼寺(名前は忘れてしまった)で法要することとなった。その時他のホームから発車した列車が、朝鮮に入った最後の列車だったと後日聞きました。運命の別れ道でした。

 奉天の尼寺の生活は約一ヶ月続きました。その頃、ソ聯軍が奉天に進駐して来て「日本人の女を出せ」と執拗に現れた。お寺の御好意で納骨堂の骨壷を出して、私達年頃の娘、若い婦人
をかくまっていただいた。無我夢中で何時間か過した。しかし、あの時の納骨堂の湿ったにおいは忘れる事が出来ない。寺には沢山の避難民があふれて居た。本堂でみんなごろ寝である。でも、安東経由朝鮮に入り、姉達と合流する夢は捨てなかった。
お寺で知りあった田辺左衛太と云う同県人(福岡)のおじさん(この方に将来ずっとお世話になる)も、安東へむかわれると云う事で同行する。朝鮮総督府からハルピンに派遣されて居た役人の方で、奥さんは、その頃内鮮一体が提唱されていた時代なので朝鮮の方でした。イチャ坊とサト坊と云う、可愛いい二人の男の子がおられました。奉天駅の前で避難列車に乗り込む番を待ちました。愈々今度乗れると云う時になって、ソ聯の軍用列車が入って来ました。「女をかくせ」と云う事で、男の方
達が人垣を作り、私達はその中にうずくまりました。私達をかくして下さる為に荷物が上から投げこまれ、頭はこぶだらけ。やっと軍用列車が発車したとの事で立上り、背中に大きなリュック、肩から大きなトランクニつを振り分け、両手に荷物を持ってホームの階段をかけ登る。発車のベルは鳴り響く。乗ろうとしてもトランクが入口にひっかかる。「早くしろ」。後から罵声が飛ぶ。早く早くと母や妹弟を励ましつつ、やっと乗り込む。列車は超満員である。やっと席がとれて母や弟を座らせる。お互いに詰めあって座り、やれやれとおにぎりを開げて食べようとすると、朝鮮人の母子が傍におりましたが、その子供が手を出しておにぎりを取る。あっけにとられた顔をした私達を見て「お前達は敗けた国の人間じゃないか」と云う。そして膝の上と云い、どこでもズカズカ土足で踏んで、窓の外で用を足して来たり、傍若無人の振舞。それに対して何も云えない口惜しさ。今思い出しても身の震えるおもいである。トンネルを通れば顔は真黒、すすだらけと云った苦労を重ね、やっと安東に着いた。昭和二十年九月半ばであった。ところが日本人は鴨緑江の橋は一歩も入れないとの事。イチャ坊サト坊は奥さんに連れ
られ、北鮮の方へと入って行きました。私達は一応状況の落着く迄と思い旅館住いが始まる。いろんなデマが流れ飛んだが、結局はここ、安東で越冬せねばならなくなった。それではいくらかでも食いのばしをせねばと、満鉄の社宅の空家になった所に一部屋いただいて、親子の生活が始まった。リュックの中の母の毛皮(リス)の衿巻、写真機等はすぐさま食糧に変ってしまった。愈々売りぐいも尽き、冬を越す最少隈度の物を残し、全部なくなってしまった。私は北京のおばさん(芸者だった方)に連れられて、急拵えのアソペラ作りの一バイ飲屋(その頃中国人相手の飲食店が乱立した)に働きに行った。中国語の上手なおばさんは、うまくおだててはチップを取り、私にも分けてくれた。何か身に危険がありそうな時は裏口から私を逃がしてくれたり、又、自分の娘だからと云ってかばってくれたりもした。母は収容所の中の人から頼まれて、仕立物などをして居た。
朝は、早く中国人街に行って納豆を仕入れて来ては市場で売った事もあった。たしか七十銭で仕入れて、一円で売った様に憶えて居る。一日中声を枯らして売っても利益はわずかであった。大福餅(塩餡入)を仕入れ、道端で焼いて売った事もあった。七輸のかわりに古い洗面器に五徳を入れ、網をのせて焼きながら売るのである。うまく売れるとよいが、売れないと焼けたのがそのままかたくなりどうしようもない。夜は、売れ残りの大福を食事がわりに皆で食べた。ソ聯兵が来て火の入った洗面器
をけとばし、灰かぐらになり、餅は泥だらけ。日本人から略奪した時計を腕に沢山はめ、おじいさんおばあさん、父母、自分、兄弟の分だと得意になって見せる。万年筆も胸のポケットに一ぱい。くやしいやら情ないやら、敗戦国民の惨さをいやという程感じさせられた。
グリーンの軍服を着て自動小銃を持ったゲーペーウー(ソ聯の憲兵)が空にむけて威嚇の実砲をうっては無理な要求をして来た事もあった。旅館に居た頃、「ベランダでおしめを干す婦人の姿を見たから女が居る、すぐ出せ」と云っておしかけて来た。小さな部屋に若い女達を入れて、外には机や椅子の古いのを積み上げて部屋のない様に見せかけたり、窓は閉めきり、息をころして二、三時間、赤ちゃんを連れた若い奥さんも居た。赤ちゃんが泣き出した。私達の居る事が判るから殺せと云うのです。私は神に祈る気持で、持って居た水筒の水を赤ちゃんに飲ませたら泣き止んだのです。本当に人間の極限を味わいました。ミッションスクールを出た私ですが、信仰心などぜんぜんなかったのですが、事あるごとに「神様々々どうぞ私達をお守り下さい」と祈ったものでした。土足のまま廊下を歩くソ聯兵の足音と、大きなロシヤ語の声の聞えなくなるのを待ちました。夜は、いつでも屋根づたいに逃げられる様に、服を着て靴を枕元においてやすみました。石炭庫に逃げたりベランダに逃げたり、戦々競々とした日々を送りました。その頃の事です。特攻隊と云う名で接客婦をして居た方が、私達の為
に犠牲となって下さったのです。そのうちにソ聯兵は安東から撤退して行きました。




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