矢野和子さんの手記続き

 満鉄の社宅の一室で遂に年を越しました。燃料も、社宅に残って居た石炭を使わせていただいたり、自分で木炭を買って来たりしてしのぎました。お正月は心ばかりの尾頭っき、子持ハタハタで祝膳を囲みました。かむとバリバリと音がしたそのせつなさ、日本にいつ帰れるか判らない不安とあせり、その佗しい気持は言葉ではとても言い表わす事が出来ません。そろそろ寒い満洲にも春が来かかる頃、母がだんだんと元気が無くなり出した。少し食べても胃が痛いとか胸やけがするとか……。もっとも胃の手術をしている人ですから、私達が食べる様なポーミーバソとかチエソピソは喉を通らないし、医者(日本人の開業医も八路軍の軍医に徴用されていた)に診ていただいたけれど、はっきりした病名は遂に言われなかった。心労と栄養失調だったのではなかったか。最後はとてもやせ細った、しかし自分で手洗いにだけは行った。とても気の強い人で、便器で取って貰うのがきらいで、私が抱き起して連れて行き、済むと又立ち上がらせて寝床まで連れて行った。
 その時の母の軽さ、今も忘れない。今日は少し儲かったからと云って、母の好きな白身の魚を焼いて、ほうれん草のお浸しとすまし汁に、自い御飯を作ってあげた「おいしいおいしい」と云って全部食べてから「この分ならお母さんも元気になって、皆と一緒に日本に帰れるよ」と云った。「何を云ってるの当り前でしょう」。絶対に元気になると信じていました。亡くなる前日の事でした。明け方四時半頃、「喉が乾いたからお水を頂戴」と云って起こされ、「では林檎をすってあげようか?」と聞いたら「はい」。大根おろしですってガーゼでしぽって、茶碗に六分目位あったか「コクコク」とお一いしそうに飲みました。「まだ早いから貴女も疲れているからもう一眠りしなさい、おこしてあげるから……」。八時頃バッと目があき母を見ると、目がうつろに開いているではないか。もう無我夢中でお医者様をはだしで呼びに行った。すぐ来て下さりカンフル注射を一本打ち、聴診器を胸にあてた時、大きな呼吸を一つして「御臨終です」と云われ、ただ荘然と涙も出ませんでした。
 隣の部屋の除隊兵の方々、そして前にも書いた田辺のおじさん達のお世話で形ばかりのお葬式も出しました。葬儀屋も日本人経営だったのが逆になり、主人が中国人になり、経営者が使用人になってました。私が泣いたら妹や弟がどうなる、と思うと涙一滴出ませんでした。全部の責任が私の肩にかかって来ました。葬儀屋のおばさんがお棺に釘を打っのに、私が、わざわざ安東郊外におられて、御会葬下さった父の部隊の方の奥様に御礼を申し上げたりと、忙がしく立廻っているので「お姉ちゃん早く来て、貴女がこないとお別れが出来ないよ」と催促され「迷わず成仏する様にいい所に行きなさいよ子供達の事を守ってあげなさいよ」と、おばさんの言葉。石でお棺の蓋をたたいた、忘れられません。三頭立のやんちょに乗って山の上、眼下に新義州の町が見える所でした。その時も、内乱の流れ弾がヒュンヒュンと音をたてておりました。除隊兵の方が三人で深く穴を掘り埋葬し、土をかけて、男の方三人でやっと持てる大きな三角形の石を、その上にのせて下さいました。又いっか来る事が出来たら、この石を目当にして来る様に、親切にしていただいた事一生忘れません。
 その日の晩、枕元に母が元気な頃の姿で現れ、遺体に着せた蔦の模様の浴衣姿、髪もきちんと束髪にして、「貴女がしっかりしなくてはいげません、姉弟仲良くして助げ合って絶対に日本に帰って下さい。ぼうや(弟)の事くれぐれも頼みましたよ。黒と赤の縞物の風呂敷の中の物は重要書類だから、しっかり日本まで持ち帰る様に、帰ったら小倉の祖父の所に行く様に」と色々と指示してくれたのです。妹も同じ夢を見たと、言います。きっと母が来てくれたのです。昭和二十一年五月二日午前八時三十分、母は私達に心を残し永遠の眠りにつきました。享年五十二歳。

 今この文を書きながら、もはや母の年を超えてしまった自分、その時の心を思いやると涙がとめどなく流れてしまうのです。
死んでも死にきれなかった事でしょう。その時私十八歳、妹十四歳、弟十歳でした。その後満鉄社宅を追い出され、花月楼と云う旅館に避難民は収容されました。その頃から田辺のおじさんの御世話で、古着を売る大道商人を始めました。安東在住の日本人が衣類その他を中国人に売り払うと、それを買いとった中国人が、日本人を売子に使って毎日市がたつのです。片言の満語で私が売る、妹はお金を数えて首からぶらさげた袋に入れる、すべて中国はかけ値で商売をします。例えば八百円で売って良いものは千弐百円位から、せりあって、もし八百五十円で売れれば五十円は私の腕、八百円に対して五分の手数料をいただげると云った具合でした。
 その頃は満洲銀行券は力がなくなり、八路軍の軍票が使われておりました。満洲銀行券は百円は百円、ところが軍票は五十円が百円の値打ちがあり、計算がしにくかった事を思い出します。
 朝食を済ませると弟がござを持って良い場所を取りに行く、必ず貸本屋から借りた講談本を持たせて、(これが日本に帰ってから漢字や歴史の勉強に役に立った様だ)私と妹が仕事をもらって来て弟と交替する。弟は家に帰って留守番をする。午前中の仕事が終るとござをまるめて昼食に帰る。弟が二階(私達の部屋があった)の縁側からのり出して「お姉ちゃん儲かった?」と必ず聞く。「儲かったよ」と云うと階段をかげおりてくる。その日は、チエンピンの中にから揚の魚とか、やき豚風なものを巻いて食べる。儲からない日は生の葱だげ。昼食の買物はいつも弟の仕事でした。毎日々々その日その日の稼ぎで食べていった。
 無情の雨が三日降りつづき、それも、ソ聯兵が鴨緑江の堤防の機械をはずして持っていってしまった為、洪水になる。仕事も出来ず三日間飲まず食わず、私も妹もだまって頑張るが、十歳だった弟はさすがに泣きそうになる。隣の田辺のおじさんが心配して、「あんた達何も食べてない様だけど、困ったら言いなさい」と言ってお菓子を下さった。弟に先づ食べさせ、妹と私も少し食べた。そうして居る時、いつも仕事をくれる中国人の劉さん(当時二十七・八歳位、新婚ホヤホヤのきれいな奥さんが居た)が、窓の外から紙に包んだ米とかポーミーバソを、私の部屋の廊下に向けて投げ入れてくれた。おかゆにして三人餓えをしのいだ。中国人の思いやりの深さ今も忘れない。劉さんの奥さんが里帰りをした時だった、私達三人共、日頃ろくな物も食べていない様だから御馳走をしてあげると云う事で、妹と弟を連れて劉さんの家に行く。六帖位の温突一間の家だが、台所(土問)の大きなかまどの上に大きな支那なべがかかっていて、鍋の下でスーブを煮て、上のぐるりにポーミーパソを張りつけて焼いている。その火は床をくぐって室を暖める様になっている。たち魚を大きな鋏で切って、揚げてドロッとした具の入ったたれをかけたもの、日本の赤飯(うるち米)を卵を入れて焼飯にしたもの、三人共たらふく御馳走になった。ただ、中国人はおいしいものを食べる時は、外に出て人に見せながら食べる様に云われたげれど、それだけはどうしても出来なかった。
 大道商人をして居る時いい客がついて、品物が良い値段で売れそうになると劉さんがさくらになって現れ、うまくせりあげていい商売が出来た。国民服の乙型の上下をかなり良い値段で買ってくれそうな、人の良さそうな老人、もう一寸と頑張っていたら泥棒に他の物を万引されてしまい、その老人がそっと教えてくれたので、妹と二人ではだしで追いかけた。中国人は皆でシヨートルシヨートルとはやしてくれて、品物をやっとの思いで取りかえして来た。その老人から、「ほら欲張らずに私の云い値で売りなさい」と云われてその通りにした。とにかく夢中でかせいだ。夕方になると必ず葬儀屋の中国人が集金に来た。母の葬儀代は何と日払いで支払ったのである。妹はそれは覚えてないと云う。
 何分片言の満語なので失敗も多くあった。五十円の事はウーシーカイ、五円はウーカイ、それを間違って言ったので先方は安いから売れと云う。私の言い違いだと云っても許してはくれない。靴でなぐられた事もあった。でも損は出来ない。五十円の物を五円で売ったら四十五円の損、おまんまの.喰いあげになる。やっとの事でかんべんしてもらった。それから金額だげは絶対に問違えなくなった。行李一ぱい弐百円と請負い、午前中頑張って一つ一つ吟味して売り、随分儲かってやれやれ。昼食後は反対側で又ござを敷いて残りの物を並べて居た。あまりの疲れに二人共居眠りをしてしまい、周りの笑い声で目を明げたら、品物は何もない。ござの上には私と妹だけ、昔の乞食かおこもさん。二人で泣き笑いをして帰宅した。
 万引になやまされるので私はオーバーの袖に片手を入れ、片方の足にズボソをはく。靴には紐をつげて首からぶらさげると云った調子。連日頑張り抜き名物クーニャンと云われた。「お嫁さんにこないか」と云われると、私は素的な主人が居ると答えた。今ソ聯に連れていかれて居ると云うと、中国人は私の鼻を指でつついて、「いやいやクーニャソ(娘)だ」と云う。私は今でもその理由がわからない。
 公設市場の横の空地にスイヨウ(誰かいらんか)市場と云うのが出来て、衣類を持ったり着たりして流して歩くのです。中国人がそれを廻りで見ていて、自分が欲しい品物があると傍に来て、例のかけ値で取引が始まり、「テンホーソーハトルチェン」。これなら売って良い価格で話し合いがすんで売却する。いい商売になりました。ところが中国人街に行くともっと良く売れるとの事で、妹を連れて行きました。あまり夢中になっているうちに日が暮れかかって来ました。中国人街でわからなくなると、一生日本には帰れないと云う事をかねてから聞いてましたので、赤い長繍絆を羽織ったまま無我夢中で妹を連れて走りました。私はかつて陸上競技の選手をしており、足に自信がありましたが・…:。とにかく妹を引張って、やっと日本人街に辿りついた時の嬉しさ、弟が一人でしょんぼり待って居た姿、今も思い出します。
 夕方の食事の買い物に出掛け、市場の廻りの道を歩いて居ると、急に八路軍の兵隊に自動小銃をつきつげられ、こちらにこいと云われ、連れて行かれた所が日本で云う区役所の様な所、その一室に日本人の女(若いのから中年迄)の人ばかり沢山っめこんで、外から鍵をしめられました。八路軍の看護婦にするのだと云う。家族にも何の連絡もしないでこのままとはひどい何とかしてくれと皆騒ぎ出しました。それもその筈、皆行きずりに捕ってしまった人達ばかりなのです。(日本人の女は教育を受けているので役に立つと云うのです。これを看護婦狩りと云いました)。話合いの結果、明朝着替、其の他身の廻りの物を持って、安東市庁の庭に九時集合と云い渡されました。もし約束を破ったり逃げたりした場合、収容所の中の他の人に迷惑がかかる、と云う事をはっきり云い渡されました。私の所の班長は坂本さんと云う方だったと思いますが、「兎に角みんなの為に行ってくれ」とおっしゃるだけ、眠れぬ一夜を明かし、毛布をクルクルと巻いて、その中に少しばかりの下着と洗面用具を入れ、一生の別れになるかもしれぬ妹と弟をおいて出発しました。
 安東市庁の庭には二百人程の女性が集まりました。ふてくされて着替えも何も持たず、下駄履きの人もおりました。誰も皆悲壮な面持です。八路軍の係の人が私の前にやって来ました。
皆名前と年令を云うのです。その時私は片言の満語で「私の母死んでいない、父はソ聯に連れて行かれた。家には小さい妹と弟が居る、もし私が連れて行かれたらこの二人は死んでしまう。何とか助けてくれ、もし私を連れて行くならば二人の妹弟に、ちゃんと食べさせてくれるか、その返事をくれないうちはここを動かない。助けてくれ、助けてくれ」。と懇願した。
 一通り検閲が終った。その時奇蹟がおきた。たった二人だけ帰してくれたうちの一人に私が入った。一人は栄養失調で湿疹だらけ、その上に下痢の止まらない男の子を連れた中年の婦人と私ではないか。天にものぼる気持とはこの事、宙を走る心で家に帰った。しょんぼり座って居た妹弟と抱きあって喜んだ。
私達の為に命を捨てた母が、きっと守ってくれたに違いたいと今も思っております。人の真心は国境を越えて必ず通ずるものだ、と今も思うのです。しかし三頭立の馬車に満載されて連れ去られた方々は、奥地で亡くなったり、中国人の奥さんにさせられたりして、そのほんの一部だけしか日本に帰っておりません。肉親と別れ、不幸な運命を辿ったのです。馬のひずめの音、車のきしむ音、今でも耳の底に残っております。

 依然として安東の引揚は始まりません。田辺のおじさんがいつまでここに居ても帰れる見込みはない、正式ではないがやみの引揚団体に入って、とにかく奉天方面に行けぼ何とかなるかもしれない。一か八かのかけの様なものですがその団体に加わりました。田辺のおじさんと、そして何と劉さん御夫婦が安東駅迄送ってくれました。そして御餞別に百円もの金を下さったのです。今でも会えるものなら会って御礼が言い度いと思うのです。中国の方の心優しさは、残留孤児を立派に育てて下さった事でも立証される様に、すばらしい心のある民族です。有蓋貨車でしたが、三時間も走った時貨車からおろされました。当時内乱で中共軍(八路軍)と国民政府軍が戦っておりましたので、その国境になるのでしょう。歩くことになったのです。私の大きなリュックには安東の林檎を一ぱい入れました。妹は着替えとおべんとう、弟には貴重品(貯金通帳、有価証券と父の勲章)と母の遺髪と、爪の入った小箱を持たせました。山越えする時、満人に荷物を運んでもらって、そのまま略奪された人も沢山おりましたが、私達はお金もないので自分で持ったのが幸運でした。
 


 ズックの靴も穴があいてまめだらけ、泣きそうな顔の弟の手を引張って、今度の休憩で林檎をあげるからと云いきかせ黙々と歩きました。夜は以前日本人が住んでいた空家(障子も襖も壁もなく、ただ骨組と屋根だげある家)の押入れでやすみ、朝は飯盒炊さんで食事を作り、三日間行軍しました。最後の晩は中国人の家に泊めてもらいました。大事に大事に持っていた口紅を、その家のクーニャンにあげました。シエシエーと云って持っていきました。お手洗に入ると、今したものを黒豚がすぐ食べてしまう。お尻をなめかねない様子、落ち着いて用を足す事も出来ません。
 ヘトヘトになって、やっと辿りついた所に避難民列車がありました。無蓋貨車で送られた所が錦州省のコロ島でした。ところが何とおびたたしい人(日本人)が集結しておりました。すべて先着順ですので、そこで一週間以上は待機しました。伝染病「天然痘」が蔓延しておるとの事で、乗船前に予防注射(四種混合)種痘をする。アルコール綿で拭く仕事を私は若いのでさせられました。延々長蛇の列の方がた。まるで大根に針を刺す様な感じのスピードで行われました。来る日も来る日もお手伝いをしました。そこのお手洗が、露天に板が二枚渡してあるだけで、足を踏みはずしたら一大事。満洲の九月末は朝夕は冷え込んで、土間にアンペラ一枚敷いただけでは、夜はしんしんと冷えて眠れなかった事を今も覚えております。妹と弟はオーバーがあったのですが、私はラクダの衿巻一枚なので寒かった。でも日本に帰れると思っただけで嬉しくて嬉しくて、その時は何も苦労とは思いませんでした。
 愈々乗船の前の検査は国府軍の女の兵隊でした。私は特に念入りの検査で、ボデーチェックから靴をぬがし、靴下の中まで、おにぎりの中まで割って見ると云った厳重なものでした。その時、弟に持たせてあった父の勲章と満洲での貯金通帳、父の勲章についていた債券等を没収されました。残念でした。でも命があったのだものとあきらめました。
 私の乗った引揚船は大郁丸と云う昔、油輸送に使用していた船でした。スピードは八ノット。八日間かかって佐世保に着きました。御苦労さん御苦労さんと云いつつ、私達を迎えてくれたその時の船員さんの、何と素的に見えた事か。今テレビや映画で見るどんな二枚目よりも、私の心の底に忘れ得ぬ思い出として残っております。萬歳と心の中で叫びました。
 船室は船底で幾つにも仕切ってあり、丁度座って頭が天井すれすれといった具合。食事は班ごとに甲板まで取りに行く。矩形の木の箱(ばっかんと云っていた)に、こうりゃんに野菜、その他もちろん大根のしっぼのひげの所、骨っきのままたたいた魚の入った雑水でした。現在ならば豚の飼料よりもっと悪いかもしれません。私も男なみに、いつも急な階段をのぼって食事運びの当番をしました。さあその分配する時が大変なのです。皆の目は血走っていて殺気だってるのです。おたま一杯つぐと、今のは盛りが多い少いと血相を変えるのです。皆まったくの餓鬼童になるのです。すさまじいものです。弟が若い船員さんに可愛がられて、夜は良く船員さんのベットに寝かせてもらい、たまには乾バン等を貰って来て私達にそっと持ってくるのですが、廻りの人を気にして皆が寝静まった頃、頭から毛布をかぶって音をしのばせて食べたものです。弟が船員さんの所に行ってる時食事がくると、三人分いただいて二人で食べるとまわりから文句を云われるし、妹が風邪で高熱を出した時等、又悪い伝染病ではないかと自い目で見られるし大変でした。
 事実疑似コレラ、天然痘発生で、みすみす佐世保港を目の前にして、沖で停留する事一ヶ月。その間の苦しさはとても云い現わす事が出来ません。昨日まで生きていた方が、朝なかなか起きてこないと思ったら亡くなったとか……。それに共産党員が紛れこんで居たとの事で、人民裁判も行われました。亡くなった方の遺体は、むしろに包んで船尾から水葬と云う形で海に捨てられました。
 一ケ月後やっと解禁されて上陸と云う事になり、その前に、はじめて分刻みで入浴を許されました。こすれどもこすれども垢だらけ、それもその筈安東に居る時以来何と五十余日振りでした。勿論しらみのたぐいは誰でも持っておりました。あっと云う間に制限時間は過ぎました。しかしそのあとの気持の良さは例え様もありません。いくつかの危険を無事のりこえて、要らなくなった青酸カリを佐世保の沖に捨てました。DDTを頭から体中にかけられ検疫を終えました。
 晩秋の佐世保に、妹弟と三人懐かしの故国の土を踏みました。涙が滂沱の如く流れました。佐世保に売っていたふかし芋を三人でお腹一ぱい食べました。



 この戦争で戦死した方、又傷を負った方、内地に居ても原爆にあった方、肉親を空襲で失った方、怪我をされた方、沢山な不幸な人が出来ました。今現在残留孤児として苦労しておられる方、又その肉親の方、親切に育てて下さった中国の養父母の方、凡て戦争の犠牲者です。本当に永久に地球上,から戦争をなくして下さいお願い致します。私は声を大にして申し上げます。この様な不幸を二度と繰り返さないで下さい。
 最後に御世話になった田辺のおじさん、北京のおばさん、除隊兵の方、特攻隊(接客婦)の方、そして劉さん御夫妻に心から有難うございました。又この苦しい期問中、病気一つせず無事に乗りきる事の出来た健康な肉体を下さった両親に、心からの感謝を捧げます。

 昭和五十七年(一九八二年)八月十一日
                           矢野和子(旧姓南部)
 
満五十五歳の夏記憶の薄れぬうちにこれをしたたむ。
残留孤児の方の悲劇をテレビで見る時に、もし私が妹弟の手をはなしてしまってたら、或いは私達もその様な運命になったかもしれないと思うと、身の震える思いがするのです。
政府の高官の方々、一日も早い解決策を実行して下さい。

BACK