平和への時の流れに

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今、世界に平和への流れが静かに進行している、と最近、気付きました。その速度は、思った以上に速いようです。今年の8月前半、インターネット上で、戦争と平和に関する議論に参加し、いろいろ調べているうちに、その感を一層強くしました。議論を共にしていただいた方々に感謝しつつ、その一端を書き記そうと思いました。


20世紀の前半と後半

20世紀は、日本を中心に見てみれば前半が戦争の時代、後半は、前半の教訓を元に生まれた平和憲法、とりわけその9条を巡る平和と戦争への綱の引き合いの時代でした。日本の国家としては、必ずしも平和指向ではなく、憲法9条にしても、主として自民党政権を中心に解釈改憲という形で、警察予備隊から保安隊、自衛隊などと名称を変えながら軍隊を大きくし、ついに実質的には海外への派兵をするところまでも来ています。しかし、その間、その軍隊は幸いにも戦火を実際に交えるところまでは行かずに済んできました。

この間の綱の引き合いは、平和を願う世論の力が強かったがために、解釈改憲という形に止まらざるを得ないのです。曲がりなりにも国民の民意を反映した国会の攻防を中心に、様々な運動などを通して国民の多数の平和を希求する意志が、実質改憲に踏み込みたい権力側の意志の実行を許さなかった歴史ということができます。


気がつきにくかったもうひとつの流れ

その流れが、日本の国内では主流でしたが、もうひとつ、世界の中での流れの変化もありました。特に、第2次世界大戦における戦争の悲惨と不条理の教訓の上に、戦争はもうこりごりだという民衆の認識は強まりました。そこに源流を持つ新しい流れです。その流れが浮上するのは、ソ連、東欧の名ばかり社会主義国の体制崩壊のあとからでした。

それまで、米ソを中心に、資本主義諸国と「社会主義」諸国を主軸にした力のバランスで、外交も政治も、経済も動いてきたのでしたが、その一方が崩壊したことによりバランスが成り立たなくなったのです。それまでの多くの国は、その主軸を巡って、仮想敵国をおいて軍備を増強し、実際に、第2次大戦の教訓を棚に上げて戦火を交えてきました。そして、戦渦に巻き込まれた多くの民衆は、塗炭の苦しみに遭遇させられたのでした。

しかし、冷戦構造からの離陸が誰の目にもはっきりし始めた頃、世界の多くの国々に異なる動きが見え始めました。しかし、日本人の目に、それはなかなか見えてこなかったかのように見えます。なぜなら、そのような動きの中で、ほとんどひとりアメリカが置いてきぼりを食ったように、9・11後に典型的に見られるような根拠のない戦争に突き進む中、日本は、相も変わらず日米安全保障条約を拠り所にするアメリカ追従路線をとりつづけ、インド洋への自衛隊派遣にしがみついているからです。国家権力がそれにしがみついているなかで、国民の多くもこの日米蜜月体制にひたりきって、世界的規模での流れの変化に眼が向いていないのです。ジャーナリズムがまたそれを助長させてきました。

少なくともECの前進の途上で、日本もそれに気付くべきでした。日本がそれに気がついたのは、東南アジア友好協力条約(TAC)の動きが進み始め、2004年、小泉内閣の時、慌てて仕方なしにTACに加盟したときでした。


東南アジア友好協力条約をめぐって

ヨーロッパでは、経済統合から政治統合への歩みが模索されてきました。国による足並みの乱れはあるものの、長年の夢となっていたヨーロッパの統合に向けての歩みです。これは、多分、現代における人類史的実験のひとつでしょう。

アジアの諸国もそうした世界の変化を、日本を除き、多くの国でも感知していました。それに対する反応の最初のものが、ASEAN(東南アジア諸国連合)の発足でした。1967年にASEANが結成されました。その憲章では、外国軍基地が域内諸国の民族独立と自由を覆してはならないとうたっています。豊かで平和な共同体をつくることをめざすとしたASEANの目的に沿って、これら諸国が、一歩一歩前進してきたことは当然といえば当然なのですが、そこには、何よりも20世紀中盤に何度にもわたって戦火に踏みにじられてきた苦い経験があったからと考えられます。

実は、これら諸国はそのまえに、大変すぐれた経験を作り上げていました。1955年、インドネシアのバンドンにアジア・アフリカ29ヵ国の元首、首相が集まりました。そこにおいて、「世界平和と協力の促進に関する宣言」としてうたわれたバンドン平和十原則がそれです。29ヵ国には日本も含まれます。この会議は、インドが主催し、多くの激論がかわされ、周恩来の「求同存異」の訴えやナセル・エジプト首相の斡旋などもあって宣言の全会一致採択にこぎつけました。この十原則は、領土・主権の尊重、不侵略、内政不干渉、平等・互恵、平和共存、国連憲章の目的と原則の尊重、国際紛争の平和的解決などからなっています。これらは、言うまでもなく、戦後に湧き起こった民族独立の動きを反映し、さらに発展させる力を増進させました。

東南アジア友好協力条約(TAC)は、その条約において「武力による威嚇または武力の行使の放棄」をうたっています。共通の敵を仮想して武力行使を含む集団的自衛権の行使ではなく、隣国との協力、和解を通じて平和を実現しようとしているのです。TACは、バンドン平和十原則のあとでもベトナム戦争、タイとフィリピンがアメリカのアジアで進める戦争に参戦することもありました。それらの教訓を生かし、「世界の平和・・・を促進するため、東南アジアの内外のすべての平和愛好国との協力が必要(条約前文)」とうたっているのです。

現在、TACには、ASEAN諸国だけでなく、日本、中国、韓国を含め東アジアのすべての国々を含む25ヵ国が加盟しています。オーストラリア、ニュージーランド、ロシア、フランスなど、この地域と関係の深い域外の国々の参加もあります。人口でいえば約37億人、世界の57%をカバーしていることになります。

TACが注目されるひとつの要素は、2005年に始まった東アジア首脳会議へ参加するためにはTAC加入が前提になっていることです。つまり、東アジア首脳会議が、将来の東アジア共同体をつくろうということを見据えているからです。いままでに3回、そのためのフォーラムを開催しています。


平和を希求する大きな流れ

EUにもみられるような戦争の世紀から平和の世紀を作る方向での地域統合に向けた動き。これが、今、上で見たとおり東アジアでも動きだしつつあって、着実に歩を進めています。中南米の諸国は、特にアメリカの軛から脱して、自主独立の国を作り上げようと模索しています。アフリカもアフリカ統一機構などの動きを活発にしようと、近年の国間の格差解消なども視野に入れつつ動いているようです。このようにみると、21世紀は、紆余曲折はあるかも知れませんが、最大の目標が平和の実現にあって、それを知性の力で何とかしようとする方法が追求されていくように見えます。

現在、軍隊を持たない独立国が27ヵ国もあるといいます。比較的小さな国が多いです。小さな国は、財政的にも軍隊を持つのは大変なことも多いです。小さくとも軍隊を持つ国もあります。しかし、戦争の悲惨と絶望を経験すれば、軍隊を持たず、知性による外交を以て国を守ろうとする選択はあり得ることです。ということは、大きな国でも、そういう選択があっても良いはずです。あの戦争直後の日本は、それをめざしたはずでした。

考えてみると、人類の500万年近い歴史の大半は戦争のない時代でした。国家が誕生し戦争が始まってから現在まで、たかだか5000年でしょうか、1日の長さに換算するとほんの0.1%の時間、2分弱です。人間の闘争本能が戦争を引きおこすというよりも、国家の都合が戦争を引きおこしてきたのです。新しい時代、闘争本能は、スポーツなど、ルールのある場での熱戦に使うことにして、戦争は捨て去って紛争などの解決には国連などの機能を活用し、知性によることを基本にしたいものです。長い原始時代は、戦争する必要がない社会でしたが、今は、国家が強大になり、ともすると戦争が起こりがちです。しかし、21世紀は、原始時代に比べひとまわりもふたまわりも質の高い段階での平和の時代をつくろうとしているし、それが可能になっていると思います。

そのとき、過去の戦争を語り継ぐことは不可欠です。それなくして、平和の実現、維持は困難です。今、戦争を知る人たちが高齢になりいなくなりつつあります。しかし、今、それらの人たちが、長い沈黙を破って戦争体験を語り始めています。それらを、言葉で、文字で、映像で残し引き継いでゆくことがとても大切になっています。そうしたことをはじめとして、日本国憲法第9条を守る運動への何らかの参加などもそうでしょうが、21世紀の平和に向けた時の流れに一人の人間としてたとえ小さくとも貢献できることは、幸せの大きな一片だろうと思うのです。

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