フランス革命の成果としての人権宣言とその後世への影響(序説)
日々、冨を生み出すべく働いている人々が、ある人は考えられないほど多額の報酬を得ているけれども、他方では、いつ職を失うか分からなかったり、生活保護水準以下の月給しか得られなかったり、仕事が見つからない人さえ少なくないという現状が拡がっています。そもそも、人間は平等であるべきということはいわれてきたし、現代においては、人権というものがあって法の前に人は平等だ、とされているのだと思ってきました。それが、最近はおかしくなっているようです。社会が民の労働で支えられていることは事実でしょうが、最近の日本などの政治を引き合いに出すまでもなく、民の労働は報われていません。 そのあたりをおさらいするために、民主主義の成り立ちを歴史の中で考えてみました。 民主主義は、何といっても欧米起源、とりわけ西欧にその起源をもつといってよいでしょう。 世界の国々を頭に浮かべたとき、共和国と名のつく国、名に出てこなくとも共和制をとっている国がたくさんあります。共和国という国のかたちは、歴史において最近になって現れてきたものです。共和制の多くが革命や独立戦争を経て実現しております。欧米の歴史において、一八世紀のフランス革命、アメリカの独立革命はその代表例です。今年(2011年)は、辛亥革命100周年ですが、中国の絶対王制が倒されて共和国になったのが辛亥革命でした。アジアで最初の共和制国家でした。 立憲君主制の国も少なからずあります。イギリスの場合は、一七世紀の革命後、立憲君主制になりました。フランスではナポレオン王制がその後敷かれますが、直前のフランス革命を受けて、民主主義的改革が数多実行されております。君主をおくけれども、憲法を持ち、共和制と同等な政治が行われていました。わが国もいうまでもなくこれということになっています。 近現代の歴史を総体として眺めると、近代から現代までの欧米政治の流れとしては、絶対王制を脱し共和制へというものが主流になってきました。その中で、現代民主主義が培われてきたのでした。 フランス革命では人権宣言、アメリカ独立革命では独立宣言に新たな国の理念がうたわれ、その後間もなく作られる憲法の基礎になりました。それらに見られる民主主義の諸原則は、共和制国家のあり方としてその後の歴史において時に苦難の歴史を含みつつ発展・定着を見ることになります。 民主主義とその歴史を考えるとき、人権宣言はとても重要な成果であり、その後の発展の温床だったと考えられます。そこで、フランス革命において発せられた人権宣言をやや詳しく見ておこうと思います。 フランス人権宣言は、突然、フランスに湧き出たものではなく、世界史の上では、イギリス革命を受けてアメリカの独立の経験をも踏まえ、いわゆる啓蒙主義の思想を受け継いでフランス市民のたたかいの成果として出来上がったという経緯があります。 さて、フランス人権宣言といっても、フランス革命の進展の中で四つの宣言が出されています。すなわち、 1789年8月26日「人および市民の権利の宣言」 1793年4月26日「人の自然的、市民的、政治的権利の宣言」(ジロンド派) 1793年6月24日「人および市民の権利の宣言」(ジャコバン派) 1795年8月22日「人および市民の権利と義務の宣言」 です。これらが、どのような権利を謳っていたかを簡単に確認しておきます。 まず、四つの宣言の呼称に見てとれるように、人権を「人」と「市民」の権利とに分けています。従来の研究によると、「人」および「市民」の権利というのは、それぞれ人間の自然的権利と社会的権利に対応しているとされます。自然的権利は、このあとで具体的にみることとしますが、社会的権利については、その代表的なものは公民権であり、それは人権の延長線上にあるとされます。その他、ジロンド派、ジャコバン派の宣言には、教育と公の救済が掲げられ、前者では公教育無償の原則が提起されており、後者は、今にいうところのセイフティーネットを具体的に提起しています。 ここでは、自然的権利、自然権を考えることとします。自然権といわれるものの内容として、四つの宣言に共通してあげられているのが、自由、平等、安全、所有権です。95年宣言以外では、抵抗権も含まれています。これらのうちから、おもな内容を概観してみます。 人権宣言においては、思想、信仰、信条、言論、出版の自由がとりあげられています。89年宣言では、第10条において「何人もその意見について、それが、たとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかきり、これについて不安をもたないようにされなければならない」として、信条、信仰の自由を宣言しています。ジロンド派宣言では、第4条で、「すべての人は、その思想および意見を表明することが自由である」とし、第6条で「祭祀の実行において自由である」としています。89年宣言にあった公序をもって制限する記述はありません。ジャコバン派宣言でも同様です。しかし、95年宣言からは、こうした具体的記述は姿を消し、第2条で「自由は、他人の権利を害しないことをなし得ることに存在する」とだけ記しています。 言論、出版の自由について、89年宣言第11条で「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利」としたうえで明記しています。ジロンド派宣言は、第5条において、また、ジャコバン宣言では第7条においてこれら自由を限定なしに謳っています。 また、ジャコバン宣言の第7条には、「平和的に集会する権利」が認められています。 なお、職人、労働者の団結権は、1891年のル・シャブリエ法で禁止されています。同法によると、労働者の団結は「自由と人権宣言とに対する侵害」であるとされます。これに関し、89年宣言第4条で、これら自由「の限界は、法によってのみ、規定することが出来る」としていることと整合しているのです。 また、これら宣言に生存権があげられていないことも、この段階では、生存権が自由ないし所有権と対立的に捉えられており、自由ないし所有権が優先されたというのです。つまり、労働者の自由は私的所有と敵対的関係にあり、これら宣言が基本的に労働者を雇用するブルジョアジーの利益を代表し、前者に対し後者が優先されていると理解されます。 マルクスは、これら宣言における自由とは「人間と人間との結合にもとづくものではなく、むしろ人間と人間との区分にもとづく」ものであり、「自由の人権の実際上の適用は私的所有という人権にある」としたうえで、自由の問題がとくに経済的自由の問題であることを指摘しています。 つぎに、平等についてみておきます。 フランス人権宣言が、王侯貴族の特権身分を否定したことはいうまでもありません。89年年宣言、ジロンド派宣言では「権利において平等」とされ、ジャコバン派宣言では第3条において「すべての人々は、本性により、かつ法の前に平等である」と記されています。95年宣言は「法の前の平等」を謳っています。これら原則の適用においてとくに重視されているのが公職への就任です。95年宣言では「人民の代表者および公務員の任命に協力する平等の権利」が明記されています。 これらのなかで、「本性により」平等という考え方は、王侯貴族、僧職など特権身分の否定ということからも重要ですが、その具体的適用ということから容易に考えつく問題点は、黒人など植民地住民、少数民族および女性に対する平等の保証がないことです。ですから、フランス宣言が発表されると同時に、植民地住民や女性に、平等に対する覚醒をもたらしたことはいうまでもありません。その成果として、現実にハイチの独立が1804年に実現しますし、女性解放の運動がフランス革命と同時にスタートしています。しかし、それらの全面的実現の課題は現代までつづくこととなります。 所有権については、89年宣言には、第17条に一般的な規定が書かれておりますが、具体的内容についての記述はありません。ジロンド派宣言では、所有権とは、すべての人がその財産、資本、所得、労働を任意に処分することができ、どのような職業に従事することも自由であって、サービスや時間の拘束を契約することができるが、自分自身を売ることはできないとされています。ジャコバン派宣言でも同様なことがいわれております。95年宣言では、所有権が権利とされるだけでなく、その維持が義務とされています。 ジョン・ロックは、素材としての自然はすべての人の共有物であるが、労働を加えることによって私有物に転化するとしています。ロックのこの所有権論は、一方で、所有権が国家や法律に先行するものであり、所有者の同意なしにはこれを奪うことは出来ないとする反面、他方で、とくに貨幣の使用による冨の蓄積と不平等とを認めることによって、資本主義的収奪を是認する理論ともなっています。 国家と主権の関係をみておきます。 89年宣言では、第3条において「あらゆる主権の原理は本質的に国民に存する」としています。ジロンド派宣言は第27条で「主権は本質的に人民全体に存」するとし、ジャコバン派宣言でも第25条において同様のことを記しています。95年宣言では「主権は本質的に市民の全体に存する」とされています。このように、国民の一部に政治への参加権を認める国民主権と国民のすべてにそれを認める人民主権とが混在しています。 89年宣言は、上記の通り国民主権と取られうる表現をしつつも人民主権を目指すものとされており、1791年の憲法では、その区別が曖昧な形で出てきて、現実には、能動的市民と受動的市民とを区別し間接選挙制を取るなど、国民主権制が採用されています。ジロンド派、ジャコバン派の宣言で目指された人民主権制は、93年のいわゆるジャコバン憲法で成年男子普通選挙制として実現されました。 95年宣言では、それらは後退して、市民主権の言葉がみられるものの内容的にはふたたび制限選挙制に逆戻りしてしまいます。 国民の義務に関しては、納税と兵役があります。 89年宣言では、公権力の行使が公平であるべきことが述べられ、ジロンド派宣言でも公権力への協力を市民の義務としています。ジャコバン宣言では、主権者としての自覚に基づき自発的な公権力への参加が期待されています。95年宣言では、祖国の防衛が義務化されています。 租税については、ジロンド派宣言第22条で、租税は一般の利益のためでなければならないとして、「租税の設定に協力する権利」をもつとしています。ジャコバン派宣言も同様に納税者の権利を強調しています。 フランス革命は、いうまでもなく絶対王制を倒してブルジョア社会を作り出しました。ここまでに見たとおり、フランス人権宣言は、新しい世の中における民主主義的理念を明確に示すとともに、その実現における困難や問題点をも浮き彫りにしました。すなわち、宣言と憲法とのギャップ、理念と現実政治とのギャップは、上でも見たとおり少なからず存在しましたし、ジャコバン政権は恐怖政治に移行することとなりました。 しかし、これら人権宣言により、絶対王制に別れを告げ共和制が実現されたことは、決定的に大きな変化でした。フランスのその後の歴史をみても、いろいろ紆余曲折を経てこれら人権が現実社会に定着して行きました。 人権宣言の影響は、ナポレオンの王制などにおいてさえもみてとることができます。ナポレオン法典は、法の前の平等を謳って基本的に現在も使われています。傭兵制から徴兵制への切替はナポレオン1世の仕事でしたが、それによりいわゆる国民軍が誕生し、ナショナリズムのひとつの基礎を作り上げました。スペイン、ドイツ、ロシアなどを侵略し、帝国主義の拡張をもたらしましたが、それはフランス革命の成果の普及という側面をももちました。また、学制の改革などを通して進展をみた科学技術の振興もナポレオン治下でのことでした。つまり、フランス革命以前の王制とは大きく異なる側面を持ち、社会・経済の発展を促したのでした。 フランスの歴史において、成長を見せたブルジョアジーが大きな力を発揮して資本主義経済を発展させましたが、その後、帝国主義の進展、植民地の再分割なども見られるようになります。奴隷制の廃止など、人権、民主主義の前進が見られますが、植民地の解消、人種差別の撤廃などは、ずっと後まで残る課題でした。 しかし、そうした歴史の中で、人民自身が人権宣言の理念を身につけていったことは、とても大きな意義を持つものでした。人権宣言に謳われたような民主主義が経済発展の原動力として機能しつつ社会の中に広く定着していったのでした。 20世紀になってロシアに端を発した社会主義を目指す革命は、特異な進展を見ます。ソ連は、1917年の10月革命により絶対王制としてのツアーリを廃し、勤労大衆が世界で始めて政権を握ることからスタートし、第1次大戦の停止、侵略併合していた諸国の独立、社会保障制度の実施など、民主主義的政策を実行しますが、やがてスターリンによる独裁政治が展開するようになります。意見を異にする指導者の追放や粛正、一党独裁への拘泥、民族主義的領土拡張、少数民族抑圧、強引な経済政策の強行など、民主主義から外れた政策が展開されます。それらの帰結が1989年のソ連崩壊でした。 この時代、社会主義を標榜した国がソ連の他にも東欧、アジアに現れますが、東欧のほとんどの社会主義国は、ソ連に追随した政策を実行するに過ぎなかったために、ソ連の崩壊に相前後して崩壊してしまいました。 それら社会主義を標榜した国々の失敗には、その民主主義の未熟さが深く関係していたと考えられます。ソ連の場合は、ロマノフ絶対王制の下で1904年、1918年4月の革命が起こり、1918年の10月革命に至ったのですが、そこでは、フランスにおいてみたような民主主義を根付かせるプロセスが全く不十分なまま、スターリンの独裁に置き換えられてしまいました。スターリンの独裁支配は、東欧諸国などにもおよぶこととなり、民主主義は背後に追いやられてしまいました。 西欧において芽生えた社会主義は、民主主義をその主要な要素として内包していましたが、スターリンは、その神髄をほとんど骨抜きにして政治を行い、経済を運営し、外交を展開しました。民衆は、その恐怖政治の下で民主主義を実践することなく日々を送らざるを得ませんでした。ソ連の民衆は、10月革命の直後のわずかな日々しか民主主義を経験することができませんでした。このことが、その後のソ連とその衛星国の運命を決したともいえそうです。 中国においては、開放改革以来、市場経済を取り入れるなど社会主義をめざした歩みがつづいていますが、一党独裁、人権抑圧など、民主主義の原則に外れた面も見受けられます。ここにも、民主主義の未熟さがうかがわれます。 これらは、民主主義をめぐる世界史的課題となっており、今後の経緯が注目されます。 さて、ここで、日本の近代史をふり返ってみたいと思います。明治維新は、幕藩体制の矛盾と帝国主義列強の支配地域拡大のための外圧とが重なって起こった改革であり、その後の資本主義的発展を進めました。しかし、それはフランス革命のようなブルジョア民主主義革命ではありませんでした。新しい政権は、天皇制を担ぎ出した倒幕藩の連合政府でした。やがて明治憲法が作られますが、上述した欧米の民主主義に照らし不十分な内容でした。 明治時代の日本は、西欧を見本として近代的政治・経済を目指し大きな変革を推し進めましたが、自由民権運動への弾圧などにみられるとおり、民主主義を進める改革は、国会開設など極めて一部にしかみられませんでした。富国強兵策などに見られるように、軍国的性格が強く、その流れは次第に強くなり、第2次世界大戦にまでつながってゆきました。 明治憲法下の日本においては、天皇が統治権を持ち、江戸時代から持ち越された地主制が維持され、人権上の問題点が国家神道、制限の多い選挙権、男女不平等など数多く存在していました。それらに対し民主主義を求める運動は多数起こったのですが、軍国主義的国家統制体制の下でそれらは押さえ込まれてしまいました。つまり、わが国では、フランスにみられたような、国民的規模における民主主義の獲得は押さえつけられたまま終戦に至り、戦後においても、連合国占領下の民主主義的改革という、いわば上からの民主化を国民が経験するに留まっているのです。 戦後日本における民主主義の問題点をみておこうと思います。 昭和憲法においては、主権在民が謳われ天皇の権限は大幅に縮小され、農地解放で地主制は基本的に解体されました。しかし、安保体制の下で多くの軍事基地が残されています。生存権としての教育・福祉・医療は、西欧などに比べ遅れているところが多いです。選挙制度上の不平等は一票の重み、小選挙区制など、しばしば指摘されます。女性の社会的地位の向上はみられるものの西欧に比べ遅れているといわざるをえません。教育の機会均等は、経済格差とともに問題が大きくなってきています。アイヌなど民族差別は解決されたとはいえません。労働基本権は、公務員などでは団結権のみに制限されています。君が代、日の丸の強制、ビラまきに対する弾圧、職場での思想差別や政党支持の強要、政教分離の侵害などが、しばしば問題となっています。 憲法改悪に反対する運動、安保闘争、反公害運動をはじめ、多く国民的たたかいを通して民主主義は守られ広められてはいるのですが、いまだに課題は山積しているといわざるを得ません。 わが国における民主主義実現の不徹底、後進性は、現代政治や経済における諸問題とからみあって存在しております。それらを改めようとする動きはあるのですが、なかなか進展しません。その背景には、すでに少し触れたとおり、日本の国民が、欧米のように民主主義を自らたたかいとる経験が不足している事情があると考えられます。 民主主義を自らたたかいとり育てるという経験が浅いことからくると考えられる問題点は、中国や旧ソ連の前近代性にもみることができます。既に記した旧ソ連における独裁を許した背景には、国民の中に民主主義が根付いていなかったことがあるといえましょうし、中国における天安門事件、少数民族の暴動、人権抑圧事件などにも、同様な背景がうかがえます。 このようにみてくると、我々日本人の眼前にも民主主義を拡げ進める課題が横たわっていることが浮き彫りとなります。フランス革命の際に人権宣言として実現された民主主義理念は、まさにたたかいとられたものでした。わが国でも、上で例示したことに限らず、一つ一つの課題に向き合い個別に解決を求めることがいっそう追及される必要がありそうです。 参考文献 浜林正夫(1989)フランス革命の歴史的意義、季刊「科学と思想」No.73 高木八尺他(1989)人権宣言集、第40刷、岩波文庫 加藤周一・堀田善衛(1986)ヨーロッパ・二つの窓 トレドとヴェネツィア、リブロ・ポート |