ちゃー子(チャーズ)―中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女〈上・下〉
遠藤 誉(著) 文春文庫
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(上巻)
チャーズの地獄絵図の事実はもっと知られるべきです, 2005/8/6
この文庫本の親本が出版(1984年)されてから20年以上の月日が流れています、ここで語られるチャーズについてそれほど知られているわけではありません。しかし、終戦後間もなくの時期、長春に展開されたチャーズの地獄絵図の事実はもっと知られるべきと思われます。
終戦後も長春には、技術者や学者とその家族を中心に約800名の日本人が残っていました。中国政府に留用された人々です。その当時、長春では国府軍を八路軍が包囲していました。1947年10月17日、八路軍がダムを爆破し長春への電源を断ったのを機に、生活は一気に困難を極めます。八路軍の包囲網が狭められ、餓死者も続出し人肉市場さえ出現するようになります。両軍の狭間には「チャーズ」と呼ばれる鉄条網で区切られた緩衝地帯があり、国府軍側、八路軍側ともに関門を設けていました。市民は包囲から外に逃れようと関門を通ってチャーズに出ようとします。しかし、包囲作戦を徹底して国府軍の降伏をねらう八路軍は、八路軍側の関門を容易に開けようとしません。チャーズでは、地獄絵が繰り広げられ十万余にのぼる人々が餓死し死骸の山が築かれました。著者達家族もこのチャーズを経験したのです・・・。
その後、本書を書くに至るまでは下巻で扱われます。合わせて読んで頂きたいと思います。
(下巻)
著者の歴史を観る眼は不条理さえも条理に化す, 2005/8/7
チャーズから解放区へと脱出した著者家族らは、吉林を経て延吉で製薬工場をおこし落ち着きます。著者は、長春でかかった「全身結核中毒症」をストマイで奇跡的に克服しますが、工場経営者故に告発されたり、苦難も次々と続きます。著者には「延吉が好きでない」という時期がありましたが、後に、自分は延吉によって救われ育てられたのだと気付きます。その後、移り住んだ天津では延吉とは違う明るさに驚く一方、革命の中で懸命に生き成長して行きます。そして、日本への帰国の途に付く・・・。
上下巻を通じ、著者のこの時期の歴史と自分のおかれた境遇とへの対処の仕方は、自覚から自立への過程と読みとれます。地獄絵に対しても事実をしっかりと見据え、自虐とも自滅とも縁がありません。長春に関しても、国民党側に関しても八路軍に関しても、事実を直視し自らの自覚に達せしめます。長春に限らず延吉、天津、その後の日本での対処も含めて、いわば、「不条理(著者が最初の手記に使った用語)さえ条理に化す」方法論は、著者が、物理学者であるということと関係あるだろうと思われます。