<さぽおたあ通信 最終号(No.15) 1997年10月号>

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P1 ご挨拶


1995年8月に創刊された「さぽおたあ通信」もついに最終号です。
「月イチ」というお約束にも関わらず度々遅配したことを
心よりお詫び申し上げます。

この10月12日で震災から1000日が経過しました。
被災地はまだまだ数多くの難問を抱えています。
「すたあと長田」ももうしばらくは活動を続けます。
神戸にお寄りの際は、ぜひご連絡下さい。

 

目次

 2頁 「すたあと」に終わりなく、「さぽおと」におわりなし
 3頁 スタッフからのご挨拶 その1
 4頁 桜亭の金田真須美でございまっす 最終回
 6頁 御蔵通5−5 最終回
 8頁 のぶ日記 最終回
 10頁 長田夜話・すたあとスタッフ妖怪曼陀羅
 11頁 スタッフからのご挨拶 その2
 14頁 編集後記

編集・発行  すたあと長田
〒653 兵庫県神戸市長田区御蔵通5−5
Tel.078−521−7170/Fax.078−577−0157
e-mail FZW01216(NIFTY−Serve)
インターネットホームページ http://sakuraia.c.u-tokyo.jp/start/


P2 “『すたあと』におわりなく『さぽおと』もおわりなし”

だよね!!

 区役所の関係の方から、「Weekly Needsは いつも文章のなかで、ありがとうの気持ちがみなぎっているので、うれしく読める」と言ってもらったことがあります。

『ありがとう、サポーターの皆さま、ほんとうに、心強かったんです。皆さんのご支援は。ありがとうござました。』

 直接、御蔵通5ー5のプレハブまで、お手伝いに来て下さった方もあります。震災のおかげで、いい友がたくさん出来ました。会社人間、一辺倒だった私ですが、いろんな大切なことを気付かせてもらったんです。

 最初、すたあとのプレハブはあふれんばかりの仲間がいました。ミーティングも、よくありました。効率を求め、短時間で結論をだす会社の会議に慣れている私は、ひとり一人がフラットに意見をだしあうやり方は非常にまどろっこしく、感じたものでした。

 たどたどしく、意見を述べるひとに、途中でさえぎるもんが現われたら、すかさず、「最後まで 聞こうよ。」の声が必ずかかりました。時間じゃなく、結論を出すだけでなく、言ってみる、聞いてあげることの素晴しさを教えてもらいました。

 応援、支援をしてくださった方への感謝の気持ちでいっぱいですが、長田に住む我々にも自信めいたものが芽生えてます。

 「長田は特色のない町、住んでいるひとも、どうでもいいや」なんて思ってたんですが、「なんとなんと、えらい震災のなかでも、ひたすら、真面目に生きている長田のわれわれも、ほんまに、エエトコあるぞ」と思うようになってきたのです。

 今年のお盆にも、番町などで、ソウルフラワーも来てくれ、それにつれ、よその町から若い人もやってきて、土地のかたも喜んで、随分と盛り上がったものです。私も、ソウルフラワーや灘みやこさんの唄にあわせて、4時間ぶっとうしでフィーバーしたものでした。

 『エエ町やで、長田は。エエ人間が、ぎょうさん住んどー町やでー。そやからぎょうさんのさぽおたあも助けてくれたんやー』

大声で叫びたいと思います。だから、「さぽ通」がひとまず、終わっても、さぽおとは、【おわりなし】でお願いする次第です。

 本当に、ありあがとうございました。

(神戸市長田区在住 和田幹司)


P3 スタッフからのご挨拶 その1


「え! さぽおたあ通信が終わってしまうんかいな」
え!さぽおたあ通信が終わってしまうんかいな、なんちゅーことや!なんでも書きたいことを書きまくるというコンセプトではじまった「つれづれなるままに」も終わってしまうのかぁ。読者がぜんぜんいなくても編集会議で「つれづれの連載ストップ!」と言われてもめげずにガンバッテきたのに……残念です。

 と言うのはウソ。これまで、面白くない内容を計7回もさぽおたあ通信に載せて下さった「すたあと長田」のスタッフの方々に感謝です。
 まだまだ神戸・長田でも活動は続くのでさぽおたあ通信は終了しても応援はして行こうと思っております。
 ではみなさん、ひとまず さいならぁーーーー

(大阪在住 パミール


「まさに… つれづれなるままに…」
まさに…つれづれなるままに…
 ずいぶんと永い間、長田に足を運んでない。最後に「すたあと」を訪ねたのがいつのことだったかも、正確には思い出せないでいる。「さぽ通」の原稿を書くのだってずいぶんと久しぶり…何を書こうかと正直、戸惑ってしまう。まして、これが『最後』になりそうだとなると、なおさらだ。いつの間にかボクの中で「すたあと」の存在が薄れてきてしまった。「もっと何か、力になれることがあったんじゃないのか?」
そんな思いも、今、自分の中にある。

 ともかく、2年以上に渡って「さぽ通」はともかく(笑)、「ウィークリーニーズ」を出し続け、その他の活動を続けてきた「すたあと」のみんなには、お疲れさまといいたい。続けるっていうことはすごくエネルギーの要ることだと、改めて思うから。
 また近いうちに長田に行こう!そしたら、また何かが始まるかも知れない。ボクが震災で初めて長田を訪ねた時のように…。

(大阪在住 中村明弘《パパ》)

P.S.
 以前「さぽ通」にも載せて頂いた、わが家の息子「元気」も間もなく2歳。名前に負けないワンパク坊主に育っています。この場をお借りして、御報告まで…。


P4 桜亭の金田真須美でございまっす 最終回(第5回)


 公園からテント屋台『桜亭』の姿が消えて早や一年。いまだ職も持たず「桜亭の…」と前置をするのも変な感じ。
 テントを畳んでから今日迄、2度のビジネスチャンスに出会った。そのどちらにも手間と資金をかけトライしたが、もう少しという所で私の手許をすり抜けていった。まあ、これも縁かな…と自分に言い聞かせるが、くじけそうな気合を奮い立たせるのに結構ほねが折れる。

 

 残暑きびしい8月の末、仮設住宅から公営住宅への引越しに立ち合った。引越しの主は一人暮らしの78才になるおばあさん。2年前に私が仮設訪問をしていて知り合ったが、数十年に及ぶ一人暮しのせいか、想像を絶する程の人見知りで近所付きあいも苦手といった具合。それでも2年の仮設住まいで、誤解の種をまき乍らもご近所さんと語らう迄に至った。
 そして今年の夏の第3次募集で公営住宅(築15年、10階建て市営住宅7階の1DK)へ当選。

 このおばあさん、震災で自宅(借家)がつぶれ、仮設が当たる迄の8ヵ月間で4回も引越しを経験し、無理がたたったのか仮設入居後、体調を崩し入退院。そして今回も公営住宅への引越しを4日前にして倒れ、現在も入院中の身である。
 主不在では荷作りもしづらく、何かと不都合も多いので、今回は日を改めて仕切り直しかな、と考え乍ら入院先へ駆け付けると、「何としても予定通りに引越しがしたい」と疲労の浮かぶ表情で頼まれた。何故そうまでしてと話を聞けば、「役所で鍵渡しの日に<今日から14日以内に仮設を明け渡し、公営住宅へ移るように>と言われた」そうである。何だそんな事かと思い、「止むを得ぬ状況を役所へ伝えれば例外も認められるはず。私が代わりに役所へかけ合ってみるから」と説明してみても、「これ以上役所で頭を下げたくない。何とか予定通りに」と懇願された。

 行政との対話で嫌な思いをしたと、よく耳にする。<震災前の町に戻り住みたいなんて贅沢や><年寄りは田舎を申し込んだらいい。静かでええし倍率も低いからすぐ当たるわ><気に入らんなら自分でマンションでも探せば>等々。多少の誤解や言葉の取り違いを差し引いても、この手の話は挙げたらキリが無い。私も悔しい思いから、区役所の窓口で恥を捨て職員に咬みついた事が有るが、この地のお役所体質だけが特別な訳では無い。

 「仕方が無い…」只、そう自分に言い聞かせ、ガマンを強いられている被災者達の横顔。

 7月22日、兵庫県尼崎市役所屋上で、同市内の仮設に住む74歳の女性が首をつり自殺した。亡くなる2時間前に同市役所の仮設住宅対策課を訪れ、「公営住宅の抽選に3度とも外れ、将来が不安だ」と話していたらしい。
 8月7日、神戸市ポートアイランドの仮設で、女性(53歳)の孤独死が発見された。水道料金滞納で止水され、自宅冷蔵庫に食物は残っておらず、飲みかけの清涼飲料水が1本入っていた。(仮設孤独死者168人・8/7現在)
 9月26日から公営住宅への第4次募集が行われるが、当選枠は17,000戸。現在仮設に暮らす世帯は29,000世帯に上る。

 この国の切り捨て行政は、今後どのような影を被災地に投じ、私達の目に何を写し出すのでしょうか。そしてこれらの問題は、みなさんの暮らす‘まち’にも、十分起こり得る問題なのではないでしょうか。

 文章書きが苦手な私が、被災地のことを少しでも伝えられたらと始めた連載でしたが、いつも書き足りない思いを残し、力不足を痛感するばかりでした。さぽおたあの皆様には乱文にお付き合い下さいまして、本当に有難うございました。
 そしてこの「まち」が、この国が、真の意味で豊かに成りますよう、心から願って筆を置きます。

(神戸市須磨区在住 金田真須美)


P6 御蔵通5‐5 最終回(第8回)
〜まちで住むこと、生きること その2〜


 ついに最終回です。この連載も壮大な(?)構想をもって望んだのですが、あにはからん、いやはやもって、げに悲しきことなり(意味不明)。
 震災から地続きの2年と9ヶ月。
 震災とは何だったのか?それを考えるひとつの材料にでもしていただけるとうれしいのですが……。

 

◆「わがまち」と呼ぶとき
「自分の人生」とか、「自分の家」とか、「自分の家族」という感覚は大体誰もが持っている普通の感覚でしょうが、「自分のまち」=「わがまち」というと、どうでしょうか。
 「ウィークリーニーズ」名物「あき・かん」には、「わがまち・長田」への優しい思いが随所に込められていますが、案外(というか普通は)よっぽどの思い入れがない限り、「まち」という単位で物事を考えることはないんじゃありません?(一応注釈しておきますが、「わがまち」といったって「自分が所有しているまち」と言う意味ではないですよ)
 自分が属している地域。自分が生活している場所。自分と関係している人・モノ。
 「わがまち」という考えは、自分個人の状況から一歩・二歩と外に踏みだし、自分が積極的に関わりたい・関係すると感じた時に初めて生まれてくる(堅く言えば)「思想」といえます。そして、それがあってこそ、「まちづくり」という言葉も生きてくるのでしょう。
 僕が何でこんな事を言いだしているのかというと、震災があぶり出した重要なテーマの一つとして、まさに地べたで生きるものとして、『「まち」をどうとらえるか』があると思うからです。

◆「その時」に見えたもの
 ここ御蔵通から少し南に下がったところに、「真野地区」と呼ばれる地域があります。そこは、震災前から「まちづくり」で名を馳せていた知る人ぞ知る地域なのですが、震災時においてその「力」がいかんなく発揮されました。
 火災を最小限度に食い止めたのをはじめ、住民による対策本部設置・避難所の運営・町内の警備・物資配給の段取り……そして、週刊の新聞の発行。そのパワーはそのまま「復興まちづくり」へとつながっています。
 一つの地区が結束してここまでの活動を行えた例は神戸でも稀と言ってよいでしょう。残念ながらほとんどの地区では(あの状況下では当然なのですが)上記のような取り組みはなされていません(ただし、避難所単位では素晴らしい活躍をされた住民の方はたくさんいらっしゃいます)。御蔵も例外ではありません。
 「その時」にみえたもの、それは培われてきた歴然たる「地域の力」の差です。

◆自治会の「機能」
「地域の力」とはなんでしょう?
 僕が神戸に来て妙に新鮮さを感じたのは、「自治会」という言葉でした。僕の中ではすでに「死語」に近かった。何故なら物心がついたときからそれは既に「古臭いもの」として感じられたし、「体裁だけで役立たず」というイメージがあるからです。ところが神戸や長田ではそれが「生きた概念」として使われていて(実際、仮設住宅への移住が進んでいた時には「自治会づくり」が声高に叫ばれていました)、震災でそれが機能したか・しなかったかが問われました。
そして、ここ御蔵では、残念ながら機能しませんでした。
 語弊を恐れず書けば、結局は自治会が「旧態依然」としていた為で、言い換えれば一部の年輩者が「役」を握って離さなかった結果と言えるのでしょう。何のことはない、やはり自治会は「生きて」いなかったわけです。

◆育まれた『つながり』
 御蔵は昔、「子供会」の活動が盛んでした(震災が起きる頃には衰退していましたが)。話によると、春の「飯ごう炊さん」や秋の「いもほり」の時は、子供よりも大人の参加が多かったらしいです(ハハハ)。
 実は、当時のこの子供会活動で育まれた『つながり』こそが、御蔵5・6(7)丁目の最大の「財産」だったと言ってよいでしょう。震災後の「まちの人々」の事を案じ、考え、動いたほとんどは、その時の活動を支えていた方々でした。

◆まちで住むこと・生きること
 先ほどの真野地区で二十年以上にわたり「まちづくり」を支えてきた宮西悠司先生は、「地域の力」=「地域力」には、「地域の関心力」「地域資源の蓄積力」そして「地域の自治能力」という3つの構成要素があると説かれています。その3つが噛み合って、「地域住民の抱える問題を地域社会の問題としてとらえ、共同で問題を解決する力」=「地域力」になるという訳です。
「震災の経験を生かそう」とはよく言われますが、私たち自身が当事者として最も身近に「生かす」べきテーマは、もしかしたらこの「地域力」の事かもしれないと、僕は思っています。
字数が尽きてきました。今まで駄文にお付き合い下さり本当にありがとうございました。御蔵のまちも、長田もまだまだこれからです。いつかまた「まちで住むこと、生きること」を共に考える機会があれば幸いです。

(元神奈川 現神戸市長田区在住 小野幸一郎)


P8 のぶ日記 最終回(Vol.4)
外ボラの憂鬱 〜のぶの場合〜


 度々、みなさまにご迷惑をお掛けしている吉田信昭(のぶ)でございます。
 さぽ通の発行が度々送れたのは、僕が(前ぶれもなく)突然、さぽおたあの活動から手を引いたせいです。みなさまには、誠にご迷惑をお掛けしました。お詫びの言葉もありません。
 今までにこのさぽ通には「現在のすたあとを動きを(僕の視点からだけですが)さぽおたあのみなさんに感じてもらえれば」と『のぶ日記』を書いてきました。その最終回としては、僕のこれまでの活動(すたあと)に対する関わり方を書きたいと思います。

 

 僕が最初に神戸に来たのは、平成七年四月十九日でした。兵庫県南部地震発生当時、関東に居り、バイトを辞め難い状況だったため、被災地に行けないもどかしい3ヶ月がありました。今思えば、この3ヶ月は「ボランティア」を自称して神戸に行くには「どういった気持ちで 被災地に入るべきか」を考えられる良い時間となったと思います。

 何より深く考えたのは「被災地に行って本当に役に立つことが出来るのか?」ということです。言い換えると「一人の人間に赤の他人を助けることが出来るのか?」。この自問自答に僕が出した答えは「自分の悩みや苦しみを解決できない人間が〈他人を助ける〉と考えるのはおこがましい」でした。しかし同時に、多くの人間が集まれば、つまり「団体であれば他人を助けることも可能になってくるだろう」とも考えました。そして神戸に来て『すたあと─長田を考える会』で「ガテン」の活動するようになると、活動の内容取り組み方を団体に委ねるよう心掛けました。

 そしてその年の6月下旬、すたあと内で「外ボラ(被災地外から来たボランティア)撤退」の話が持ち上がったとき、「少しでも長く活動をしたい」という気持ちを抑え、「地元の人々で運営して行くべき」という考えを尊重して身を引きました。
 しかし翌年(昨年)2月、それまでの代表・河合君が活動から手を引いた時に『すたあと長田』は体制を整え直し、僕もまた活動に加わる事になりました。その時は自分で判断して仕事を見つけつつも以前と同じように目の前の仕事をこなすことだけを考え、活動内容や活動方針などに自分の感情を持ち込まないようにするつもりでした。
 ところが数カ月後にスタッフが一人減り二人減り……。そもそも人手が足りず最少のスタッフで役割分担して活動していたのですから、欠員の穴を埋める人はいません。そして「事務所に寝泊まりしている」というプレッシャーもあり、欠員の穴を埋めることに力を注ぐようになりました。

 活動に深く関わるほどに『客観的な考え』と『自分の気持ち』との見分けが出来なくなり、感情的に活動を行うように成ってきました。本来ボランティア活動に参加する動機は「人の助けになれば…」「何か行動に移したい」といった感情から行動に移す人が多いのでしょうから、感情的に活動することは自分でも悪いとは思いません。しかし、『すたあと長田(当時:長田を考える会)』は「長田の人による長田のためのボランティア」として発足したと聞いています。そのため『自分は県外ボランティアである』そして『県外ボランティアの居ない状態で活動を続けるのが望ましい』ということを常に考えてしまうのです。

 現在すたあと長田では、中心で活動している数人の内2人が県外ボランティアです。スタッフの殆どが「地元の人間だけで活動を続けるのは難しい」と言います。そのため実際に自分が身を引く事は考えずにいますが『自分も活動に必要』と考えるのは自身自分の立場を正当化しようとする言い訳ではないかと自問することがあります。

 

 自分個人のことだけを書かせてもらうと、自分自身が何をやりたいのかも分からず活動に参加している。しかもフリーターの僕は生業としてアルバイトをしなくてはいけないのですが、活動とバイトの両立が出来ず、昨年の3月から現在まででまともに働いていたのは6ヶ月程度。そのために生活費を借金することも少なくありません。多くの知識を身につけることの出来るこの活動は自分にとって無駄ではないと思っていますが、『借金してまで続けるべきなのか?』と自問自答したり、無給の仕事ばかりして有給の仕事がおろそかになっていることに社会人(?)としてのプレッシャーを感じることも度々あります。

 最近は少しでも活動を楽しんで、やる気が出せるようにと、興味の持てない活動からは手を引いたり、逆に興味のある仕事を積極的に進めたり、他団体の活動に個人参加したり、また活動をサボって遊びに行くなど《自己防衛策》を実行していくことでなるべく自分を追い込まないようにしています。
 しかし「僕は此処に居るべきなのか?」という自問自答は『すたあと長田』を辞めるまで続くでしょう。

(元神奈川 現神戸市長田区在住 吉田信昭)


すたあとスタッフ妖怪曼陀羅

P10 長田夜話・すたあとスタッフ妖怪曼陀羅


すたあとスタッフ妖怪曼陀羅

(作:大阪在住 勝山和哉)


P11 スタッフからのご挨拶 その2
「スコアラーとして」


 どうも、「すたあと長田Web」担当者です。私の役割を別表現するならば、観客席で応援する“さぽおたあ”というよりは、グラウンドに立たずとも毎試合ベンチ入りして「すたあと」の活動内容を記録・公表する、地味な“スコアラー”って感じでしょうか(我ながら上手い例えだなー)。また「すたあと長田メーリングリスト」というものを主宰し、日頃から事務所メンバー等と電子メールでウィークリー原稿の授受・校正や事務連絡を交わしてたりもします。Unixサーバーを好き勝手にいじられる環境・技術と、時間利用に融通の利く大学院生という立場を生かしての我が後方支援方法なのですが、ウィークリー全バックナンバーを掲載しているこのWeb(総データ量72メガバイト)を連日こまめに更新・維持する作業量は、決して片手間で出来るものではありません。これまで数多くの方に観て頂いてきたことで人知れぬ苦労(?)も報われているわけですが、本年7月初め、ちょっとした出来事がありました。

 6月末に須磨の陰惨な事件に急展開のあった直後、震災関連の某Webに設けられたフリートークページにおいて匿名投稿者により容疑者の実名が掲載され、このWebは瞬く間に驚異的なアクセス数を示す結果となりました(1週間で1万件超……。すたあとWebのアクセス数をあっという間に追い抜いてしまった)。この現象がインターネットに限らず世間の情報メディア利用における実態の一面を象徴していることは、最近の幾つかの事件を連想すれば、ご賢察いただけるかと思います。

 「アクセス数が多ければ良いものなのか?」という至極真っ当なご意見に慰められもしますが、すたあとWebは、メンバー向けの記録ノートもしくは震災ボランティア経験者向けのオンライン業界誌に止まるものではなく、あくまで「今の神戸」を神戸自体を含めた全国の皆さんに広く伝え、思いを馳せて頂くために、日夜発信し続けているメディアなのです。被災地外に住む方の日常生活的ニーズに応える類のものではないかもしれませんが、掲載情報のローカル性から普遍性を見い出して頂けるような、視聴者参加型の「共に考えるメディア」にパワーアップしたいなー……などと、実現の容易ならざるアイデアばかりが脳裏に渦巻く今日この頃なのであります。
 とにかく今後も応援よろしゅう〜。

(東京都在住 沼田英俊)

http://sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp/start/
すたあと長田ホームページ
(Weekly Needs最新号が必ず更新されています)


P12 スタッフからのご挨拶 その2(続き)


「いつまでも見守っていきたい」
 こんにちは。震災の年の7月から翌年2月まで代表をやらせていただいた河合です。さぽおたあ通信の休止は大変残念でなりません。
 ともあれ、2年と半年が過ぎて、身の回りを見渡してみると、あの時とはすっかり様子が見違えているところや、今でも全然変わらないところ(すたあとのプレハブの周りなど……)と、明と暗の分かれ目が以前よりもハッキリ見えてくるようです。私は今でも長田で活動をしていますが、復興住宅に入居された方に取り戻された個人の生活を目にすると、うれしいやら、あの頃の誰も彼も右も左もない人々の交流が懐かしいやら(不謹慎ですが)、何とも言えない感傷に浸るときがあります。
 私は、これからもずっとこの神戸を見ていくことが、人のために自分のためになるのだと、今までこの地でやってきました。いつかここを離れるときが来るかもしれませんが、いつまでも見守っていきたいと思います。ずっと、さぽおたあとして。

(神戸市西区在住 河合敏雅)


「いろんな人や考え方や出来事」
 さぽおたあの皆さんこんにちは、私が「すたあと長田」に関わるようになったのは、ちょとした理由で去年十月ごろからでした。
 震災後、ボランティアに興味はあったものの、何をどうしたらいいのか全く分からないまま結局何もせず過ごしてました。「すたあと長田」に出入りするようになって、誰かの役に立ったのかどうかは分からないけど、いろんな人や考え方や出来事があって自分自身にはいい勉強になったと思います(グゥなアルバイトも見つかったし)。
さぽおたの皆さん今までありがとうございました。

(神戸市長田区在住 渋江美貴)


「震災後の自分」
 神戸で阪神・淡路大震災がおき、一月三十日に「長田ボランティアルーム」に入り、旧長田区役所の常駐スタッフとなりました。
 その後子供の遊び相手をする、幼い難民を考える会で活動していました。それからすたあと長田に移り、ガテン仕事(引っ越し・力仕事)とWeekly Needsの配達をし、FMわぃわぃでラジオ番組のミキサーをするようになって、今もすたあと長田にいます。

(神戸市長田区在住 筒井裕貴)


「心のささえとして」
 現在の神戸は建物が建ち並び一見すごいスピードで元に戻った様にみえますが、一方で仮設にやむを得ず居住している方達がいる状態です。
 私が「すたあと長田」に通うようになって8月で1年が経ちました。この間、私自身がお役に立ったかは解りませんが、「すたあと」は活動を通して少しは被災者の方の心のささえになれたのでは、と思います。
 そして、「すたあと」にとって「さぽおたあ」の皆さんが心の支えになったのではないでしょうか。

(神戸市西区在住 中川久美子)


「定点観測を通して見た長田」
 長田には、ピースボートからすたあとになってからも何度も訪れていますが、その度に最初に撮った被災地の写真の場所を定点観測しています。
 当時自問自答を繰り返しながら撮った写真を、それだけで無駄にしたくないが為に始めました。時を追って街の移り変わりをただ並べただけというのが分かりやすく、これを長田では「まち・コミュニケーション」が、そして東京でも幾つかの大学が学園祭で活用してくれました。自分の枠内にとどまらず周りが利用してくれたので、とても有り難かったです。
 定点観測を通して、単純に表面を眺めてみますと、確かに直後とは全く違い、場所を特定するのにもマンホールや電柱、木の枝の形で判断する様な所もありましたが、一方全く変化のない所もあります。それと相対した私の印象は「変化なし」です。
 生活が震災以前の様に落ちついたか、というのがその基準なのですが、仮設はなくならないし、ましてや未だに待機所(避難所)住まいの人もいます。景観の変化というのも、更地にプレハブの「仮の家・店舗」が建ったに過ぎません。それは正に「仮の街の風景」なのです。
 今、水面下では、多くの人が様々な作業で動いています。その成果が目に見えるまでには、まだまだ時間が必要です。遠くにいながらも、私は長田のさぽおたあとして見守り、忘れず、声援を送り続けたいと思います。

(埼玉県在住 きんばらまさひこ)


ヘンシュウコウキ・編集後記・へんしゅうこうき


 眼前に居座る六甲の山々も衣替えの時を迎え、波打つすすきに見とれつつ、あの日のことを思い浮かべています。
 一月の公園で物資の仕分けをしていた女子大生。野宿の支度をしていた中年男性。毎日、ほうきを手に現れるカナダから来たという青い目の青年。「アタタカイ、チャイハイカカデスカア!」の日本語しか知らなかったパキスタン人。神奈川県警と書かれたパトカー。宮崎市水道局の給水車。岡山ナンバーの消防車。「ガンバレ」とメッセージの入った救援物資のクツ下。
 炊き出し鍋に立ち登る湯気。
 そして全国からやってくる人・人・人。
私の目に焼き付いた、悲しい街の姿は今も鮮明なままですが、各地から寄せられる暖かい声援と眼差しに見守られ、重い足を前進させられたこと、忘れられません。何より私の宝です。

(金田)

 

 最後の最後まで、発行を引っぱってしまいました。さぽおたあの皆さんにはもちろんのこと、スタッフのみんなにもご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません。

「さぽおたあ通信」は、菅田さん・脇平さんのあとをつぐかたちで僕が(吉田君の助けを借りながら)担ってきたわけですが、本当に情けないことに最初の意気込み(一応あったのです)はどこへやら、定期的に発行することすらできない体たらくです。
 もともと、現在のすたあとの体制や僕の力量では、継続的に「さぽ通」を発行することは無理があったのですが(内部では初めから指摘されていました)、それを押し切って継続させようとしたのは紛れもなく僕で、全くもって「無責任」の一言に尽きます。皆さまからの善意・厚意のお金をいただいておきながら、お約束・お気持ちに報えなかったこと、あらためまして深く、深くお詫び申し上げます。そして本当にありがとうございました。

 すたあと長田はもうしばらくはウィークリーの発行とラジオ番組の製作はつづけるでしょう。沼田氏の尽力により、インターネットではその内容を見ることが出来ますので、ご利用いただければ幸いです。
 被災地はまだまだこれからです。和田さんの文にもございましたが、ぜひ今後も長田の事、すたあとの事を遠くから見守りいただけたらと思います。中川さんの言うように、皆さんは私たちの「心の支え」です。
 それでは、またお会いできることを信じて……。

(小野)



numata@sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp