この10月12日で震災から1000日が経過しました。
被災地はまだまだ数多くの難問を抱えています。
「すたあと長田」ももうしばらくは活動を続けます。
神戸にお寄りの際は、ぜひご連絡下さい。
目次
2頁 「すたあと」に終わりなく、「さぽおと」におわりなし
3頁 スタッフからのご挨拶 その1
4頁 桜亭の金田真須美でございまっす 最終回
6頁 御蔵通5−5 最終回
8頁 のぶ日記 最終回
10頁 長田夜話・すたあとスタッフ妖怪曼陀羅
11頁 スタッフからのご挨拶 その2
14頁 編集後記
編集・発行 すたあと長田
〒653 兵庫県神戸市長田区御蔵通5−5
Tel.078−521−7170/Fax.078−577−0157
e-mail FZW01216(NIFTY−Serve)
インターネットホームページ http://sakuraia.c.u-tokyo.jp/start/
区役所の関係の方から、「Weekly Needsは いつも文章のなかで、ありがとうの気持ちがみなぎっているので、うれしく読める」と言ってもらったことがあります。
『ありがとう、サポーターの皆さま、ほんとうに、心強かったんです。皆さんのご支援は。ありがとうござました。』
直接、御蔵通5ー5のプレハブまで、お手伝いに来て下さった方もあります。震災のおかげで、いい友がたくさん出来ました。会社人間、一辺倒だった私ですが、いろんな大切なことを気付かせてもらったんです。
最初、すたあとのプレハブはあふれんばかりの仲間がいました。ミーティングも、よくありました。効率を求め、短時間で結論をだす会社の会議に慣れている私は、ひとり一人がフラットに意見をだしあうやり方は非常にまどろっこしく、感じたものでした。
たどたどしく、意見を述べるひとに、途中でさえぎるもんが現われたら、すかさず、「最後まで 聞こうよ。」の声が必ずかかりました。時間じゃなく、結論を出すだけでなく、言ってみる、聞いてあげることの素晴しさを教えてもらいました。
応援、支援をしてくださった方への感謝の気持ちでいっぱいですが、長田に住む我々にも自信めいたものが芽生えてます。
「長田は特色のない町、住んでいるひとも、どうでもいいや」なんて思ってたんですが、「なんとなんと、えらい震災のなかでも、ひたすら、真面目に生きている長田のわれわれも、ほんまに、エエトコあるぞ」と思うようになってきたのです。
今年のお盆にも、番町などで、ソウルフラワーも来てくれ、それにつれ、よその町から若い人もやってきて、土地のかたも喜んで、随分と盛り上がったものです。私も、ソウルフラワーや灘みやこさんの唄にあわせて、4時間ぶっとうしでフィーバーしたものでした。
『エエ町やで、長田は。エエ人間が、ぎょうさん住んどー町やでー。そやからぎょうさんのさぽおたあも助けてくれたんやー』
大声で叫びたいと思います。だから、「さぽ通」がひとまず、終わっても、さぽおとは、【おわりなし】でお願いする次第です。
本当に、ありあがとうございました。
(神戸市長田区在住 和田幹司)
と言うのはウソ。これまで、面白くない内容を計7回もさぽおたあ通信に載せて下さった「すたあと長田」のスタッフの方々に感謝です。
まだまだ神戸・長田でも活動は続くのでさぽおたあ通信は終了しても応援はして行こうと思っております。
ではみなさん、ひとまず さいならぁーーーー
(大阪在住 パミール)
ともかく、2年以上に渡って「さぽ通」はともかく(笑)、「ウィークリーニーズ」を出し続け、その他の活動を続けてきた「すたあと」のみんなには、お疲れさまといいたい。続けるっていうことはすごくエネルギーの要ることだと、改めて思うから。
また近いうちに長田に行こう!そしたら、また何かが始まるかも知れない。ボクが震災で初めて長田を訪ねた時のように…。
(大阪在住 中村明弘《パパ》)
P.S.
以前「さぽ通」にも載せて頂いた、わが家の息子「元気」も間もなく2歳。名前に負けないワンパク坊主に育っています。この場をお借りして、御報告まで…。
公園からテント屋台『桜亭』の姿が消えて早や一年。いまだ職も持たず「桜亭の…」と前置をするのも変な感じ。
テントを畳んでから今日迄、2度のビジネスチャンスに出会った。そのどちらにも手間と資金をかけトライしたが、もう少しという所で私の手許をすり抜けていった。まあ、これも縁かな…と自分に言い聞かせるが、くじけそうな気合を奮い立たせるのに結構ほねが折れる。
残暑きびしい8月の末、仮設住宅から公営住宅への引越しに立ち合った。引越しの主は一人暮らしの78才になるおばあさん。2年前に私が仮設訪問をしていて知り合ったが、数十年に及ぶ一人暮しのせいか、想像を絶する程の人見知りで近所付きあいも苦手といった具合。それでも2年の仮設住まいで、誤解の種をまき乍らもご近所さんと語らう迄に至った。
そして今年の夏の第3次募集で公営住宅(築15年、10階建て市営住宅7階の1DK)へ当選。
このおばあさん、震災で自宅(借家)がつぶれ、仮設が当たる迄の8ヵ月間で4回も引越しを経験し、無理がたたったのか仮設入居後、体調を崩し入退院。そして今回も公営住宅への引越しを4日前にして倒れ、現在も入院中の身である。
主不在では荷作りもしづらく、何かと不都合も多いので、今回は日を改めて仕切り直しかな、と考え乍ら入院先へ駆け付けると、「何としても予定通りに引越しがしたい」と疲労の浮かぶ表情で頼まれた。何故そうまでしてと話を聞けば、「役所で鍵渡しの日に<今日から14日以内に仮設を明け渡し、公営住宅へ移るように>と言われた」そうである。何だそんな事かと思い、「止むを得ぬ状況を役所へ伝えれば例外も認められるはず。私が代わりに役所へかけ合ってみるから」と説明してみても、「これ以上役所で頭を下げたくない。何とか予定通りに」と懇願された。
行政との対話で嫌な思いをしたと、よく耳にする。<震災前の町に戻り住みたいなんて贅沢や><年寄りは田舎を申し込んだらいい。静かでええし倍率も低いからすぐ当たるわ><気に入らんなら自分でマンションでも探せば>等々。多少の誤解や言葉の取り違いを差し引いても、この手の話は挙げたらキリが無い。私も悔しい思いから、区役所の窓口で恥を捨て職員に咬みついた事が有るが、この地のお役所体質だけが特別な訳では無い。
「仕方が無い…」只、そう自分に言い聞かせ、ガマンを強いられている被災者達の横顔。
7月22日、兵庫県尼崎市役所屋上で、同市内の仮設に住む74歳の女性が首をつり自殺した。亡くなる2時間前に同市役所の仮設住宅対策課を訪れ、「公営住宅の抽選に3度とも外れ、将来が不安だ」と話していたらしい。
8月7日、神戸市ポートアイランドの仮設で、女性(53歳)の孤独死が発見された。水道料金滞納で止水され、自宅冷蔵庫に食物は残っておらず、飲みかけの清涼飲料水が1本入っていた。(仮設孤独死者168人・8/7現在)
9月26日から公営住宅への第4次募集が行われるが、当選枠は17,000戸。現在仮設に暮らす世帯は29,000世帯に上る。
この国の切り捨て行政は、今後どのような影を被災地に投じ、私達の目に何を写し出すのでしょうか。そしてこれらの問題は、みなさんの暮らす‘まち’にも、十分起こり得る問題なのではないでしょうか。
文章書きが苦手な私が、被災地のことを少しでも伝えられたらと始めた連載でしたが、いつも書き足りない思いを残し、力不足を痛感するばかりでした。さぽおたあの皆様には乱文にお付き合い下さいまして、本当に有難うございました。
そしてこの「まち」が、この国が、真の意味で豊かに成りますよう、心から願って筆を置きます。
(神戸市須磨区在住 金田真須美)
ついに最終回です。この連載も壮大な(?)構想をもって望んだのですが、あにはからん、いやはやもって、げに悲しきことなり(意味不明)。
震災から地続きの2年と9ヶ月。
震災とは何だったのか?それを考えるひとつの材料にでもしていただけるとうれしいのですが……。
(元神奈川 現神戸市長田区在住 小野幸一郎)
度々、みなさまにご迷惑をお掛けしている吉田信昭(のぶ)でございます。
さぽ通の発行が度々送れたのは、僕が(前ぶれもなく)突然、さぽおたあの活動から手を引いたせいです。みなさまには、誠にご迷惑をお掛けしました。お詫びの言葉もありません。
今までにこのさぽ通には「現在のすたあとを動きを(僕の視点からだけですが)さぽおたあのみなさんに感じてもらえれば」と『のぶ日記』を書いてきました。その最終回としては、僕のこれまでの活動(すたあと)に対する関わり方を書きたいと思います。
僕が最初に神戸に来たのは、平成七年四月十九日でした。兵庫県南部地震発生当時、関東に居り、バイトを辞め難い状況だったため、被災地に行けないもどかしい3ヶ月がありました。今思えば、この3ヶ月は「ボランティア」を自称して神戸に行くには「どういった気持ちで 被災地に入るべきか」を考えられる良い時間となったと思います。
何より深く考えたのは「被災地に行って本当に役に立つことが出来るのか?」ということです。言い換えると「一人の人間に赤の他人を助けることが出来るのか?」。この自問自答に僕が出した答えは「自分の悩みや苦しみを解決できない人間が〈他人を助ける〉と考えるのはおこがましい」でした。しかし同時に、多くの人間が集まれば、つまり「団体であれば他人を助けることも可能になってくるだろう」とも考えました。そして神戸に来て『すたあと─長田を考える会』で「ガテン」の活動するようになると、活動の内容取り組み方を団体に委ねるよう心掛けました。
そしてその年の6月下旬、すたあと内で「外ボラ(被災地外から来たボランティア)撤退」の話が持ち上がったとき、「少しでも長く活動をしたい」という気持ちを抑え、「地元の人々で運営して行くべき」という考えを尊重して身を引きました。
しかし翌年(昨年)2月、それまでの代表・河合君が活動から手を引いた時に『すたあと長田』は体制を整え直し、僕もまた活動に加わる事になりました。その時は自分で判断して仕事を見つけつつも以前と同じように目の前の仕事をこなすことだけを考え、活動内容や活動方針などに自分の感情を持ち込まないようにするつもりでした。
ところが数カ月後にスタッフが一人減り二人減り……。そもそも人手が足りず最少のスタッフで役割分担して活動していたのですから、欠員の穴を埋める人はいません。そして「事務所に寝泊まりしている」というプレッシャーもあり、欠員の穴を埋めることに力を注ぐようになりました。
活動に深く関わるほどに『客観的な考え』と『自分の気持ち』との見分けが出来なくなり、感情的に活動を行うように成ってきました。本来ボランティア活動に参加する動機は「人の助けになれば…」「何か行動に移したい」といった感情から行動に移す人が多いのでしょうから、感情的に活動することは自分でも悪いとは思いません。しかし、『すたあと長田(当時:長田を考える会)』は「長田の人による長田のためのボランティア」として発足したと聞いています。そのため『自分は県外ボランティアである』そして『県外ボランティアの居ない状態で活動を続けるのが望ましい』ということを常に考えてしまうのです。
現在すたあと長田では、中心で活動している数人の内2人が県外ボランティアです。スタッフの殆どが「地元の人間だけで活動を続けるのは難しい」と言います。そのため実際に自分が身を引く事は考えずにいますが『自分も活動に必要』と考えるのは自身自分の立場を正当化しようとする言い訳ではないかと自問することがあります。
自分個人のことだけを書かせてもらうと、自分自身が何をやりたいのかも分からず活動に参加している。しかもフリーターの僕は生業としてアルバイトをしなくてはいけないのですが、活動とバイトの両立が出来ず、昨年の3月から現在まででまともに働いていたのは6ヶ月程度。そのために生活費を借金することも少なくありません。多くの知識を身につけることの出来るこの活動は自分にとって無駄ではないと思っていますが、『借金してまで続けるべきなのか?』と自問自答したり、無給の仕事ばかりして有給の仕事がおろそかになっていることに社会人(?)としてのプレッシャーを感じることも度々あります。
最近は少しでも活動を楽しんで、やる気が出せるようにと、興味の持てない活動からは手を引いたり、逆に興味のある仕事を積極的に進めたり、他団体の活動に個人参加したり、また活動をサボって遊びに行くなど《自己防衛策》を実行していくことでなるべく自分を追い込まないようにしています。
しかし「僕は此処に居るべきなのか?」という自問自答は『すたあと長田』を辞めるまで続くでしょう。
(元神奈川 現神戸市長田区在住 吉田信昭)
(作:大阪在住 勝山和哉)
どうも、「すたあと長田Web」担当者です。私の役割を別表現するならば、観客席で応援する“さぽおたあ”というよりは、グラウンドに立たずとも毎試合ベンチ入りして「すたあと」の活動内容を記録・公表する、地味な“スコアラー”って感じでしょうか(我ながら上手い例えだなー)。また「すたあと長田メーリングリスト」というものを主宰し、日頃から事務所メンバー等と電子メールでウィークリー原稿の授受・校正や事務連絡を交わしてたりもします。Unixサーバーを好き勝手にいじられる環境・技術と、時間利用に融通の利く大学院生という立場を生かしての我が後方支援方法なのですが、ウィークリー全バックナンバーを掲載しているこのWeb(総データ量72メガバイト)を連日こまめに更新・維持する作業量は、決して片手間で出来るものではありません。これまで数多くの方に観て頂いてきたことで人知れぬ苦労(?)も報われているわけですが、本年7月初め、ちょっとした出来事がありました。
6月末に須磨の陰惨な事件に急展開のあった直後、震災関連の某Webに設けられたフリートークページにおいて匿名投稿者により容疑者の実名が掲載され、このWebは瞬く間に驚異的なアクセス数を示す結果となりました(1週間で1万件超……。すたあとWebのアクセス数をあっという間に追い抜いてしまった)。この現象がインターネットに限らず世間の情報メディア利用における実態の一面を象徴していることは、最近の幾つかの事件を連想すれば、ご賢察いただけるかと思います。
「アクセス数が多ければ良いものなのか?」という至極真っ当なご意見に慰められもしますが、すたあとWebは、メンバー向けの記録ノートもしくは震災ボランティア経験者向けのオンライン業界誌に止まるものではなく、あくまで「今の神戸」を神戸自体を含めた全国の皆さんに広く伝え、思いを馳せて頂くために、日夜発信し続けているメディアなのです。被災地外に住む方の日常生活的ニーズに応える類のものではないかもしれませんが、掲載情報のローカル性から普遍性を見い出して頂けるような、視聴者参加型の「共に考えるメディア」にパワーアップしたいなー……などと、実現の容易ならざるアイデアばかりが脳裏に渦巻く今日この頃なのであります。
とにかく今後も応援よろしゅう〜。
(東京都在住 沼田英俊)
http://sakuraia.c.u-tokyo.ac.jp/start/
すたあと長田ホームページ
(Weekly Needs最新号が必ず更新されています)
(神戸市西区在住 河合敏雅)
(神戸市長田区在住 渋江美貴)
(神戸市長田区在住 筒井裕貴)
(神戸市西区在住 中川久美子)
(埼玉県在住 きんばらまさひこ)
眼前に居座る六甲の山々も衣替えの時を迎え、波打つすすきに見とれつつ、あの日のことを思い浮かべています。
一月の公園で物資の仕分けをしていた女子大生。野宿の支度をしていた中年男性。毎日、ほうきを手に現れるカナダから来たという青い目の青年。「アタタカイ、チャイハイカカデスカア!」の日本語しか知らなかったパキスタン人。神奈川県警と書かれたパトカー。宮崎市水道局の給水車。岡山ナンバーの消防車。「ガンバレ」とメッセージの入った救援物資のクツ下。
炊き出し鍋に立ち登る湯気。
そして全国からやってくる人・人・人。
私の目に焼き付いた、悲しい街の姿は今も鮮明なままですが、各地から寄せられる暖かい声援と眼差しに見守られ、重い足を前進させられたこと、忘れられません。何より私の宝です。
(金田)
最後の最後まで、発行を引っぱってしまいました。さぽおたあの皆さんにはもちろんのこと、スタッフのみんなにもご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません。
「さぽおたあ通信」は、菅田さん・脇平さんのあとをつぐかたちで僕が(吉田君の助けを借りながら)担ってきたわけですが、本当に情けないことに最初の意気込み(一応あったのです)はどこへやら、定期的に発行することすらできない体たらくです。
もともと、現在のすたあとの体制や僕の力量では、継続的に「さぽ通」を発行することは無理があったのですが(内部では初めから指摘されていました)、それを押し切って継続させようとしたのは紛れもなく僕で、全くもって「無責任」の一言に尽きます。皆さまからの善意・厚意のお金をいただいておきながら、お約束・お気持ちに報えなかったこと、あらためまして深く、深くお詫び申し上げます。そして本当にありがとうございました。
すたあと長田はもうしばらくはウィークリーの発行とラジオ番組の製作はつづけるでしょう。沼田氏の尽力により、インターネットではその内容を見ることが出来ますので、ご利用いただければ幸いです。
被災地はまだまだこれからです。和田さんの文にもございましたが、ぜひ今後も長田の事、すたあとの事を遠くから見守りいただけたらと思います。中川さんの言うように、皆さんは私たちの「心の支え」です。
それでは、またお会いできることを信じて……。
(小野)