「オリオン」の作者、 竹内あきら氏 (本名:滝口彰氏)に メールにてインタビューを行いました。 当時のゲーム開発の様子から、滝口氏の現在にいたるプロフィールまで、 とても興味深いお話を伺うことができました。 AXシリーズは、PC−6001用ソフトという枠のみならず、 80年代前半のパソコンソフトの中でも ひときわクオリティの高い、良質なゲームパッケージでした。 本インタビューでは そのクオリティの高さの秘密も垣間見れるかと思います。
インタビューはVol.1とVol.2の 2回に分けて公開します。



INTERVIEW Vol.1 updated : 20040513


まずは、当時のことをお聞かせください。
オリオンにはUTMC (東大マイコンクラブ) のクレジットが入っていました。 あたかも大学のサークルがアスキー出版の商品を開発していたかのようで、 今見ると不思議な気がします。 AXシリーズのデモンストレーションや「クエスト」を手掛けた大葉浩美氏も UTMCのメンバーですし、「ブラックホール」もUTMCの方の作品だと思われます。 当時、アスキー出版とUTMCは、どんな関係だったのでしょうか? AXシリーズのラインナップの決定にもUTMCは参加していたのですか?

AX−6までの大半のゲームはUTMC関係者が作成したものです。
UTMC以外の著者は、浅野君 (いまは名前が変わって、 河東(かわひがし)教授という数学者になられました) [*1] が作った「マイクロオセロ」と、 あと桜田君(出版部のアルバイトだったと思う) [*2] が作った 「シャット・ザ・ボックス」くらいだと思います。
UTMCはインベーダーで一世を風靡したT社と、ある内容の契約を結んでいました。 契約を結んだのは、私の一年上の部長の鈴木さん。 雑誌「週刊朝日」でも紹介された「万引少年/少女」や、工学社(I/O) から出版されたフライトシミュレータ「ザ・コックピット」を作った方です [*3]。 鈴木さんは、私と一緒に朝日新聞社に入り、数年後に一緒に朝日ネットを立ち上げて、 現在に至っています。 私は大学入学直後にアップルII(36万円)を購入して、 少ない小遣いからヒーヒー言いながら月賦の支払いをしていましたが、 T社からもらったお金で完済することができたものです。
T社が提供する条件も決して悪くはなかったのですが、製品化に直接結びつかない仕事は、 ゲーム制作動機的にはチと弱いところがありました。 そこに、アスキーの話が持ち上がりました。 UTMCの部員で、 後にAX−1のほとんどを作った安田君[*4] がアスキーでバイトをしており、第二出版部部長の松田充弘さんが立てたPC−6001用の シリーズものの企画に参加しないか、という話を持ってきたのです。
松田さんは、アップルのゲームと国産ゲームのあまりの差に憤りを感じており、 アップルにできることが国産機にできないはずはない、という信念のもと、 良質のゲームをブック型パッケージングで安価に提供したい、 という強い意思を持っていました。 われわれも、カセットテープにコピーで作った説明書 を入れたようなゲームには辟易していましたから、 一も二もなくやろう、と思ったメンバーが多かったと思います。 UTMCからは、三橋君[*5]、 広瀬君[*6]、 藤沢君[*7]、 阿久津君[*8](みな2年生になったばかりのころ) などが参加しました。 ただし、クラブとしてアスキーとの契約を結んだわけではなく、あくまで個人としての参加でした。
AXのゲームの各タイトルは、メンバーが「こういうのを作りたい」と言ったものが、 ほぼそのまま受け入れられていたと思います。 中には、それまでにクラブで作ったもののアレンジもありました。 たとえば、「宇宙輸送船ノストロモ」は、私がクラブに入って最初に書いたゲーム (PET−2001で開発)でした。 それを三橋君がAXシリーズ用に改良したものです。
オリオンとは関係ありませんが、「クエスト」は、 杉山さんという人が月刊アスキーに掲載した3Dリアルタイム迷路が元になっています。

[*1] 河東(旧姓・浅野)泰之氏。 UTMCには所属していなかったが、この方も東大出身。 AX−3 に収録されている全作品(「マイクロセロ」「インターファイト」 「コズミックレボ」「スロットポーカー」)、及びAZ-1「フライトシミュレーター」の作者。 河東氏のプロフィールページ によると、UTMCに入ったものの、すぐに退部したとのこと。
[*2] 桜田幸嗣 氏。 AX−4:「シャット・ザ・ボックス」の作者。
[*3] 鈴木浩氏。 「万引少年」は店員の視線を逃れて、お店の商品を盗るゲーム。 「マイコンBASICマガジン」82年7月号にはPC-6001への移植版も掲載された。 ただし、鈴木氏はこの移植版には関与していない。
[*4] 安田吾郎氏 。 AX−1:「アラビアン・ラプソディ」「ブロックくずし」「ハイスピード・バリケード」、 AX−6:「マスターマインド」の作者。
[*5] 三橋正邦氏。「大葉浩美」は三橋氏のペンネーム。 代表作はAX1〜4 及びAX6のデモンストレーション、AX−2:「ノストロモ」、AX−5:「クエスト」など。
[*6] ペンネームは「両津順平」氏。 AX−2:「スティールエイリアン」、AX−4:「カーレース」、AX−6:「パワードナイト」の作者。
[*7] 藤澤健氏。 AX−1:「サイモン」、AX−2:「イン・ザ・ウッズ」、AX−6:「ヘッド・オン」の作者。
[*8] ペンネームは「杉本薫」氏。 AX−2:「デュアル・エイリアン」、AX−4:「ブラックホール」の作者。


どのような経緯で「オリオン」を製作することになったのでしょうか? アスキー出版からお題として『3Dゲームを作れ』という指示があったのですか? クレジットに BASED UPON THE IDEA BY Larry Miller とありましたが、 「オリオン」は アップルの「エポック」の作者、Miller 氏の許諾を得て製作されたのですか?

松田さんが、明確に「お題」を出したことはなかったように記憶しています。 もちろん、私に「エポック」[*9] を見せた段階で、誰かに作らせてみたい、 と思ったのかもしれませんが。
私はスターウォーズが大好きだったし、高3のころは高田馬場のゲームセンターで 「スターファイヤー」[*10] 狂いの毎日で、 しばしばハイスコアを出していたくらいですから、 エポックを見て、すぐに「これなら(ボックスのみの構成なら)できる、 ぜひやりたい」と言ったはずです。 アップルにできて6001にできない理由は何もない、わけですから。
私にとって、「エポック」(や「ハドロン」[*11]) の大きな問題は、 画面外にはずれた敵が「消えてしまう」点でした。 どちらかというとシミュレーション志向がある私には、 「一度画面外にはずれても、操縦桿を切り戻せば見える」 というのは重要なポイントでした。
それから、「スターファイヤー」には、ロック前に射撃して、 中央にレーザーが着弾する直前にロックさせて破壊する、 たいへん気持ちの良いわざがありました。 オリオンにはロックはありませんが、そういう感覚も出せたと思います。
Miller 氏が制作に関係したことはありませんし、 私が知る限り Miller 氏(あるいはシリウスソフトウェア) の許諾を得た事実はないと思います。 この当時は、マーケットが小さかったせいもあり、 1から10まで同じもの、でさえなければ、 別に「マネ」に対して許諾を得ることは考えなかったのではないでしょうか。 もちろんアスキーの法務でも検討したのでしょうが、 別にリバースエンジニアリングしたわけではないので、 問題にならなかったのでしょう。
ただし、私としては、クレジットを入れないわけにはいかない、 と考えて、あの通りの文面を入れました。いま考えれば、 出すことに対するリスクもあるのですが、松田さんも、 「別にかまわないんじゃない」と言われたように記憶しています。

[*9] シリウス社より1981年に発売されたアップルII用3D宇宙戦ゲーム。 作者はLarry Miller 氏。 詳しくは HISTORY を参照のこと。
[*10] Exidy社より1978年に発売されたアーケードゲーム。 スターウォーズをモチーフにしている。
[*11] 「エポック」の続編。 作者は同じくLarry Miller 氏。


当時の開発環境やスケジュール、開発の苦労話などを教えて下さい。 「オリオン」は技術的な検証やデバッグを含めて、 どれくらいの期間で開発されたのか興味があります。
また、アスキー出版との具体的な契約内容はどのようなものだったのでしょうか?
大学での勉強とゲーム開発の両立というのも大変だったのではありませんか?

開発はPC−8001およびPC−8801上で行い、アセンブラ開発環境は、 当時アスキー(ACP?)が出していたDUAD−PCです。 DUAD−PCのスクリーンエディタはたいへん良くできており、快適な開発ができました。 ただし、インサーキットエミュレータ(ICE)はなかったので、 完成したコードは当初カセットテープ経由でロードしてテストするしかありませんでした。
のちに、PC−6001に、PC−8001用の5インチインテリジェントフロッピーディスク PC−80S31が接続できるようになり、後輩の清水君が書いた超小型で非常に強力なDOS (S−DOS。工学社の同名の製品とはまったく異なるもの)のおかげで、 PC−6001、PC−8001、MSXの開発がとても楽にできるようになりました。 また、藤沢君が強力な機械語モニタを書いてくれました。 ROMに焼いて、ROM/RAMカートリッジ(PC−6006)に挿して使っていました。
開発場所は青山の奥まった場所にある二階建ての一軒家(「パート2」と仇名された)で、 冷暖房完備、弁当取り放題(ケータリングのはしり「大臣弁当」や、 青山にできたばかりの「ウェンディーズ」)に、機械と寝袋を並べて、 昼夜兼行の開発です[*12]。 学校とパート2の間を行ったり来たり、自宅に帰る回数も減りました。 正直言って、勉強がお留守にならないわけがないですね。 実際、私は5年生をやっています。
オリオンは、だいたい3ヶ月くらいで作ったと記憶しています。 それ以前から6502でゲームを書いていましたが、 Z80で書いたのは はじめてでした。 ただ、マシン語にかかわる難しさの記憶はありません。
それより、画面で黒が使えないのが問題でした。 最初はモード3[*13]で作っていましたから、 宇宙という設定を変えなければならないかも、と思っていました。 しかし、桜田君が「シャット・ザ・ボックス」[*14] のテスト版を持ってきてデモしてくれたとき、色のにじみに気がつきました。 私もアップル使いですから、アップルでどのように色を出すかは良く知っていました。 そこで、すぐにモード4のテストをすると、見事に色が出るではありませんか。 あの瞬間が、開発中の最高のクライマックスだったように思います。
3D変換を整数除算余り切り捨てでやっていたのですが、 どうしても動きがおかしいので、1ビット余計に計算して四捨五入したらきれいに動くようになりました。 あれも嬉しかった。
1本あたりの印税は8%で、他社の十数パーセントとはだいぶ差があった上に、 1本のパッケージを複数人で書いていましたから、人気の割には意外に安い感じでした。 が、ぜいたくを言ってはいけませんね。

[*12] 「MSXマガジン永久保存版」によると、MSXの「テセウス」も「パート2」で開発された模様。
[*13] PC−6001のグラフィックモードは4つ。 モード1ではテキストのみ。 モード2は64×48ドットの8色2パターン。 通常、ゲームで使用されるモード3は128×192ドットの4色2パターン( もしくは )で、 黒は使えなかった。 モード4は256×192ドットで白黒または緑黒の2色という仕様。
[*14] 「シャット・ザ・ボックス」 「シャット・ザ・ボックス」は、 AXシリーズで、初めてモード4を使用したゲーム。 モード4は本来は白黒2色だが、色ずれで赤や青が出力された(右写真)。 「オリオン」ではこの色ずれを利用してモード4で白黒赤青の4色表示を実現した。 ただし、本体やモニターの精度によっては色ずれが発生しない場合もあった。
そのため、製品版には モード3版のオリオンも 収録されており、 マニュアルには 以下のような注釈が書かれていた。 「モード3では物理的に色がでませんから、特にオリオンでは宇宙の感じが得られません。 白黒でも宇宙の感じを味わいたい方は、もちろんモード4のオリオンやクエストを使って いただいても結構です。」


当時のパソコンゲームの市場というものは、どれくらいの規模だったのでしょうか?
あるいはもっと絞って、AXシリーズは1作あたり、何本ぐらい出荷/販売されていたのでしょうか? ご存知でしたら教えて下さい。

PC−6001はマーケット的にはPC−8001にははるかに及びません。 AXシリーズでいちばん売れたものでも4〜5万本程度ではないでしょうか。 この数字は初期にNECがアスキーに対してコミットしたために出た数で、 実質的には1〜2万程度だったように思います。 確かなことは分かりませんが、 当時の「裸カセット」タイプのゲームは数百とか数千しか出なかったでしょうから、 それに比べれば大ヒットと言えるでしょう。


OLIONの"L"は、ニックネームに由来しているとのことですが、 そのニックネームとは何だったか教えて下さい。

私が中学のとき、いつだったかの学校の旅行で「L字」形になって寝ていたのを 友人たちに見られてついた仇名です。 中高一貫教育だったので、 ずいぶん長い間「エル君」と呼ばれていました。 UTMCに一時期在籍した同級生(「S君」=エス君。仮名ではなくて、彼の仇名) のおかげで、「エル」は、UTMCの仲間にも知られてしまいました。
オリオンの「L」の本当のところは、単に私が綴りを間違えていた、のです。 作業フィックスの直前に気が付いて、「orion」と小文字にすればデザインできます、 と修正もしましたが、結局もとのままで行くことになりました。 そこで、マニュアルのほうに「言い訳」を入れました[*15]

[*15] マニュアルにはこのような説明が書かれていた。
「タイトルのOLIONという文字を見て、おや?と思われた方もいると思います。 オリオンならORIONのはずですからね。 しかしこれはORIONとLをマージして作られた造語なのです。 しからばLは何ぞや、と言えば実にこれが私のNicknameであるというだけで、 別に深い意味はないのであります。」


竹内さんが「オリオン」に限らず、ゲーム製作にあたって 気を付けていた点、 もしくはこだわっていた事がありましたら教えて下さい。 私が察するに、ゲーム中のフォントにはすごくこだわっていたのではないかと思いますが?

ゲームに限らず、マン・マシン・インターフェイスの基本は「スピード」です。 速くないということは、それ自体が悪であり、 そのほかの仕様が良かったとしても零点になってしまう、 と考えていました(いまでもそうですが)。
オリオン・オリオン80では、私自身が納得できるスピードが、 ぎりぎり実現できたと考えています。 PC−8001のLINE文で書くボックスと、 オリオン80のボックス描画ルーチンの速度差は2桁ありました。
当時の多くの3Dプログラムでは、 視野角が大きすぎるためにリアリティをそこなっているという認識がありました。 そのため、自然な回転が感じられる程度に、視野角が小さくなっているはずです。
おっしゃるように、確かにフォントにはこだわりがありました[*16]。 それから、ゲーム中で使う英文にも。 当時、ゲームに使われる英語のスペルのひどさは恐るべきものがありましたから。 高校のころからデザインが好きで、渋谷の伊東屋によく行っては、 レトラセットのカタログをもらったり、インスタントレタリングを買ったりしていましたから。 オリオンでは「DATA70」というフォント[*17]を、 それらしくデジタル化しました。 また、オリオン80でも同様にカタログから見つけたフォントを使いましたが、 フォント名を失念してしまいました。もし分かる方がおられれば教えていただきたいところです[*18]

[*16] AX−7 のデモンストレーションにも、竹内氏はフォントアドバイザーとして参加している。
[*17] DATA70 DATA70フォント(右図)。
[*18] インタビュー後、竹内氏の調査よってフォント名が "Motter Tektura" と判明。 奇しくも(?)このフォントは、かつてAPPLE社のロゴに使用されていたものであった。 (20050128更新)

Vol.2 につづく




「速くないということは、それ自体が悪であり、 そのほかの仕様が良かったとしても零点」というコメントには、 頭が下がる思いです。 現在のPCでならともかく、 当時の環境(Z-80 4MHZ)で ストレスのないスピードを目指し、 それを実現していたことが素晴らしいですね。

次回、VOl.2では、「オリオン80」や その他の作品、さらに 滝口氏のプロフィールについて お話を伺います。