『真と偽』acte 1


 少女は粗末な人形を手にしながら、戦火の煽りを受けて崩れ掛けた壁にもたれ掛かり、か細いその身を震わせていた。
 少女は何日も食事を摂っていなかった。
 手足は枯れ枝の如く痩せ細り、その身体には細い肋骨が明確に浮かび上がっていた。
 
 やがて、少女の元に一人の兵士がやって来る。
 兵士は少女の痩せ細った身体を一瞥すると、軽蔑する様に言った。
 「随分貧相なガキだな」
 兵士は少女の身体を抱え上げると、廃屋も同然となった民家のベッドへと運び込んだ。そして、少女の手から人形を取り上げ、床に無造作に放り出した。更に、兵士は小銃を傍らに置くと、少女の目の前で人形を踏みにじった。
 少女の恨めしげな視線が兵士に突き刺さるが、兵士はそれさえも愉しんでいた。
 「ほう、一人前に怒る気力は残っている様だな。ま、ちっとは抵抗してくれた方が、こっちも楽しめるというものよ」
 兵士は少女の細い身体の上に馬乗りになると、右の拳を握り、少女の脇腹に押し当てながらゆっくり上下に動かす。拳の骨と肋骨が擦れる度に、少女の表情が苦痛に歪む。
 更に、兵士は少女の脇腹に拳の骨を強く押し当てながらグリグリと拳を捻る。肋骨の撓みと共に想像を絶する痛みが少女を貫いたが、衰弱著しい少女は声を上げる事すらままならなかった。
 「もう声さえも出ないのか。仕方ねぇ、表情だけで我慢してやるか」
 兵士は少女の脇腹から右の拳を離すと、今度は左手で少女の顎を掴み、頬に力を入れて無理矢理少女の口を開かせる。そして、少女の唇を奪おうとして、欲望に満ちた汚らしい顔を少女に近づける。
 少女は頭を左右に振ろうとして抵抗の意思を示したが、兵士は全く意に介さなかった。
 
 ふと、少女の視界にベッドサイドに置いてあった燭台が飛び込んだ。
 1本立ての小さな燭台。
 もう長い事使われていないのか、埃にまみれた燭台はその鋭い先端を覗かせていた。
 少女はその身体に残された力の全てを左手に込め、燭台を握る。
 兵士は少女の唇を奪うのに夢中で、少女が燭台を握った事になど気付いていない。
 次の瞬間。
 少女の左手が一閃し、燭台は兵士の頚動脈を貫いた。
 「ぐわあああああああああっ!」
 兵士は反射的に上半身を上げ、一瞬苦悶の表情を浮かべると、糸が切れたようにベッドの上から転げ落ちた。
 
 少女は兵士を殺した事を後悔してはいなかった。
 そればかりか、少女は兵士が自分を陵辱しようとした事に対して、感謝の気持ちすら抱いていた。
 地上は業苦に満ちている。
 だが、いくら業苦に満ちた世界であっても、それでも人は生きて行かねばならぬ。
 兵士は自分に「憎しみ」という、生きる為の糧を与えてくれた。
 戦火を受けて街は崩壊した。
 食料はおろか、雨露をしのげる場所すらこの街には無い。
 それでも人は生きていける。
 憎しみさえあれば。
 
 少女はベッドから降りて人形を拾うと、北へ向かって歩き始めた。
 辺りが明るくなれば、失踪した仲間を探しに別の兵士達がやって来るだろう。
 兵士達の手から逃れるには、少しでも遠くへ逃げなければならない。
 疲労と消耗の極致に達した身体に鞭打つ思いで、少女はのろのろと歩みを進める。
 やがて陽が昇り、強い陽射しは少女の身体を容赦無く照りつける。
 身体の中に残った僅かな水分は汗となり、体温の上昇は残り少ない体力をますます消耗させる。
 少女の意識は朦朧となり、大事な存在である筈の人形がその手から落ちる。
 そして・・・少女は熱砂の中に倒れた。
 
☆★☆★☆
 
 長い長い時間を経て、少女はようやく意識を取り戻した。
 ステンドグラスを通して減衰された外光が射し込むだけの薄暗い部屋。
 どうやら、ここは教会の様だ。
 
 不意に、少女の背後から声がする。
 「ようやく気が付いたようね」
 振り向くと、そこにはシスターの姿をした女性が2人立っていた。
 少女はシスターを一瞥すると、再び正面に向き直る。
 その時、少女は自分の身体に体力が戻りつつある事を実感した。
 少女は自分の両手を目の前にかざす。
 肌の血色も張りも、街に居た頃よりも格段に良くなっているのが判る。
 シスターのひとりが、少女の顔色を窺う。
 「この7日間、砂糖水を少しづつ口に含ませてきた甲斐があったわね。ここまで回復すれば、もう普通の食事も大丈夫でしょう」
 少女はもうひとりのシスターが持って来たパンとスープを、貪る様に食べた。
 
 少女はシスターに深々と頭を下げた。
 「御馳走様でした」
 シスター達は天使の様なにこやかな微笑を浮かべて、少女に語り掛けた。
 「もう少し回復すれば、ちゃんと動き回れる様になるわ。安心していいわよ」
 「ありがとうございます」
 「あなたに聞きたい事があるわ。名前と、家族と、どうしてあんな所で行き倒れになっていたのか、教えてちょうだい」
 「私の名前はアルテナと言います。両親は爆撃から私をかばって死にました。生き残った私は、街に居る兵隊の手を逃れようとして、北へ向かって歩いて行きました。それ以上の事は判りません」
 「判ったわ。それだけで十分よ」
 シスター達はそれ以上、アルテナに質問しようとはしなかった。
 
 更に1ヵ月が過ぎた。
 アルテナはすっかり健康を取り戻した。枯れ木の如く痩せ細っていた手足や身体には筋肉の張りが戻り、肌の色も僅かに赤みを帯びた白に戻っていた。
 「もうすっかり大丈夫な様ね」
 アルテナの元気な姿を見て、シスターは柔和な笑顔を浮かべながら言う。
 「アルテナ、あなたにひとつお願いがあります。私達と一緒に、世界の理想の為に働いてほしいのです」
 「え?」
 「世界は業苦に満ちています。あなたのご両親を奪った戦争も、業苦のひとつの形なのです。私達はこの世界から業苦を消し去る為に活動を続けているのですが、残念ながら私達の力ではどうにもならない部分があるのも事実です」
 「私は、何をすればいいのですか?」
 「まだ幼いあなたがいきなり私達と一緒に働くのは無理です。まずは私達の聖地で、理想を実現する為の力を身に付けてほしいのです」
 「わかりました」
 
☆★☆★☆
 
 荘園。
 フランスとベルギーとの国境付近にある、時に忘れ去られた場所。
 宗教団体『ソルダ』の聖地はそう呼ばれていた。
 
 原初ソルダの基本思想は「虐げられし弱き民を守る」事にあった。世界中のあらゆる民が平和で豊かな毎日を過ごす事が、原初ソルダが掲げた理想だった。
 ソルダの名の下に集結した「弱き民」は、自らが持ち得る力−権力・財力・武力−を集結させ、様々な手段を用いて自分たちを虐待しようとする者達と闘った。そして、長い歳月を経て世界中に広まったソルダの力は、それぞれの国に一時的な平和をもたらした。
 しかし、ソルダがもたらした平和は長くは続かなかった。
 ソルダの名の下に集結した者達にとって、理想を実現する為の手段だった筈の「力」は、いつの間にか目的へとすり変わってしまった。
 力を手に入れる為に時の権力者達と手を組んだり、ソルダ自身が権力者に成り代わったりしていく過程で、原初ソルダが抱えていた理想は完全に忘れ去られてしまった。
 
 だが、長い歳月を経て変質したソルダの中にも、原初ソルダの理想を希求する人達は残っていた。
 ソルダ内の一派閥である『修道女会』も、そんな人達の集まりであった。
 修道女会はソルダ最大の派閥だったが、その力は決して強くはなかった。
 仮に修道女会が権力を握るような事態になれば、自分達が手にした力を原初ソルダの理想の実現という「つまらない事」の為に費やさなければならない。
 その為、ソルダ内の各派閥は互いに協力し、様々な手段を用いて修道女会メンバーの評議会進出を阻んだのである。
 
 その様な背景があり、修道女会には絶大な権力も潤沢な資金も無かった。
 しかし、理想を実現する為には何等かの力が必要な事も明白だった。
 そこで、修道女会が着目したのは「暗殺」であった。
 人間にとって一番大切なものが、自分の命である事は論を待たない。
 その命を絶つ力を有すれば、権力も財力も理想の為に使わせる事が可能となるだろう。
 こうして、修道女会は宗教団体と暗殺者集団という、2つの顔を持つ集団となった。
 
☆★☆★☆
 
 荘園へと連れられたアルテナは、まず手始めに様々な身体能力のチェックを受けた。
 修道女会は長年の暗殺者育成の経験を生かして、3歳児からそれぞれの年齢に応じた身体能力のランク判定を行う基準を設けていた。瞬発力・持久力・敏捷性・柔軟性・視力・聴力など、あらゆる身体能力がA〜Eの5段階で判定される。全ての身体能力がAランク(オールA)と判定された女児には暗殺者としての特訓を受けさせ、それ以外の女児は護身術レベルの戦闘訓練を受けさせて暗殺者のサポート役に回す事にするというのが、当初のランク判定の発想であった。
 だが、過去に遡ってもオールAを満たす女児は全く存在しなかった為、実際にはオールB以上の女児は皆、暗殺者としての特訓を受けていた。
 
 身体能力のチェックを進めて行くうち、判定役の修道女達は驚いた表情を見せる。
 「・・・す、凄い・・・」
 アルテナの身体能力は、ありとあらゆる面で7歳児の基準を大きく上回っていた。
 中には10歳児のAランクすらクリアしている項目もあった。
 そして、アルテナは修道女会史上初めて『オールA』と判定された女児となった。
 
 オールAと判定されたアルテナを待ち受けていたのは、1日10時間に及ぶ戦闘訓練の日々だった。通常の戦闘訓練が1日5〜6時間程度である事を考えると、非常に過酷極まる訓練であったと言えるだろう。
 「どんなに高尚な理想を唱えても、力無くして実現は望めません。この世の中には幾つもの力があります。私達には権力も財力もありませんが、武力は己の精進如何で身に付ける事が出来ます。世界の理想の実現の為に、まずあなたは武力を身に付けて下さい」
 アルテナはシスターの言葉を胸に、以後10年間、1日も休む事無く辛く厳しい戦闘訓練に耐え続けた。
 
 また、知能面に関しても、アルテナの能力はずば抜けていた。
 女児達の教育はシスターが代わる代わる行っていたのだが、アルテナは常に2〜3歳年上の女児達と一緒に教育を受け、その中でも常にトップクラスの成績を収めていた。
 更にアルテナは、戦闘訓練の合間にソルダの原典とも言えるランゴーニュ写本を読破した。ランゴーニュ写本は難解な言い回しが多く、辞書にすら載っていない古語も数多く現れる為、博識ある大人でさえも読破は難しいとされていた。アルテナは難解な言い回しを読み解き、古語についてはその韻律から候補を絞り、文脈からその意味を確定していくという方法を採った。
 アルテナが12歳の時、シスターのひとりはアルテナにランゴーニュ写本の一部を現代語に訳させ、原文とアルテナの訳文を高名な言語学者の所に持ち込んだ。
 「これを訳したのは誰ですか・・・我々でもここまでの現代語訳は出来ませんよ」
 シスターから現代語訳を行ったのが12歳の少女だと聞いた言語学者は、心底驚嘆した表情をしていた。
 
 こうして、修道女会史上最高の資質を持つ暗殺者・アルテナが誕生した。


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