とある温泉街を、2人の女性を乗せて真っ赤なオープンカーが走る。
運転するのは、ハニーブロンドのロングヘアが目に鮮やかなグラマラスな美女。
隣に乗るのは、未だ表情にあどけなさの残る黒いショートヘアの少女。
この2人の正体を、この街に住む者は誰一人として知らない・・・筈である。
街中を暫く走った後、オープンカーは温泉旅館の前に停車した。
「運転お疲れ様、ミレイユ」
「ありがと」
霧香がミレイユに自動販売機で買って来たスポーツドリンクを手渡す。
「今日は水曜日だというのに、結構沢山泊るのね」
ミレイユは車から荷物を下ろすと、玄関脇にある宿泊客一覧を眺める。
『本日のご宿泊 夕叢様 黒江様 醍醐様 荏田様 ・・・』
・・・等々、合計十数組の宿泊客の名前が書いてあった。
「ねぇ霧香。これ、なんて読むのかしら」
「ゆうむらさま、くろえさま、だいごさま、次は・・・何だろう? 私にも判らないわ」
「ふ〜ん・・・日本語って結構面倒なのね」
不意に、辺りにオイルの焦げる臭いが漂う。
「何か臭わない、ミレイユ?」
「え?」
「車よ、車!」
突然、車のボンネットから黒い煙が上がる。ミレイユが慌ててボンネットを開けると、エンジンの奥の方が妙に黒ずんだ色をしていた。
「故障かしら・・・困ったわね」
結局、地元の修理工場で車を直してもらう事になり、オープンカーはレッカー車に引っ張られて行ってしまった。幸いトラブルは大した事は無く、翌朝には修理が完了した状態で帰って来るという事である。
霧香がチェックインの手続きをしている間、ミレイユはもの珍しそうに辺りを見回す。黒光りする柱や梁、女将や仲居達の着物姿、中庭の池で泳ぐ鯉・・・フランスではまずお目に掛かれないものばかりである。
「チェックイン済ませたよ、ミレイユ。2階の梅の間だって」
「梅の間? 何それ?」
「日本の旅館は部屋に名前を付けているの」
フロントから貰ったルームキーには、旅館名と『202』という刻印があるだけだった。
「・・・私にはよく判らないわ」
ミレイユは眉を伏せ、お手上げといった仕草を見せる。
少し間を置いて、フロントの電話が鳴る。
「はい、凝鹿屋旅館です・・・ソルダ様ですね」
ソルダという言葉を聞いた瞬間、霧香とミレイユの表情が強張る。
(何故・・・ソルダがこんな所に・・・)
霧香とミレイユは梅の間に入ると、2人して真剣な顔で話し始めた。
「私達の行動が、ソルダに筒抜けだったという事?」
「判らない・・・でも、ソルダが公の場で堂々と『ソルダ』を名乗るとも思えないわ」
「まあ、こんな所でソルダが仕掛けて来るとも思えないわね」
妙に晴れ晴れとした表情でミレイユは言う。
ふと、梅の間の入口を誰かが叩く。
霧香は扉の陰に隠れ、ミレイユは身体で隠したバニティバッグに手を突っ込む。
「失礼致します」
現れたのはこの旅館の女将だった。
咄嗟に緊張を解くミレイユ。
霧香は「よいしょ」と口走りながら、着ていたパーカーをハンガーに掛けている。
女将は風呂の場所や夕食の時間について簡単な説明をすると、深深とお辞儀をして梅の間から出ようとした。
「あ、こんな所にいらっしゃいましたか」
フロントで応対した番頭が梅の間に入って来る。
「女将さん、ソルダの連中が『コンパニオンの用意は出来てるんだろうな?』と電話口で念押しして来るんですよ。どうします?」
「困ったわね。皆『ソルダ』と聞いただけで嫌がるし、この間の様にソルダに暴れられても他のお客様の迷惑だし。どうしましょうか」
霧香とミレイユはきょとんとした顔をして、互いに視線を合わせる。
何故、片田舎の温泉街の女将や番頭、そしてコンパニオンまでもがソルダを知っているのか?
ソルダが温泉旅館で暴れる様な真似をするのか?
霧香とミレイユの頭の中は「?」マークで一杯になっていた。
時を同じくして。
ピンク色のフリフリ服を着たおかっぱ頭で目の細い女性が、旅館に姿を現した。
「どちら様でしょうか?」
「クロエと申します」
「くろえ、くろえ・・・ああ、本日ご予約を入れている黒江様ですね」
「はい」
☆★☆★☆
荘園にて。
「あなたはあの子と、あの子のお友達を一目見ておきたいというのですね」
「はい」
「いいでしょう。お行きなさい、クロエ」
「ありがとうございます、アルテナ」
「でも、これだけは守って下さい。今回は決してあの子達に姿を見せない事。いいですね?」
「はい」
「それともうひとつ」
「???」
「お土産は温泉饅頭以外のものにする事。いいですね?」
「わかりました(^^;」
☆★☆★☆
霧香とミレイユはその後、浴衣に着替えて温泉に向かった。
ミレイユが髪をすすぎ、身体を洗っていると、何故か後から視線を感じた。
「あら〜 外人さんが温泉に来るとは珍しいわね〜」
何処からともなく、4人の大柄な女性達がやって来た。
4人の背丈はミレイユとほぼ同程度だったが、手足や胴体はミレイユなど比較にならない位に太かった。ひとりひとりが、ぱっと見で霧香2人分位はありそう位の体格をしていた。
4人の女性はミレイユを取り囲み、ミレイユの身体を嘗め回す様に眺める。そして、ミレイユの身体の各所に触れ、それぞれが思い思いの事を口走る。
「この長い金髪、すごく綺麗ね〜」
「肌は抜ける様に白いし、手足はスラっとしているし、まるでアタシの若い頃みたい」
「張りのある大きなバストにキュッとくびれたウエスト、形の良いヒップ・・・女の私が見ても惚れ惚れしちゃう」
「ちょ、ちょっと、いきなり何なんですか?」
困惑気味に日本語で言うミレイユ。仕事上、世界各国を飛び回る事が多いせいもあり、ミレイユも霧香も母国語以外に複数の国の言葉を習得している。日本語についても、霧香は勿論、ミレイユも日常会話程度なら十分可能である。
「あら、外人さんなのに日本語がすごく上手なのね〜」
そこに丁度、一足先に身体を洗い終えた霧香が通り掛かる。
「何とかしてよ、霧香!この人達いきなり・・・」
「良かったね、ミレイユ。着いてすぐにお友達が出来るなんて」
小さな微笑を口元に浮かべて霧香は言う。
別に霧香は嫌味で言っている訳ではなかったし、その事はミレイユも十分承知しているのだが、今のミレイユには霧香の態度が非常に歯痒く感じられた。
「ちょっと待ちなさいよ、薄情者!」
ミレイユはいきなり立ち上がり、そのまま露天風呂の方向へ歩いて行こうとする霧香の手を掴んだ。
「ひょっとして、アンタ達お友達?」
今度は霧香も一緒に、4人の女性に囲まれてしまった。
霧香とミレイユ、そして4人の女性達は、露天風呂へ入って小さな車座を作っていた。そこで、何故か霧香とミレイユは自己紹介させられる羽目になってしまった。
「私は夕叢霧香。そして、こちらがお友達のミレイユ。私の所にホームステイしてるんです」
「ふ〜ん、なるほどね」
「ちょっと立ち上がってみてくれる、霧香ちゃん」
霧香が湯船の中で立ち上がると、女性達は霧香の身体を眺め回す。出る所はそれなりに出ているものの、体脂肪の少ない霧香は女性達の目には単に華奢な少女としか映らなかった。
「霧香ちゃん、歳は幾つ?」
「17です」
「その割には、あまり女の子らしくないわねぇ」
「そうですか?」
「もっとしっかり食べなきゃ駄目よ、霧香ちゃん」
「そうそう。もう少しふくよかな体付きにならないと」
霧香は少し恥ずかしそうな顔をして、身体を再び乳白色の湯に沈める。
取り止めのない会話を交わした後、女性客の一人が急に真面目な顔で言う。
「あなた達は知らないだろうけど、この露天風呂の奥へは行かない方がいいわよ」
「どうしてですか?」
「ここの露天風呂は、奥の方で男湯と女湯が繋がってるの。混浴という訳じゃないけど、古い木戸で隔ててあるだけだから、しっかり覗かれちゃうわよ」
「それともう一つ。あなた達、今日は外出しない方がいいわよ」
「何かあるんですか?」
「今日はソルダの連中が来るからね」
霧香とミレイユの表情に緊張が走る。
「ソルダにとっては地元民も観光客も関係無いわ。特にミレイユちゃん、貴方は凄く目立つから、注意しないと拙いわよ」
「悪い事は言わないから、今日は部屋でおとなしくテレビでも見ていた方がいいわ」
女性達の言葉を聞いて、霧香とミレイユは視線を交わす。
(この人達もソルダを知っている・・・どういう事、霧香?)
(判らない・・・どうして、ソルダがこんなに有名なの?)
一方。
クロエが部屋に入って渋茶をすすっていると、クロエの部屋のドアがコンコンと軽い音を立てる。
「どうぞ」
クロエは服の袖に投げナイフを隠し持っていた。
クロエの部屋に現れたのは女将だった。
「申し訳ありません、黒江様。本日はソルダが来るので、急遽他の旅館を手配させて頂きました」
「ソルダ?」
クロエは目を点にして女将を見る。
「この街で猛威を振るう恐ろしい連中です。到着早々申し訳ありませんが、巴里屋旅館さんへ移動して頂く様お願いします」
「はい」
女将が部屋から出た後、クロエは今後の行動について考えを巡らす。
今回は隠密行動の為、ソルダの情報網は利用していない。言い替えれば、この街に居る「ソルダ」が何者なのか、クロエ自身にも判らなかったのである。
ただ、この街に居る「ソルダ」を上手く利用出来れば、ノワールを騙る2人組の素性をある程度は探れるかもしれない。
クロエは旅館を出る途中で、仲居達の休憩室から着物を拝借して来た。仲居に扮していれば、凝鹿屋の中を自由に行動出来るからである。
(面白い事になって来ました)
クロエは一旦巴里屋へ向かい、部屋に着くと即座に凝鹿屋の仲居に扮して、凝鹿屋へと向かっていった。
湯上りで火照った身体を冷ます為、霧香とミレイユは浴衣姿で温泉街を散歩する。
「どうやら私達の気付かない所で、ソルダは猛威を振るっている様ね」
「どうする? あそこに泊るのヤメにして、何処か別の所を探す?」
「そうしたいのは山々だけど、車は修理中で身動きが取れないわ。今日は何とかやり過ごすしかないわね」
浴室で出会った女性達の言葉通り、ミレイユは周囲の人達の視線を一身に集めていた。外国人客が殆ど来ない土地である事に加え、ハニーブロンドのロングヘアと抜群のスタイルは、男性は勿論、女性の視線をも釘付けにするに十分だった。
霧香とミレイユが細い裏通りを歩いていると、センスの悪いアロハを来てサングラスを掛けた2人の男が目前に現れた。何をやっているかは判らないが、結構筋肉質な外見をしている。
「見掛けねぇ顔だな。こんな何も無い温泉街じゃ退屈だろう」
「そんな事無いです」
霧香の返答を聞いて、男達は小さく舌打ちする。
「まぁいいや。そっちの金髪の姉ちゃんさえ居ればな」
男達の視線がミレイユに集まる。
「よぉ、ハニー。俺達と一緒にパラダイスへ行こうぜ」
「そんなガキと散歩して居るより、俺達の方が何百倍も面白いぜ」
ミレイユは男達の会話の内容は理解していたが、馬鹿連中とは口をききたくないので、早口のフランス語で何かをまくし立てると、男達にクルッと背を向けた。
「おい、今何て言ったんだ?」
「『下品な男は嫌い』だって」
霧香もそう言うと、男達にクルッと背を向けた。
「何だとぉ!俺達をナメてやがんのか!」
「俺達に逆らった事を、その身体でたっぷりと後悔させてやるぜ」
霧香とミレイユが男達の脅し文句に耳を貸す事なくそのまま歩き続けていくと、通りの入口にもセンスの悪いアロハを来てサングラスを掛けた2人の男が現れた。今度の連中もかなり筋肉質な外見をしている。
「なんだぁお前等、ナンパに失敗でもしたんか」
「フン。この姉ちゃん達は力づくで押し倒される方が好みなんだとよ」
「そいつぁ面白ぇ。俺達も仲間に入れてくれよ」
霧香とミレイユは通りの中間で背中合わせになった。
4人の男達は欲望に目をぎらつかせながら、霧香とミレイユにじりじりと近付く。相手はたかが小娘2人。その顔色からは、もう押し倒した先の事を考えているのがありありと伺える。
(しょうがないわね。いくわよ、霧香)
(判ったわ、ミレイユ)
次の瞬間、ミレイユは足元に転がっていた空き缶を蹴り上げる。
空き缶は正対していた男の頭に当たった。
「このアマぁ、調子に乗りやがって!」
男は逆上し、拳を振り上げてミレイユに襲いかかる。
ミレイユは瞬時に身体を反転させて男のパンチを紙一重でかわしながら、男の鳩尾に痛烈な肘打ちを食らわせた。ドサッという音と共に、男の身体が大地に崩れ落ちる。
今度は霧香の方に別の男が襲いかかる。長身のミレイユよりも、身体の小さい霧香の方が組し易い相手と見たのだろう。
霧香は殴りかかって来る男の目前で、サッカーのバイシクルキックの如き宙返りを見せた。
男の動きが一瞬止まる。
「ケッ、何をやるかと思えば、単なるサーカス芸・・・」
言い掛けた台詞が途中で止まり、男の身体が大地に崩れ落ちる。霧香は宙返りの時に男の顎の先端を掠める様な蹴りを放ち、軽い脳震盪を起こさせて倒したのである。
仲間2人が瞬く間に倒される様子を見て、残った2人は一目散に退散してしまった。
「見掛けの割には大した事ないわね」
「うん・・・でも、意外に執念深そうな感じがする」
霧香とミレイユは一言交わすと、倒れた男達を放置してその場を去った。
霧香とミレイユが男達と遭遇し、2人の男を倒すまでの一部始終を、板塀の向こう側の木の上からクロエは眺めていた。凝鹿屋へ移動する途中だったので、当然仲居の格好である。
(なかなか面白い子ね、ふたりとも)
その時、いかにも肝っ玉母さんといった感じのオバさんが、クロエの姿をみるなりいきなり怒鳴り付けた。
「ちょっとアンタ、他人ん家(ひとんち)の庭で何やってるの!」
「え?」
「どうやって登ったのか判らないけど、さっさと降りてちょうだい」
クロエは顔中に冷や汗を浮かべながら、まるで忍者の如く屋根に飛び移り、屋根伝いに移動して姿を消した。
「あら・・・私、幻でも見ているのかしら」
それから暫くの間、この街では「仲居の亡霊」の存在が噂される事になった。