『血に飢えた孤独』 acte 1


 叔父のクロードの手を握りながら、船のデッキでミレイユは炎に染まる故郷を見つめていた。
 得体の知れない「敵」の突然の襲撃。
 ミレイユの家族は、ミレイユひとりを残して惨殺されていた。
 ミレイユは何故かその場に居合わせていたクロードに連れられて、辛うじて窮地を脱する事が出来た。
 しかし、これからどうなるのかは全く判らない。
 ミレイユが不安げな表情でクロードを見つめると、クロードはミレイユにゆっくりと話し始めた。
 「ミレイユ、これから叔父さんの言う事をよく聞いてほしい」
 ミレイユは小さく首を縦に振る。
 「俺達は何とか生きてコルシカを出る事が出来た。だが、俺もいつ、ミレイユの前から姿を消す事になるかも判らない」
 「・・・そんな事言わないで、叔父さん」
 大きな瞳に涙を潤ませ、ミレイユはクロードを見つめる。クロードはミレイユの涙をハンカチで丁寧に拭いながら、一言づつ噛み締めるようにして言う。
 「ミレイユも俺の仕事は知っているよな」
 「・・・うん」
 
☆★☆★☆
 
 コルシカには複数のマフィア集団があり、どの集団も常に他集団を殲滅する為の隙を虎視眈々と狙っている。コルシカの覇権を握っているブーケ・ファミリーとて例外ではなかった。ミレイユ自身も、自宅に銃弾を撃ち込まれたり、黒服達に危うく拉致されそうになった経験がある。
 
 こんな事があった。
 ミレイユは毎日車で学校へ通っていたのだが、その日は迎えの車がなかなか来ず、ミレイユは校門付近で30分近く待たされていた。
 そして、ようやく迎えの車がやって来る。車の右ドアを開けて、送迎係とおぼしき黒いスーツをビシッと着こなした細身の男が出て来る。
 「お迎えに上がりました、お嬢様」
 「あなた、誰?」
 「ですからミレイユ様をお迎えに」
 「嘘!」
 ローランはミレイユが拉致される危険を極力回避する為に、ある約束事を決めていた。送迎係をミレイユの顔見知りの女性に限定し、ミレイユを出迎える時には窓ガラスを半分下ろし、送迎係の顔を確認したミレイユが自分で車のドアを開けて乗り込むという約束事である。
 その約束事を守れない者は、敵。
 ミレイユの送迎専用車を襲い、送迎係になりすましてミレイユを拉致するという、敵集団の目論見はあっさりと破られた。
 「フッ、さすがはブーケの娘。ガキのくせに俺達の正体を看破するとはな」
 ミレイユは逃げようとして必死に駆け出すが、8歳の少女と大人とでは絶対的な速度が違い過ぎる。細身の男に前に回り込まれ、後を振り向くと見覚えの無い運転手がミレイユを捕まえようと身構えている。
 ミレイユはレンガの壁にその小さな身体をすり寄せ、身体を小刻みに震わせていた。
 ボッ!
 何かに包められた様な小さな銃声と共に、運転手が倒れる。
 「野郎っ!」
 細身の男が懐から拳銃を出して、自分とは違う方向に身構える。
 ボッ!
 再び小さな銃声が響き、細身の男が前のめりに倒れる。
 ミレイユは咄嗟に、細身の男が拳銃を向けていた先を見る。
 そこにはサイレンサー付きの拳銃を構えたクロードの姿があった。
 「叔父さん・・・」
 クロードの顔に動揺の色が浮かぶ。クロードは、ミレイユには自分がピアニストだと伝えていた。事実、クロードのピアノの演奏技術は超一流で、かつてローランが主催したパーティでも、その見事な腕前を何度か披露していた。
 だが、クロードの意に反して、ミレイユに動揺した様子は無かった。
 「助けてくれて、ありがとう」
 「ミレイユ・・・」
 
 クロードは自ら送迎専用車のハンドルを握り、ミレイユを乗せて屋敷へと向かう。
 ミレイユは少女らしからぬ淡々とした口調でクロードに語り掛ける。
 「ずっと前から気が付いていた。叔父さんが危ない仕事をやっているって」
 「何故判った」
 「叔父さんの手が、教えてくれたの」
 ミレイユはクロードの手の皮膚の感触や、手の中に微かに残る硝煙の匂いから、クロードの本当の仕事が何なのかという事に気付いていた。実の父・ローランが危ない仕事を手掛けているという事実も、ミレイユの理解を助ける一因となっていた。
 クロードは大声で笑いながら言う。
 「アハハッ、凄いなミレイユ。将来は探偵にでもなるかい」
 ミレイユの鋭い洞察力は、もうこの頃から開花し始めていたのである。
 
☆★☆★☆
 
 ミレイユはその日の事を思い返していた。
 「俺の仕事を知っていれば、俺がいつでもミレイユの側に居られる訳でない事位、ミレイユにも判るだろう」
 「・・・うん」
 「村に着いたら、俺はミレイユに『一人で生きる為の力』を与える。それが、俺がミレイユにしてやれるたったひとつの事だ」
 クロードはそう言うと、ミレイユの小さな身体を抱き締めた。
 
 パリから南へ約100キロ。
 ロワール地方・シャルトル近郊の小さな村の、人里離れた森の中にローランの別荘はあった。パリに程近い事から、ミレイユの家ではこの別荘を『パリの別荘』と呼んでいた。ここ数年は利用された形跡が無く、周囲の雑草も伸び放題といった状況だった。
 別荘の内外もそれなりに荒れてはいたが、井戸水と自家発電は何とか生きていた。電熱式の風呂や調理器具もちゃんと使える様だ。
 クロードとミレイユは部屋の掃除を行い、村の中心街に買い出しへと出掛けた。中心街へは別荘から大人の足で30分程掛かる。まだ幼いミレイユには辛い距離であるが、クロードは敢えて車を使わず、ミレイユと一緒にゆっくりと歩いて行った。
 小さな村ゆえ、中心街といっても大した事は無い。店は肉屋、八百屋、パン屋、雑貨屋、そして衣料品店の5つだけだった。他にあるのは郵便局と小学校だけで、一番近い駅でも中心街からは更に1時間は掛かるらしい。
 
 クロードは夕食の材料を買ってミレイユに持たせ、自分は着替えやら何やらを調達し、暗くなり掛けた田舎道を歩いて行った。
 帰る途中で、ミレイユは疲労と足の痛みに耐えかねてへたり込んでしまった。
 「叔父さん・・・私、もう歩けないよ・・・」
 「そうか」
 クロードがいつもの優しい笑顔で頷いた次の瞬間、鋭い目付きでミレイユを睨む。
 「それでも歩くんだ!」
 思い掛けないクロードの厳しい言葉を聞いて、ミレイユは大粒の涙を流す。
 「いいかミレイユ。ここはコルシカじゃない。お付きの運転手もメイドも居ない。今までの様に、周囲の人間が自分の為に何かをやってくれる訳じゃないんだ」
 「・・・・・」
 「例えそれがどんなに辛い事であっても、一人で何でも出来なければ暮らしていけない。小学校だって、今日来た道を毎日歩いて通わなければならない」
 「・・・・・」
 「今は辛いかもしれないが、そのうち慣れる。それまでの辛抱だ」
 いつもの優しい笑顔に戻ったクロードを見て、ミレイユは小さく頷くと、涙顔のまま買い物袋を持って歩き始めた。
 両足はもう耐えられない位に痛い。
 身体はとうの昔に疲れ果てている。
 それでも、自分の足で歩かなくてはならない。
 ミレイユはフラフラになりながらも、辛うじて別荘までの道を歩き通した。
 
 ミレイユはその翌週から小学校に通い始めた。
 クロードの言葉通り、歩いて中心街に通う事自体はさほど苦にならなくなっていた。
 しかし、1クラス10人足らずの小さな学校でありながら、ミレイユはいつも仲間外れにされていた。貧乏な身なりに関わらず、時々何処かのお姫様であるかの如き発言をする余所者のミレイユに対し、男子も女子も大きな反感を抱いていた。
 ミレイユはいつも、適当に切ったパンにチーズとベーコンをぶっきらぼうに挟んだサンドイッチを食べていた。この村には給食制度はなく、何処の家でも自分の家で弁当を作って持たせるのが当たり前になっていた。母親の居ないミレイユは、パンもチーズもベーコンも自分で切って、自分で弁当を作っていたのである。当然、他の子供が持って来る弁当と比べると、見てくれという点では格段に見劣りした。多分、味の方もそれなりであろう事は容易に想像出来た。
 「見ろよミレイユの奴。またいつもと同じ不味そうなモン食ってるよ」
 女子はミレイユに対して無関心を装っていたが、男子は徒党を組んでミレイユをはやし立てていた。
 「毎日毎日よく飽きないねぇ〜、ミレイユちゃん」
 「随分美味しそうだねぇ〜、俺にもひとつちょうだいよ」
 ミレイユはそんな程度の低い戯言には全く動じなかった。バカを相手にしていてもしょうがないとばかりに、無言でサンドイッチを頬張る。
 だが、次の一言を聞いて、ミレイユは烈火の如く怒りを顕にした。
 「母ちゃん家出しちゃうと辛いねぇ〜、ミレイユちゃん」
 ミレイユは左手で残りのサンドイッチを鷲掴みにすると、その男子の口に押し込み、右手で横っ面を平手打ちした。
 「あなた達に私の何が判るっていうのよ!」
 「何だとぉ〜っ!」
 ミレイユの平手打ちを食らった男子がミレイユに襲い掛かる。相手の男子はかなり太った体力のありそうな奴である。しかもミレイユにはケンカの経験は無い。どう考えてもミレイユに勝ち目は無かった。
 ミレイユは髪の毛を乱暴に掴まれて引っ張り回された後、顔面を一発殴られた。そして、仰向けに倒れたミレイユの腹に男子が馬なりに乗り、その上で跳ねてみせる。
 腹を圧迫されて苦悶の表情を浮かべるミレイユ。
 こんな体勢では殴り返す事も叶わない。
 ミレイユの瞳に涙が浮かぶ。
 悔しい。
 苦しい。
 悔しい。
 苦しい。
 ・・・・・悔しい。
 ミレイユは大声で泣き出した。
 
 結局、ミレイユの泣き声を聞いて駆け付けた先生がその場を収めた。
 「何があったかは判りませんが、ミレイユさんは引っ越ししてきたばかりです。皆さん仲良くしてあげて下さいね」
 先程の男子を含め、全員が「ハーイ」と気の無い返事をする。
 ミレイユは悔しかった。
 小憎らしい男子に手も足も出ずにやられた事より、自分に闘う力が無いという事実の方が、ミレイユにとってはずっと悔しかった。
 
 その後も男子達は、昼食の時間になるとミレイユを執拗にはやし立てた。そればかりか、ミレイユがサンドイッチや牛乳を口にした時を見計らって、ミレイユの身体に悪戯するようにもなった。苦しそうに咳き込んだり、牛乳を吹き出すミレイユの姿を見て愉しむ為である。あまりしつこくやると先生が来るので、悪戯を仕掛けるのは1日1回だけだったが、ミレイユの精神的なダメージはかなりのものがあった。
 それでも学校では強気な姿勢を崩さなかったミレイユだが、別荘に帰るとベッドに篭り、コルシカを出る時の唯一の所持品であるクマのぬいぐるみを抱いて、大声で泣いた。
 自分は関わり合いになりたくないだけなのに、どうしてこんなに手酷いイジメに遭わなければいけないのだろうか?
 どうして?
 どうして?
 考えれば考える程、ミレイユの心は締め付けられた様に痛んだ。
 
 「ミレイユ、一体どうしたんだ? 学校で何かあったのか?」
 ミレイユが涙顔で見上げた先に、クロードの心配そうな表情があった。
 学校から帰ってからどの位時間が過ぎたのか、一体どの位泣いたのか、ミレイユには判らなかった。分厚いカーテンの隙間から覗く陽射しの色が、もう夕暮れ近いという事を教えてくれた。
 「・・・・・」
 ミレイユは無言のままクロードを見つめる。
 (余程悲しい事があったのか・・・)
 クロードは無言でミレイユの手を引き、車へと向かった。ミレイユの右手にはクマのぬいぐるみがしっかりと握られていた。
 
 夕暮れの田舎道。
 何処に向かっているのか、ミレイユには皆目見当が付かなかった。
 30分ほど走ると、突然森が途切れ、視界が開けた。
 クロードは車を止め、ミレイユの手を引いて歩き始める。
 ミレイユはクマのぬいぐるみを抱えたまま、下を向いて歩いていた。
 ふと、クロードの歩みが止まる。
 「顔を上げてごらん、ミレイユ」
 ミレイユがゆっくりと顔を上げると、その瞳には今まで見た事の無い美しい風景が映った。
 夕陽を受けて黄金色に輝く泉。
 夕凪がもたらす微かな波が、どんな宝石よりも美しいきらめきを創り出していた。
 ミレイユは我を忘れてその美しさに見入った。
 そして、段々と心が浮き立つ気持ちを感じていた。
 クロードは何も言わずにミレイユを見守っていた。
 
 陽が落ちる。
 黄金色の輝きは琥珀色に変わり、そして夜空の星のきらめきを映す鏡へと変わる。
 初めて見る泉の美しさに、ミレイユの心の中の忸怩としたものはすっかり洗い流されていた。
 「今日はもう遅い。帰ろうか、ミレイユ」
 「うん」
 ミレイユの短い返事には、いつもの明るさと力強さが戻っていた。


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