Western Charnande
Produced by 鈴木博文
Exective Produced by 鈴木慶一
Grangfathers :
青山陽一:v,g,kbd,hca
西村哲也:g,kbd,backing vo
大田 譲:b,backing vo,perc
鈴木秀明;ds,perc,backing vo
Guests :
棚谷祐一:kbd(M2,3,6,8),acc(M10)
鈴木博文etc.:backing vo(M8)
※★印の解説は、本HP用の書き下ろしです。
M1 Western Charnande ★
作曲:西村哲也
このインスト曲は西村氏が自宅のカセットMTRでひとりで作ったものをそのままモノラルに
ミックスしてイコライジングを加え、ラジオっぽい雰囲気にしている。
他のメンバーは演奏には全く関与していないが、オープニングをちょっと変なインストに
して、それをアルバムのタイトル曲にするというアイディア自体は僕が出した。
彼はこのタイトルで3曲くらい作ったと思う。昔ライヴでこの曲のステレオフルレングス
ヴァージョンを含むデモテープを配ったこともあった。
M2 僕は火の車 ★
作詞:青山陽一
作曲:青山陽一・西村哲也
作ったのはたぶん87年。当時のGF'sに欠けていたポップでキャッチーな曲を作ろうとしたん
だけど、その割にはめまぐるしい転調やリズムチェンジなど人を驚かそうという意図が
見えすぎるかな。タイトルはもちろんディラン&ザ・バンドの引用だし、イントロも
トラフィックだったりしてやや自意識過剰な感じがしますね。その後のライヴの定番には
なりました。
ブライアン・ウィルソンの曲作りに感銘を受けていた頃に作った曲で、そういえば
『GOD ONLY KNOWS』のフォーク版、といえなくもないのがおわかり
いただけましょうか。湾岸STUDIOで初めて録った曲です。
もともとは西村氏のインスト曲であったものに私が歌をつけたもの。できたのは'85年で
その年の3月の初ライブですでにやっていたという最古の曲。かなり色々な変遷を繰り返し、
あらゆるアレンジのデモ・テープが存在しています。歌詞も初期GF'sのカントリー&
プログレ(?)路線ですね。
M5 きかん坊
作詞・作曲:青山陽一
この曲は2バージョンの録音がありまして、メトロトロンで出すきっかけになったテント・
レーベルのオーディションでは三原(重夫)氏のいたダブル・ドラム編成で'87年の初期
バージョンの方でこの曲をやりましたが、その後の湾岸レコーディングでは鈴木慶一氏を
交えたセッションの結果、メトロトロン盤のよーなアレンジになりました。
M6 ミンチとパンク ★
作詞・作曲:青山陽一
この曲はとにかくベースラインが肝だったので、デモテープのベースパターンを大田氏に
完コピしてもらった。この曲を作った88年ごろはいわゆるマッカートニー的な動きまくる
ベースに大変凝っていた時期で、大田氏の指の運動量は当時が最大だったかもしれない。
歌詞はブニュエルの映画か何かがヒントだったような気がするけどちょっともう忘れかかってる。
この曲はなんといっても幻の昭和64年から平成元年にかけて歌入れが行われている(!)という
ことは前半は昭和で後ろの方は平成、いやいや不思議なもんですねー。ここでは、風邪で
1週間寝込んで体重が5kgも減ってしまった私のナサケない病み上がり声がきけます。実は
後半、ブライアン・ジョーンズのアルバムからそのまま拝借している(慶一氏がいけないの
です)。
これはあまりライヴでアタマを使わずに演奏できる数少ない曲だった。
元来好きだったブルースやソウルのタフな感じを僕らのテイストで出したかったというか。
歌詞はちょっとおとぎ話めいていますが。後半のギターバトルを長くのばしたりして、
ライヴではわりと人気があった気がする。
僕らとしては異色というか唯一の"タテノリ"曲。録音以前のライブではもっとストレートな
パンクっぽい感じだったのだが、収録にあたって、ブルーグラス調に突然ザッパっぽい
変拍子が乱入するという変態的なアレンジになった。ところが2年後のライヴではテンポを
ぐっと落として、サザンロック+4ビートというアレンジに変わってしまったりした。
相変わらず引用好きなのが当時っぽいけどこのタイトルもライ・クーダーから。
ライブでこなれてた1stの曲の中で唯一レコーディング用に書きおろした曲。
メンバーや鈴木兄弟の前でアコギ1本でラララーっと(歌詞はなかった)歌ったのを
覚えております。こういうただれた性愛の歌(??)を安直に作ってしまう癖が私にはあります。
1stの最後に入ってるこの曲はもともと"Cornflake"なる曲でありましてライブでも良くやっていた
ものですが、ほぼ形が見えてきたところで私のワガママにより(メンバーのひんしゅくを買いましたが)
最後のアカペラ部分がエピローグ的に使用された次第。前半部は大田氏が仮歌を歌っており、今では
”加藤和彦バージョン”として珍重されています。(?)